「年金月28万円・退職金2,800万円」70歳夫婦が郊外移住…半年後に直面した「通勤なき生活」の意外な苦しみ
通勤という制約から解放されれば、住む場所は自由になる--。 そう考えて、自然豊かな郊外への住み替えを選ぶ人は少なくありません。 しかし、自由になったはずの時間が、思わぬ戸惑いを生むこともあります。 月21万円の年金と2,000万円の退職金を手に、理想の生活を求めたある70歳夫婦のケースをみていきます。
通勤がなくなると、1日が長い!
都内のマンションを売却し、栃木県内の郊外住宅地へ移住したのは、井上宏一さん(70歳・仮名)と妻の晴美さん(70歳・仮名)です。 宏一さんは1年前に完全リタイア。退職金2,800万円と、夫婦合わせて月28万円になる年金をベースとした、ゆとりあるセカンドライフのスタートでした。長年、会社まで片道1時間かけて通勤する生活を続けてきた宏一さんは、晴美さんにこう切り出したといいます。
「通勤がなくなったら、住む場所はどこでもいい。それならば、もっと環境のいいところで暮らしたいと思ったんです」
移住先は最寄り駅から車で約10分。庭付きの一戸建てで、近くには農産物の直売所もあります。 朝は澄んだ空気が広がり、満員電車とは無縁の暮らしが始まりました。
「朝、急がなくていい。それがいちばん大きいですね」
移住後は小さな畑を借りて野菜づくりを始め、近所の同年代と平日にゴルフへ出かけることも増えました。しかし、半年ほど経ったころ、夫妻はある変化に気づきます。
「1日が……本当に長いんです」
晴美さんは苦笑いを浮かべます。
「夫が家にいる時間が増えて、生活リズムをどう作ればいいのか最初は戸惑いました。会社があったときは、家にいない時間がはっきり決まっていましたから」
宏一さんも言葉を継ぎます。
「曜日の感覚が薄れてしまった。会議も締め切りもない。予定を入れなければ、1日中外に出ない日もあります」
かつて苦行に思えた通勤。しかし、その決まった移動と時間の制約こそが、暮らしに区切りを与えていたのです。
「退職直後は毎日が日曜日のようで、『今日はこれをしよう』『明日はあれをしよう』と楽しめました。長期旅行にも行きました。でも1ヵ月もすると予定のない日が増えていって、何もない1日がツラく感じることもあります。何もないことに慣れるようになるまで、もう少し時間がかかりそうです」
退職後の「時間設計」という課題
総務省統計局『社会生活基本調査』によれば、60代後半以降は通勤時間がほぼゼロになる一方、自由時間は大幅に増加します。特に無職の高齢夫婦世帯では、平日の在宅時間が長くなる傾向が顕著です。また、内閣府『令和5年版高齢社会白書』では、地域活動や趣味に参加している高齢者ほど生活満足度が高いと報告されています。一方で、役割や社会的接点の減少が孤立感につながる可能性も指摘されているのです。
退職後の課題は、経済面だけではありません。増えた時間をどう使うかという「時間設計」もまた、生活の質を左右する重要な要素です。 井上さん夫妻が感じたのは、「生活の芯」の揺らぎでした。現役時代、通勤や業務という外から与えられたスケジュールが、1日のアウトラインを形づくっていました。退職後に訪れる完全な自由は、同時に「自分で時間を設計する責任」を伴うものです。
農林水産省『農山漁村への移住・定住の推進に関する資料』でも、移住者が地域で新たな役割を持つことの重要性が示されています。ただし、静かな環境を求める移住では、その役割が見つかるまでに時間がかかるケースも珍しくありません。
郊外移住がもたらす自然や静けさは確かに魅力です。しかし同時に、通勤という「外から与えられた規律」が消えた後、自ら生活に区切りをつくる力が問われます。 移住は、住む場所を選ぶことにとどまりません。それは、1日の過ごし方を再設計することでもあります。
退職後の住み替えを考える際には、家の広さや価格だけでなく、「朝起きてから寝るまでをどう過ごすか」まで具体的に描いておくことが、理想と現実のずれを小さくする鍵になりそうです。
