─ FSC以外の非航空事業とは具体的に何ですか。

 鳥取 LCC(格安航空会社)やマイル・ライフ・インフラ領域になります。例えば、マイルやグランドハンドリングと呼ばれる空港業務の受託などです。

 ─ やはりコロナ禍の3年間は厳しいものでしたか。

 鳥取 もちろん大変でしたけれども、赤坂が「雇用は守る」と最初に宣言し、社員もまずは安心したと思います。特に私は当時、客室本部の本部長に就いており、まさに現場で仕事がなくなるという最前線の部署にいましたので、非常に辛い思いをしたことを覚えています。

 ─ どうやって社員たちを励ましてきたのですか。

 鳥取 仕事がない中で我々がとった対策は一時帰休ではなく、自学習に努めてもらうことでした。人によってその中身はそれぞれ異なりますが、自宅で自らを高めるための勉強をしてもらったのです。プログラムは会社で作り込みました。皆さん、iPadなどのデバイスは持っていましたので、勉強ができる環境を整えて、月の7~8割は自学習に当ててもらったのです。

 ─ どういった学習ですか。

 鳥取 多岐にわたります。客室本部だけのことではなく、ある意味で、これをせっかくのチャンスだと捉えて他部門の勉強をしたり、オンライン会議システムのZoomを使って、違う部署の人たちと意見交換をしたり、いろいろなことを自分たちで企画して勉強をしていました。

 ─ このことはポストコロナになって活かされていますか。

 鳥取 良かったと思います。普通なら得られない知識を蓄えることができましたからね。

 ─ 客室本部のトップとしては、社員にはどんなメッセージを送り続けていたのですか。

 鳥取 年度によってメッセージは変えていきました。ある年度では「Be a Professional.」と。もともと客室本部ではコロナ以前から、どんな状況に直面しても、プロとしてレジリエンス(困難をしなやかに乗り越え回復する力)を活かして立ち上がるぞと伝えていました。しかも立ち上がるときにはタダでは起きない。何か持って起き上がって次に備えようと。そんなメッセージを出していましたね。


CAのマニュアル整備を担当

 ─ 困難を生かして次に飛躍したいという思いとも言えますね。さて、鳥取さんはユニークな略歴での社長就任ということで話題に上っています。就職したのは1985年でしたね。

 鳥取 はい。私は東亜国内航空(当時)に入社したのですが、まさにその年の夏に日本航空のジャンボ機が御巣鷹山に墜落するという事故が起きました。

 ─ 東亜国内航空と言えば、旅客需要が急増した1960年代後半に、日本航空と全日本空輸に次ぐ東亜航空と東急グループの日本国内航空の2社が業績不振に陥り、東亜航空は全日空と、日本国内航空は日本航空と合併する計画が持ち上がりましたが決裂。東急と不二サッシが東亜航空の株主となって東亜国内航空が誕生し、88年に日本エアシステム(JAS)となりました。その後、2004年に日本航空と合併するわけですが、客室乗務員(CA)として再編の歴史をどう見ていましたか。

 鳥取 JAL・JAS合併のときはCAではなく、安全関連の仕事を担当していました。JALとJASのCAの安全マニュアルをどうやって一緒にするかといった業務です。

 同じ航空会社ではありますが、両社で結構な違いがあるなということで、当初から大変な作業だなと思いました。それでも無事に何とかやりきることができました。

 ─ 融合には、どれくらいの時間がかかりましたか。

 鳥取 真の意味での融合には数年かかりましたね。喧嘩になることはありませんでしたが、やはりお互いに長年、自分たちのやり方で仕事をしてきたわけですから、自分たちのやり方がより良い方法だと思っていたわけです。それは当然ですよね。