日本人が知らない「武士の介護休暇」意外な手厚さ
(写真:Fast&Slow/PIXTA)
現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。
医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか?
日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。
書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々--。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。
『武士の介護休暇』より、幕末期の武士が介護記録を書き残した日記について、一部抜粋、再構成してお届けします。
江戸時代の武士と介護
江戸時代の武士はどのように老親の介護を行っていたのでしょうか。
当時は現代のような介護保険体制が整っていたわけではなく、公的な介護保険サービスも存在しません。介護をする場合、基本的に家族など近くにいる人が担う必要がありました。武士の中には、日々の介護を詳しく記録している人がいて、その内容から当時の介護の様子が見えてきます。
ここでいう「武士」とは浪人や自称などではなく、幕府や藩に仕えていた旗本・御家人や藩士を指します。こうした武士は老後に隠居料が与えられるケースも多く、また家督を継いだ息子・養子のお世話になることも多かったので、すべて自前で老後の収入・貯え・住まいを用意する必要があった庶民層より恵まれていました。
ただ「介護」となるとなかなか大変な面もあったようです。武士の介護に関する史料・既存研究をひも解きながら、その実像についてご紹介しましょう。
日記に残された「武士の介護」
武士の介護を見る上で、史料がしっかりと残り、既存研究も行われている事例として、幕末期における沼津藩(現在の静岡県沼津市周辺)藩士の金沢八郎に対する介護が挙げられます。
金沢八郎の妻の名前は不明で、息子にあたる人物として金沢久三郎、黒沢弥兵衛、徳田貢、水野重教などの名が残っています。名字が違うことからも分かる通り、弥兵衛、貢、重教は他家に養子に行っており、金沢八郎の介護に関する記録は、息子の一人である水野重教が日記に残しています。
この日記は『水野伊織日記』(伊織は重教の別名)として世に知られていて、1862年(文久2年)から1892年(明治25年)にかけての日々が記録され、幕末維新における沼津藩の動きを知る上で貴重な史料です。その一方、父である金沢八郎が病気で倒れ、介護をし、亡くなるまでの様子について事細かに記されてもいます。そこから当時の武士の介護を読み解けるわけです。
史料は日記形式であり毎日を逐一取り上げると大変なので、いくつかのエピソードを拾ってご紹介しましょう。
1866年(慶応2年)に起こった異変
まずは日本史上で「薩長同盟が結ばれた年」として知られる1866年(慶応2年)4月23日の出来事に焦点を当てます。この日、水野重教の実父である金沢八郎の身に異変が起こります。このとき八郎は江戸に出府していて、「八幡」に参詣してから家に帰っていつものように酒を飲み、酔っぱらって寝床に入ったのですが、次の日の朝になると、
「言語御渋り諸状不宜旨也」
(言葉をスムーズに話せなくなり、体調全般が良くない)
という体調が優れない状態となり、医師に見せて血の検査などをしたところ、
「是中風再發之徴候也」
(これは中風〔ちゅうぶ〕再発の兆候である)
と診断されます。八郎はそれまでも中風を患っていたようなのですが、飲酒がきっかけで再発したわけです。中風とは脳卒中による半身麻痺などの後遺症のことで、現代でも言葉がうまくしゃべれない、体にしびれが出るといった症状はその前兆として知られています。
八郎はその後少しずつ回復しますが、同年の秋頃からまた体調が悪くなったようです。その後八郎は藩から暇(いとま)をもらい、国元で療養生活を送りましたが、年が明けて1867年(慶応3年)の正月4日頃から難治性の吃逆(きつぎゃく〔しゃっくり〕)がひどくなり、薬を投与しても収まらなくなります。7日には医師より、
「年来中風御病之上、御老体旧臘より咽喉御悩、彼是ニて御疲労強所へ之吃逆ニて、種々之薬剤奏功無之上は、何分此度ハ心許なき」
