宝塚出身のシャンソンの女王・越路吹雪は、宝塚史上最も成績が悪かった…伝説の歌姫の生涯を支え続けた岩谷時子との不滅の友情
44年前の1980年11月7日に亡くなった、タカラジェンヌから稀代のエンターテイナーとして活躍した越路吹雪。2024年の今年、生誕100周年を記念するイベントなどが催されるなど、再注目されている“シャンソンの女王”だ。『愛の讃歌』など、今も歌い継がれるシャンソンを日本に定着させた昭和の大スターの逸話を紹介しよう。
【画像】俳優の瀧本美織と大地真央が越路吹雪の名曲をカヴァーした作品
「私はスターになれる人間じゃない」
1939(昭和14)年、宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの越路吹雪は、岩谷時子と出逢った。
同年、大学を卒業した岩谷が就職したのは宝塚歌劇団の出版部で、ファン向けの雑誌『歌劇』の編集者になった。
宝塚では稽古場と編集部の部屋は近く、出番の少ない初舞台生たちがデスクに遊びに来ることが日課だった。
いつかサインを求められるスターになることを夢見ていた彼女たちの中に、「コーちゃん」と呼ばれる背の高い女の子がいた。本名が「河野美保子」という、越路吹雪である。
「ある日、越路さんが私のところに一人で来て、サインの見本を書いてほしいと言ってきたのです。彼女に与えられた芸名は字画が多いので苦労しましたが、私なりに一生懸命考えて書いてみました。彼女が生涯使っていたサインは、この時に二人で考えた合作なんです」(岩谷時子)
越路の同期には、乙羽信子や月丘夢路をはじめ、類稀な才能と美貌を持ち合わせた“金の卵”が揃っていて、一級下には将来スター女優となる淡島千景の姿もあった。
成績が悪くて落ちこぼれの越路は、「私はスターになれる人間じゃない」とこぼしていた。それでも従来の宝塚にはない不思議な魅力があったのだろう。次第にファンがつき始めた。
戦後の大スター・越路吹雪が生まれた瞬間
しかしそんな矢先、第二次世界大戦が勃発。1944(昭和19)年には宝塚大劇場も閉鎖された。
「死ぬなら家族一緒に」といった親からの便りで、若い生徒たちは故郷に帰って行った。残った者たちは空襲に怯えながら、慰問のために巡演に出掛けなければならなかった。
越路の家族は千葉県に住んでいたが、彼女は親からの便りが来てもなぜか帰ろうとしなかった。移動演劇隊で飛び回りながら、岩谷の実家(兵庫県西宮市)に身を置くようになる。
「母と私の二人暮らしだったし、その頃はすでに気心も知れていたので過ごしやすかったのだと思います。母は娘が一人増えたように彼女を喜んで迎え、二人はまるで私より遠慮のない親子のようでした」(岩谷時子)
1946(昭和21)年、敗戦の翌年春。ファンが待ち望んだ宝塚大劇場の舞台が再開され、戦時中に禁じられていたアメリカの歌が解禁。
喝采を浴びながら、宝塚の象徴である大階段を颯爽と降りてくる友の姿を、岩谷は舞台袖から見つめていた。
戦後の大スター・越路吹雪が生まれた瞬間だった。
越路吹雪が卒業して宝塚のスターになり、さらに歌手として成功したころ、宝塚歌劇学校の卒業式では、校長先生がこんな話をしていたそうだ。
「宝塚を出た方で、歌手の越路吹雪という人がいます。あの人は、予科・本科とも卒業する時は宝塚始まって以来の悪い成績で、これから先どうなるのかと心配していました。
ところが東京に出て、ミュージカルのスターになり、越路節のシャンソンを歌って多くのファンを魅了し、押しも押されもせぬ人気者になりました。ですから、皆さんの中に大変成績が悪い人がいたとしても力を落とさずに、越路吹雪を思い出し、自分を励まして下さい」
越路吹雪の世界観を作った最高のチーム
越路吹雪は10代半ばから50代半ばで短い生を終えるまで、常に舞台人であったがゆえに、ときには人並み以上の悲しみや苦しみを背負って生きてきた。
人生での様々な体験を糧にしながら、それらを乗り越えて、多くの人々の前で歌って演じた。そのことで観客を楽しませて喝采を浴びてきたが、その分だけ自分自身の生命を削ってきたともいえる。
