忘れられない中国

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「美味しい中華を食べに行こうぜ!」――親友I君の誘いにふわっと乗って、中国旅行に出かけたのは31歳になった翌日だった。

1986年3月下旬、上海に降り立った僕らは、自ら立てたプランをもとに、蘇州・無錫・杭州・紹興をわずか1週間で回って来ようと考えていた。往復の航空券だけは予約して、あとは気ままに江南の春を楽しもうという料簡だった。ちょうど日本国内を旅するように中国も旅行できるものと考えていたのだが、甘かった。当時の中国は改革開放からまだ日が浅く、交通機関も宿泊施設も暢気な二人組を受け入れてくれるほど整備されていないことに気が付くはずもなかった。

試練はすぐに訪れた。列車の切符が簡単に取れない。一度だけ座席が取れた後はずっと立ち席。最後にはどの列車の切符も買えなくなった。ホテルに泊まるのも苦労した。杭州ではどこでも「部屋は空いてない」とすげなく断られ、次のホテル、また次のホテルと濡れ鼠になって歩いた時は、雨に煙って美しいはずの西湖の景色も目に入らなかった。旅のメインの中華料理も、有名店はどこへ行っても長蛇の列。食事を断念せざるを得ないこともあった。

そんな中で最後の訪問地・紹興へと向かった。駅でどんなに粘っても切符は手に入らなかったため長距離バスに変更。杭州からずいぶん長い時間バスに揺られて、やれやれなんとか紹興に到着した。

しかし、バスターミナルに着いてから困ったことが発生した。ガイドブックの地図にある場所とはどうも違うようなのだ。近づいてきたおばさんから地図を買った。目的地の紹興飯店の場所は地図に書いてあるのだが、残念ながら現在地が分からない。おばさんは地図の一点を指さしてここだと言う。だが、今度はホテルの方向が分からない。

やりとりを見ていたおじさんが近づいてきて、「紹興飯店ならあっちだ!」と顎をしゃくる。しかし、おばさんは「違う、違う!」と全く別のほうを指す。お互いに自信ありげに主張するからどちらを信じていいか分からない。そうこうするうちに野次馬がどんどん集まってきた。僕らをぐるっと取り巻いて事の成り行きを面白そうに眺めている人もいれば、この議論に参加する者も出てきて収拾がつかない。どうしたらいいんだ!

するとその時、一人の青年が現れた。僕が手に持っていた地図をさっと奪い取って、「一緒に行こう!」と歩き出す。その勢いにおばさんもおじさんも置き去りにされ、地図を奪われた僕とI君は彼の後に付いて行くしかなかった。青年の足取りは自信に満ちている。ともかく彼を信じるしかない。

「紹興飯店は分かりますか?」

「分かる」

「どこにありますか?」

「あっち」

「どれぐらいかかりますか?」

「すぐ」

白いワイシャツに黒いズボン、刈り上げた短い髪。どう見ても素朴な労働者にしか見えない青年の答えは簡潔極まりない。そして表情は硬く、笑顔も見せない。彼は早足でどんどん歩く。途中、小さな川を挟んだ向こう側に若い女性が立っていた。知り合いらしいその女性と大声で何事かを言い合う。いや、怒鳴り合う。双方の表情は険しく、口調は激しい。そのやり取りは全く聴き取れなかったが、僕は想像した。

「何やってるの? もう仕事の時間でしょ」

「そんなの知ってるさ」

「あんたの後ろの二人は誰?」

「日本人。これから連れて行くんだ」

「またやるの、あれを。やめなさいよ、そんな真似は」

「うるせえな、お前の知ったことじゃねえよ」

僕の空想はどんどん発酵していった。これはまずい展開じゃないか?彼は歩調を緩めず、僕らが眼中にないかのようにひたすら歩く。終始無言だ。20分歩いてもホテルらしい建物は見えてこない。30分が過ぎた。「すぐ」にしては遠すぎる。曲がるごとに道はだんだん細くなり、どんどん薄暗くなっていく。とうとうやっと一人が通れるような狭い路地に入り込んだ。相当やばい!きっとあのボロ屋の陰から男の仲間たちが躍り出て、さっと僕らを取り囲むに違いない。僕は覚悟を決めた。I君の目にも悲壮な色が浮かんでいる。絶対に来るな、これは!

最後の角を曲がると、突然視界が開けた。大通りに出たのだ。そして彼の指さす先には紹興飯店がでーんと構えていた。疑って、ごめん!

僕は慌ててポケットを探って、なんでもいいから手渡そうとした。指先に触れた黒のボールペンを差し出すと、とんでもないというように左右に手を振った。

「せめて名前を聞かせて!」

彼はこの時初めて笑顔を見せて、しかし、何も答えず、踵を返してさっさと行ってしまった。呆然と僕たちは立ち尽くした。見ず知らずの日本人のために貴重なはずの昼休みを費やして、なおかつ何の謝礼も受け取らずに去って行った白いワイシャツの青年。その後姿が37年の時間の彼方を遠ざかって行く、名前も何も分からないままに。

■原題:君の名は?

■執筆者プロフィール:宇野 雄二(うの ゆうじ) 教員

1955年三重県生まれ。三重県立四日市高校在学中に中国古典の世界に親しむ。静岡大学人文学部卒業後、神奈川県と三重県の県立高校に勤務。三重県在勤中に二度にわたり合計4年間、河南師範大学へ日本語教師として出向した。三重県を早期退職した後は上海の華東師範大学などで10年ほど教壇に立ち、帰国後は再び神奈川県の県立高校で非常勤講師として国語を教えている。

※本文は、第6回忘れられない中国滞在エピソード「『香香(シャンシャン)』と中国と私」(段躍中編、日本僑報社、2023年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。