(年来の中風の病の上、御老体は昨年12月から咽喉の悩みもありました。かれこれの病により疲労が強くなっているところにしゃっくりがひどくなり、各種の薬の効果もないので、なにぶんにも今回ばかりは〔命が持つか〕気がかりです)
と宣告されます。終末期に難治性のしゃっくりが見られることは現代でも多く、八郎に死期が近づいている兆候ともいえます。金沢家の跡継ぎである久三郎は藩命で江戸表に滞在中であり、すぐに国元から飛脚で手紙が送られています。
介護休暇を願い出た武士
医師から打つ手なしといわれた八郎に対し、久三郎が江戸にいたため、重教は自ら看取りケアを行おうと決意します。宣告を受けた翌日の8日の日記には、
「御容体弥不宜ニ付、自分今日看病引相願候処、即願済之事」
(〔実父の〕ご容体が良くないので、私は本日藩に看病引のお願いをしたところ、すぐに承諾となった)
とあります。父の介護をしたいので「看病引」、つまり介護のための休みが欲しいと願い出て、認められたわけです。翌9日には「後嗣えの御遺訓并自分・弥兵衛へ同断」とあり、医師から命が危ういといわれた八郎は、その2日後には息子の重教、弥兵衛に対する遺訓を作っています。この辺りの潔さは武士らしいともいえるかもしれません。
その後の重教の日記は、介護の内容が中心となります。八郎は容体が悪化するにつれてしゃっくりもひどくなったようで、重教は事細かに「吃逆發」「止」の記述を繰り返し、また八郎が人と会うときは「自分御背を御さすり罷在候事」(お背中をおさすり致しておりました)などのケアも行っていました。
排せつに関する記述が登場
また1月12日には、「殿様より実父君御不快御尋としてかすていら一折御頂戴被成候」とあり、介護生活の最中、殿様からカステラをもらったりしています。しゃっくりがひどかった八郎が食べられたかどうかは分かりませんが、殿様が家来の容体を心配することもあったようです。
1月13日からは、「朝五時前小水御通」や「暁九時両便御快通」など排せつに関する記述が登場し、この時期から重教は排せつの介助(トイレまでの移動介助)も行っていたと考えられます。その後、1月19日には勘定奉行をはじめ、藩士がぞくぞくと見舞いに駆けつけ、八郎は「今世之御暇乞」(今生のお別れ)をしたり、心得・教戒などを伝えたりします。
この頃になると八郎は寝床から離れられなくなり、1月22日の日記には「依之今日御両便共ニ御床上ニて自分・弥兵衛・久三郎御世話申上」とあり、重教、弥兵衛、そしてこの頃江戸から戻っていた金沢家の跡取りである久三郎の三人兄弟で、大小便の世話をするようになります。26日頃からは、自力で寝返りもできなくなりました。
そして2月3日の日記には、「先日以来御薬ハ不被召上旨被仰聞、御決死之事ニ候得は……」とあり、先日来、八郎は薬を飲もうとせず、死を決したとの記述があります。その上でこの3日に、辞世の詩も作成。5日に八郎は亡くなりました。
現代でいうところの「介護休業」も
以上少し長くなりましたが、実際の日記には、いつどんな症状が出たのか、何を食べたのか、大小便はいつしたのか、どんな薬を投与したのか(麝香〔じゃこう〕、モルヒネ、ヒスミット、ラウタなどの薬名も日記中に記載あり)などが、詳細に記述されています。近世期の武士は文章のうまい人が多く、筆まめな人が詳細な介護記録をつけると、現代のプロの介護士が作成するような具体性があります。
なお、重教の兄嫁は舅(しゅうと)の八郎と不仲だったようで、ケアには非協力的だったようです。八郎の容体が悪化した際、兄達は江戸にいたため、結果として沼津にいた重教がケアを担い、兄達が江戸から戻った後も八郎の介護・看取りケアの中心役となっています。
なおケアを行う際、重教や兄弟が手ずから介護をしていたとは思いますが、家で働いている人(下男・下女と呼ばれた人)も多かったと思われ、そうした人たちにあれこれと指図する場合も多分にあったと考えられます。
またこの八郎のケースで一つ注目したいのは、重教が介護をするにあたって、藩に対して「看病引」を願い出ている点です。これは「親の介護をしたいから休ませてください」という、現代でいうところの介護休業のお願いです。沼津藩はこの申し出に対し、すぐに許可を出しています。
(粼井 将之)