失われた「中央集権」への回帰…オットー政権下で起きた、「巡回王権」に縛られない”文書による統治体制”への移行
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第49回
『イタリア平定を成し遂げ「王への反逆」からの「敗者復活」を果たした矢先に…27歳で夭折した王子リウドルフの悲劇的な運命』より続く。
カロリング朝との違い
しかしリウドルフの死は応えた。悲痛な逆縁である。気力が失せたのか、958年にオットーは篤い病にかかる。だが病床の彼の前にはしなければならないことが山のように積まれる。二度の内戦を克服し、長年の敵であったハンガリーを撃破したいま、急がれるのは国内の行政機構の整備である。オットーの教会政策はある程度進んだ。しかしそれも有力司教の相次ぐ死という偶然的要素に助けられての話である。マクデブルク計画は頓挫したままである。
おもえば、カロリング朝では勅令が法の基本として機能していた。王の使者である巡察吏や教会会議でコントロールされる伯爵領や司教領のネットワークが構築され、すべてが宮廷を中心として回るという支配構造が確立されていた。
それに比べればオットーの宮廷はお寒い限りである。確かにオットーは自身の戴冠式でフランケン、バイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲン各大公を宮内官職につけた。しかしそれは形式的なものに過ぎず、その宮内官職の具体的所管も文書で明記されていたわけではない。裁判、行政、軍事についても明確な規定がない。文書による通達もなく、至る所で自力救済による私闘が行われるアナーキーな状態となっていた。
巡回王権の東フランク
カール大帝は冬にはアーヘンで宮廷を営んでいた。ところがオットーは冬でも馬上の人となることが一再ならずあった。これは先にも少し触れた巡回王権(第2章)の弊である。王宮を1ヵ所に定めることができない王権の求心力欠如を表している。そもそもヨーロッパ中世の各王国はどこも割拠体制で、国王が一つところに留まり、そこから国内全土に指令を発するという統治はできなかった。したがって定まった首都というものはなかった。神聖ローマ帝国では、特定の場所が首都機能を持ち出したのは14世紀の皇帝カール4世の居城都市プラハあたりからだと言われている。
それまでは王は絶えず旅を繰り返し、自分の存在を国中に知らしめていたのである。王がおわすところがすなわち首都で、王はその移動宮廷で統治をおこなっていたのである。
東フランクでは統治を実効あるものにするには、王自身がその現場にいなければならなかった。カロリング朝のように王の意志を勅書等の公文書で告知するやり方はできなかった。王と貴族のコミュニケーションは対面の場で口頭により行われていたのだ。そのため王は王国の各地を巡回する。人口400万から500万の当時の東フランクは人口密度が1平方キロメートル当たり約10人という広漠たる大地であった。狼や熊が棲む果てしない森が広がり、1年の半分は寒く悪天候である。ここを王は移動するのである。
王の移動はすなわち宮廷の移動である。宮廷の人数は時には数千人となる。これに宮廷集会が開かれると出席貴族と従者も合わせ、人数は膨大な数になる。ところが当時の農業生産と備蓄能力を考えると、これだけの人数のための食糧を長期にわたって供給することはとてもできない相談である。宮廷が1ヵ所に留まることはできなかったわけである。王は必然的に流浪の人とならざるをえないのだ。
もっとも逆にみれば、めったに顔を見ることのない王が登場することは、王国各地にとって日常とは違ったまさに「ハレ」の事象であり、王の尊厳さを仰ぎ見ることであった。その意味で巡回王権は、王の権威を高める仕組みでもあったのである。
要するに東フランクは王と大公、伯爵、司教らとの個人的な関係(姻族ネットワーク等の人的連合)により社会が回る仕組みとなっていたのだ。そこには統一的法権力が欠如していた。これは東フランクが半ばオーラル社会で読み書きの水準が高くなかったことも一因であった。オットーの父ハインリヒは読み書きを全くしなかった。そのため文書が法の骨格をなすことがなかった。法の整備が遅れるはずである。
公文書の急増
ところがオットーが国内の行政機構の整備に取り掛かってきたころから、東フランクの非識字者の社会が様相を変えはじめるのである。歴史叙述が重視され、教養が尊ばれるようになるのだ。そして952年ごろからオットーの官房では文書が増大していった。結局、オットーは生涯約430以上の公文書を発することになるのだ。その公文書はすべてラテン語で書かれていた。そして当時、そのラテン語のリテラシーは聖職者が独占していた。
当時、今でいうドイツ語で書かれた公文書はほとんどなかった。
そもそも「ドイツ語」という言葉が最初に文献に現れたのは8世紀のラテン語文献だと言われている。おそらくそれは当時のゲルマン語の「民衆」という名詞から派生した「民衆の」という形容詞のラテン語化で、「民衆の言葉」という意味で使われたのであろう。そして後にオットーが大軍を率いてやってきた時、イタリアの聖職者たちは「民衆の言葉」を喋る連中がやってきたと、至る所で書き、やがてそれが11世紀ごろになって「ドイツ人」という意味で使われていったのである(清水朗『「ドイツ国」の成立と「国語」としてのドイツ語』一橋法学 第3巻 第3号)。
ここで言えることはこの頃の公文書急増は後のマクデブルク計画を含めた当時の司教区設立ラッシュと連動していたということである。司教区設立は統治機構の整備でもあった。こうして聖職者は公文書の増加と共に政務に深く関わっていくことになるのである。
オットーの文書覚醒は続き、オットーは第1次イタリア遠征の際にノヴァラの学者グンツォをその有名な蔵書ともども東フランクに迎えている。さらに晩年になると、彼はフランス人の最初のローマ教皇シルウェステル2世となるオーリヤックのジェルベールの数学、天文学に興味を示すのである。ある史家はこの現象をカール大帝の宮廷でのカロリング・ルネッサンスになぞらえてオットー・ルネッサンスと呼んでいる。
それまで目に一丁字なかったオットーが読み書きを習い始めたのは、40歳近くになってイタリア王の寡婦アーデルハイトを後妻に迎えてからである。
つまりきっかけはイタリアとの出会いである。以降、イタリアとの関係はオットーの晩年を決定づける。それはオットー個人だけではなく、東フランク王国全体の、ひいては後のドイツのありようを決定していくのである。
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