りくりゅう“神解説”が話題の「高橋成美」、偏差値74「渋谷幕張高校」の合格を勝ち取った“スケートへの一途な思い
ミラノ・コルティナ五輪でフィギュアスケート・ペア競技を現地から解説し、りくりゅうペアの演技を「宇宙一の演技」などと表現して視聴者を沸かせ、“神解説”と絶賛された2014年のソチ五輪同競技代表・高橋成美(たかはしなるみ=33=)氏。実は、競技生活を続けながらも難関校の渋谷教育学園幕張高校(以下、渋谷幕張)を経て、慶應大学に進学した才女として知られる。引退後は解説者やタレントとしての活躍を続けながら、日本オリンピアンズ協会の理事も務める高橋成美氏に、学生時代の勉強法について伺っていた。高橋氏の魅力の原点を今、改めて振り返ってみよう。(全3回のうち第1回)※2025年8月10日に配信した記事を再構成したものです。

【写真】「スケートに関係のある数学や物理は得意でした」と語る高橋成美さん
スケートとの出会いは物心がついた瞬間
高橋成美氏とフィギュアスケートの出会いは、彼女が「毎日のように男の子たちと一緒に走り回る日々を過ごしていた」3歳の時。小児喘息の緩和策として医師に勧められたことや、2歳上の姉がスケート教室に通っていたことも大きな後押しとなった。
「幼い頃のことはあまり覚えていませんが、初めてスケート靴を履いて、氷の上に恐る恐る立った瞬間や、滑り出した時のワクワク感は今でも鮮明に記憶が残っていて。今となっては、この時が『私の“物心がついた瞬間”だったのかな』と思っています」
フィギュアスケートの楽しさに気付かされた高橋氏は、その後も熱心にスケートを続け、8歳の時で5種類の3回転ジャンプを跳ぶほどの選手に成長。2002年には全日本ノービス選手権Bクラス(9〜10歳)で3位の成績を収めた。
その一方で、両親からの「勉強は出来なくてもいいけれど、成績の悪い子はスケートには通わせられない」というプレッシャーを背に受けながら、高橋氏は学業にも力を注いだ。
9歳の時には、星新一氏の作品との出会いによって読書の習慣が身に付き、小説の世界にも魅了されていったという。
「天才だと思った」浅田真央選手の滑り
文武両道を貫いてきた高橋氏が小学4年生の時、父の仕事の都合により一家は中国の北京に渡ることに。新たな生活の始まりと時を同じくして、高橋氏もシングルからペア競技への転向を決断した。
「日本で過ごしていた頃、2歳上の浅田真央さんの演技を見たんですけど、浅田選手の才能溢れる滑りを見た時に『到底敵う相手じゃなさそうだな……』と感じまして。当時はペア競技において世界屈指のレベルにあった中国人選手の演技に魅了されたこともあって、ペアへの挑戦を決めました」
高橋氏は北京の日本人学校に通いながらも、中国の有望な若手選手も活動する市内のリンクに出向き、実力を磨いた。
「中国人の先生やスケーターと一緒に練習させてもらっていたので、少しでも多くの情報を吸収し、上手に滑れるようになりたかった」という思いから、中国語も習得した。
インターナショナルスクールで学んだ英語よりも大切なこと
小学校5年生の時に初の国際大会に臨み、英国選手のパフォーマンスに驚かされると、「英語を勉強しなければ……」と思い立ち、インターナショナルスクールへの転校を決意。語学力に磨きをかけた。
「学校では英語も身に付けられましたが、日頃から『アウトプットのためにインプットをするんだよ!』と口酸っぱく言われたことが印象に残っていて、その思考や教えが後の人生でも役に立ったように思います。」
なお、この頃の高橋氏は数学が得意で、学校の代表として数学オリンピックに出場するほどの実力だったそう。
「スケートに関係のある数学や物理は得意でした」と自信を覗かせたが、社会科目は今でも苦手とのこと。「(クイズ番組で不正解に終わった)『平家物語』も、本は持っていますけど、なかなか頭に入ってこなくて……。歴史は今でも少し苦手意識がありますね(苦笑)」と本音を漏らした。
自分だけが特別扱いをされている悔しさはあった
スケートが盛んな東北地方を中心に、中国全土から選抜された選手たちと過ごした日々は、高橋氏の人生観に大きな影響を及ぼした。
「中国のトップ選手たちは、スケートに全てを捧げていて、競技の収入で家族を養っているケースも珍しくありませんし、命懸けで打ち込む彼らの必死さに驚かされたことも度々ありました。“外国人”扱いの私は、その競争に巻き込まれることはありませんでしたが、自分だけが特別な扱いを受けていることにどこか悔しさも感じていて。リンクに立っている時は、みんなと同じ気持ちで競技に向き合うように心がけていました」
