秀吉を演じる池松壮亮、寧々を演じる浜辺美波

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恋愛感情が働く余地はなかった

 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では目下、藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)は浅野長勝(宮川一朗太)の娘、寧々(浜辺美波)に入れあげている。第5回「嘘から出た実(まこと)」(2月1日放送)では、織田信長(小栗旬)から、美濃国(岐阜県南部)を攻めるに際して重要な鵜沼城(岐阜県各務原市)の調略を命じられた藤吉郎。やり遂げたら侍大将にするといわれて頭をよぎったのは、そうなれば寧々と結婚できるということだった。

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 また、鵜沼城で城主の大沢次郎左衛門(松尾諭)に調略がバレてしまったときも、命乞いをしてこう叫んだ。「死にとうない! わしは侍大将になって、寧々殿と祝言を挙げるのじゃ! 夫婦になってずっと守っていくと決めたのじゃ!」。そして第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)では、命が救われた藤吉郎は、ついに寧々に向かって「お寧々殿、わしと夫婦になってくだされ!」と、真剣に申し出るようだ。

秀吉を演じる池松壮亮、寧々を演じる浜辺美波

 周知のとおり、史実においても藤吉郎は寧々と結婚する。『豊臣兄弟!』でも第7回「決死の築城作戦」(2月22日放送)で、2人が祝言を挙げる場面が描かれるようだ。だが、これについて『豊臣兄弟!』と史実とでは異なる点がある。戦国時代の現実を鑑みれば、藤吉郎の結婚に関し、恋愛感情が働く余地はなかったと考えられる、という点である。

 ドラマにケチをつけようというのではない。歴史ドラマであっても、視聴者が楽しく視聴するために一定の娯楽性は必要で、そのために恋愛は重要な要素だと思う。男女の心の駆け引きを抜きにしたら、無味乾燥なドラマになってしまいかねない。とはいえ、戦国時代の結婚とはどういうものだったのか、知っておいても損はないだろう。

 それに当たってまず、寧々の出自と、秀吉との接点について記していきたい。

侍大将に出世してから寧々と結婚

 寧々の父は上に記したように浅野長勝で、『信長公記』には、信長馬廻の弓衆3人の1人だった記されている。だが、正しくは養父で、寧々の実父は杉原定利という。その妻の朝日殿、つまり実母は長勝の妻の姉妹で、要するに、寧々は長勝にとって妻方の姪。長勝夫妻には子ができなかったので、姪を養女にしたわけだ。

 また、藤吉郎の実母、『豊臣兄弟!』では坂井真紀が演じる「なか」(のちの大政所)の妹婿は、寧々の実母である朝日殿の弟で、杉原家次といった。ということは、藤吉郎と寧々は近い関係ではないものの親戚筋であったことになる。

 2人が結婚した時期には、永禄4年(1561)説と永禄8年(1565)説がある。永禄4年だった場合、桶狭間合戦の翌年であり、まだ藤吉郎が小者(雑用を務める奉公人)から、下層とはいえ士分である足軽にようやく取り立てられた時期にあたる。その身分で、信長馬廻弓衆の娘と結婚するのは不自然だから、永禄8年8月に結婚したと考えていいのではないだろうか。『豊臣兄弟!』でも永禄8年説を採用している。

 秀吉が出世街道を進みはじめるのは、『明智軍記』の「秀吉立身之事」によれば、信長が居城を清須(愛知県清須市)から小牧山(愛知県小牧市)に移した永禄6年(1563)ごろからだった。まず美濃国の斎藤氏との争いのなかで軍功を挙げ、100貫(現代でいえば1,000万〜2,000万円ほどか)の所領をあたえられ、侍大将に出世したという。

 その後、永禄8年には信長が尾張国(愛知県西部)を平定したが、そのころのこととしては、秀吉が信長の指示で、美濃国の武士に所領をあたえる仲介をした旨が史料に記されている。つまり侍大将クラスになっていたという証左で、そうであれば、藤吉郎が寧々と結婚したのはこの年とするのが自然だろう。

当人たちの意志は関係なかった

 では、どういう経緯で藤吉郎は寧々と結ばれたのか。2人を結びつけたのは、寧々に読み書きや学問などを指導していた「養雲院殿」という女性だとされる。

 前出の『明智軍記』によれば、桶狭間合戦の翌年、藤吉郎は清洲城の塀の修理事業を鮮やかにこなして信長に評価され、それを機に、信長の馬廻衆だった木下雅楽助の寄子(寄親=この場合は木下雅楽助=の庇護下の武士)になったという。木下藤吉郎と名乗るようになったのも、雅楽助の苗字をもらってのことだった。

 養雲院殿はこの雅楽助の妹である。岡山県史第25巻所収の『森家先代実録』には、養雲院殿が藤吉郎を見込み、夫の那古屋敦順をとおして、浅野長勝に寧々と藤吉郎の結婚を勧め、信長への執り成しまでしたと書かれているそうだ(黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書)。

 ここからわかるのは、2人の結婚が当人たちの意志とは関係ないところで進められたということ、そして、いよいよ結婚するにあたっては、主君たる織田信長の承認が必要だったということである。つまり、この時代の結婚とは、家と家とが関係を強化する必要性など、当人たちの意志や事情を超えた周囲の状況や思惑によって決まるもので、さらには主君の承認も欠かせなかった。

 仮に藤吉郎が「わしは侍大将になって、寧々殿と祝言を挙げるのじゃ!」という思いを抱いていたとしても、そんなことは一顧だにされず、まったく別の力学が働いて結婚にたどり着くものだった。

恋愛結婚説の矛盾

 ところで、秀吉と寧々は戦国時代においては極めて例外的な恋愛結婚をした、という記述も散見される。その場合は、結婚時期に永禄4年(1561)説が取られている。すなわち、この時点では藤吉郎はまだようやく足軽に取り立てられたにすぎなかった。だから、寧々の実母の朝日殿は、身分差を理由に猛反発したが、その反対を押し切って藤吉郎は恋愛を貫いたという話になっている。

 そういう伝承があるのは事実だが、藤吉郎と寧々が結婚した経緯をたどればたどるほど、2人の結婚は、この時代の常識に沿って、仲介者が存在して、当人たちの意志を超えて決定され、その後に主君の承認を得たもののように思える。そもそも永禄8年説を採用するのであれば、身分の違いを理由に寧々の母が反対した理由も失われる。

 では、2人の祝言はどのように行われたのか。浅野家に伝わる史料と『森家先代実録』とでは、内容が異なっている。浅野家の史料では、段取りを整えた人物の名として、浅野長勝の兄(または父)の浅野長季、大橋重賢のほか、柴田勝家や前田利家という名前も挙げられている。また、後者によれば、前出の那古屋敦順夫妻が、信長に結婚を承認してくれるように働きかけたという。

 その後、部類の女好きとして知られるようになる秀吉のことである。寧々にほれ込んだこともあったかもしれない。だが、その気持ちを最優先すれば、当時の社会秩序を乱してしまう。やはり見えてくるのは、秀吉と寧々の結婚も、当時の武将たちが最も大切にした、みずからの領国と家を守るという目的のもとで、家同士の利害を優先した結婚だったということである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部