越路吹雪はトップスターだった。圧倒的な表現力と歌唱力。一流の劇場で一流のドレスを身にまとって行なうコンサート。
「越路吹雪の公演チケットは日本一手に入れにくい」とも言われた。その出演料の高さも他のスターの追従を許さなかった。
1966(昭和41)年の開演以来、ロングランを続けていた『越路吹雪リサイタル』を演出していた浅利慶太は、公演が十数年にわたって大成功した原因を、「優れた才能が集まったチームワークの勝利」だと述べている。
マネージャーで作詞と訳詞を行う岩谷時子。
演奏と作曲および編曲・指揮を担当する夫の内藤法美。
天才的なディレクターだった渋谷森久。
美術家の金森磐。照明家の吉井澄夫。
浅利を含めて、才能に溢れた不動のメンバーが周りに揃っていた。
越路吹雪の世界は、彼女ひとりで創り上げたものではなく、彼女を理解したスタッフがみんなで支え合うチームになって創り上げられたものだった。
岩谷が作詞家となるきっかけとなったのは、宝塚歌劇団を退団した越路がシャンソンを題材にしたレビュー『巴里(パリ)の唄』(1952年)で、トリを務める大役に抜擢されたことだった。
その時に、越路が歌うことになったエディット・ピアフの『愛の讃歌』に、日本語で歌えるようにと訳詞を書いたことがきっかけで、岩谷は作詞家の道を歩むことになった。
岩谷の書く詞は、女性ならではの視点と感性で、男性中心だった日本の音楽シーンに新しい風を吹き込んだ。しかしそれでも、岩谷は自らのこと聞かれると、「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。
越路と岩谷の友情が続いた理由
昔から「女同士の友情は成立しない」「長くは続かない」とよく言われていたものだが、越路と岩谷は宝塚歌劇団の屋根の下で出逢って以来、喜びも悲しみも共にして生きてきた。
1959(昭和34)年には、越路の結婚という大きな転機があったが、それを機にお互いが相手を思いやるようになり、ますます友情を深めていったという。
岩谷は著書『愛と哀しみのルフラン』の中で、結婚と二人の信頼関係についてこう記している。
“私たちの場合、かえってそれが友情を深める絆になり、大人の女同士の友情は歳と共に成長し深くなっていったとさえ思われる。
私は、心の中では、いつも保護者のつもりでいたが、人生経験は越路さんの方が豊かで、教えられることが多かった。
長い年月の間、お互いに裏切ることも裏切られることもなかったのは、ひたすら信じあっていたからではなかっただろうか。この信頼感は、やはり長い歳月の上に培われ積み上げられてきたものだったと思う。”
岩谷はどんなに親しくても、「その人の生活に土足で踏み込んではいけない」というルールを自分に課していた。それを最後まで貫き通してきたからこそ、越路との友情を全うすることができたのだ。
岩谷は共に歩んだ生涯の友との間で、一つ約束したことがあったという。
“歳をとって、仕事をしなくてもいい時が来たら、2人で外国へ旅をしようというのが、私たちの約束だった。彼女は歳とともに、ますます素敵になるはずの人であった。”
しかしながら、その約束は叶わないままに終わる。
1980(昭和55)年11月7日、越路吹雪は癌と闘いながら、燃え尽きるようにひとり旅立ってしまったのだ。
越路が亡くなった後、岩谷時子は悲しみの底に沈んだ。そして孤独の中で『眠られぬ夜の長恨歌』を書いた。立ち上がった作詞家は復活し、再びミュージカルの仕事で活躍。2013(平成25)年10月27日、永遠の友のもとへ旅立った。
文/TAP the POP サムネイル/2012年11月7日発売『越路吹雪ベスト100』(UNIVERSAL MUSIC)
●参考・引用文献
岩谷時子著『愛と哀しみのルフラン』(講談社)
浅利慶太著『時の光の中で 劇団四季主宰者の戦後史』(文藝春秋)
越路吹雪・岩谷時子著『夢の中に君がいる―越路吹雪メモリアル』(講談社)
江森陽弘著『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』(朝日新聞社)