真摯にスケートと向き合った高橋氏は、2004-2005シーズンに、中国人のコウ・ウ(高瑀)選手とペアを結成し、中国選手権で6位に。上位5組はいずれも歴代のメダリストという高レベルな大会で存在感を示し、シニアのトップ選手とも互角に戦える可能性を示した。
ペアは“危険な種目”だと思われていた
中国で順調に成績を伸ばした高橋氏だが、受験などの進路についても考えるようになる中学2年生の冬に、大きな転機が訪れる。
「もしこれからも中国でスケートを続けるつもりなら、国籍を変えてもらわないといけない」と中国のスケート連盟の方に言われてしまって。色々と悩みましたが、「さすがに国籍は変えられないな……」という結論を下し、日本に帰ってくることにしたんです。
今でこそ「りくりゅうペア」(三浦璃来選手・木原龍一選手ペア)が注目を集めているが、当時の日本では選手もまだまだ少なく、競技自体の認知度も低かったという。
「『氷の上で女の子を投げるの? 無理だよ……』と言われてしまったり、“危険な種目”と思われているせいで練習場所が限られることもあって、とにかく苦労が絶えませんでした」
帰国後はコーチの紹介により、宮城県で活動する山田孔明選手とペア結成に至るも、生活圏の異なる2人の練習時間は限られた。
渋谷幕張合格を掴んだスケートへの思い
日本で先の見えない日々を過ごしていた高橋氏の希望になったのが、中学3年生の秋頃に父が口にした何気ない一言だった。
「渋谷幕張高校は、本当に入るのが難しいんだってね……」
その一言に反応した高橋氏は、偏差値などの情報も知らないまま「もし渋谷幕張に受かったら、ペアスケートの強豪国に行ってもいいかな?」と父に尋ねて了承を取り付けると、俄然やる気に。苦手な関数の勉強にも必死に励んだ高橋氏は、やがて入試の本番を迎えた。
本番の入試では、得意とする図形の証明問題で得点を重ね、「将来は社会にとって役立つ人材になりたい」と熱弁を振るった小論文や面接でも存在感を示し、見事に合格を勝ち取った。
深夜のスケートリンクで練習に励んだ
高橋氏が入学した渋谷幕張高校は、偏差値74(みんなの高校情報より)を誇る千葉県屈指の難関進学校として知られている。卓越した進学実績もさることながら、自らの手で調べ、自らの頭で考える「自調自考」を掲げる自由な校風が特徴的で、留学生の受け入れも盛んだ。
「可愛らしいデザインの制服も好きでしたし、クラスには留学生や帰国子女の同級生も多く在籍していて、私にとっては過ごしやすい環境だったと思います」と充実した高校生活を振り返るが、学業とフィギュアスケートの両立は困難を極めた。
学校の授業を終えると、稲毛海岸にあるスケートリンクに向かい、個人の練習に取り組んだ後に一時帰宅。数時間の仮眠を取った後、夜中12時頃に再びリンクに現れ、誰もいないリンクでペアの練習に励む日々が続いた。
「これからどうやって世界を目指せばいいんだろう?」
思うような練習が積めずに不安を抱えた高橋氏は、カナダ人のリチャード・ゴーティエコーチと相談を重ね、短期の留学を経て、高校2年の時にカナダのモントリオールに渡る決断を下した。
マーヴィン・トラン選手の覚悟に心を動かされた
「年齢も近くて、息もぴったり。そして『日本代表の誇りを持って演技をしたい』と言ってくれたことが何よりもありがたかったです」
拠点を移した高橋氏は、間も無く現地でカナダ国籍のマーヴィン・トラン選手と出会い、ペアとして活動することに。
「トランは『君を絶対に守るよ』と口に出して言ってくれるんです。思っていてもなかなか言葉には出せない思いを伝えてくれた彼の覚悟に心を動かされて、揺るぎない信頼関係に変わりました」
2010-2011シーズンには、日本人ペアとしては初のジュニアグランプリファイナル優勝。シニア大会のNHK杯でも3位、世界選手権への出場も果たした。
そしてシニアに転向した2011-2012シーズンには、日本のペアとしては初のISUグランプリファイナルにも出場。世界選手権で3位となり、日本チームとしては初のメダルを獲得するなど、一躍注目を集めたが……。トラン選手の日本国籍取得が難航したことや、高橋氏の怪我の影響もあり、2012年にペア解消を発表。ソチ五輪が2年後に迫る中で、高橋氏は選手生活の岐路に立たされた(第2回に続く)。
第2回【五輪解説で人気急上昇の「高橋成美」…「渋幕」から「慶大」に進学した“銀盤の才媛”は、なぜ平昌五輪の閉幕直後に引退を決めたのか】では、ソチ五輪出場までの紆余曲折、結果から学んだ大切なこと、そして引退を決意するに至る経緯を語っている。
ライター・白鳥純一
デイリー新潮編集部
