天皇の「側室」と「皇后」の「意外な関係」をご存知ですか? 女官が目撃していたこと

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女官は見ていた

明治天皇やその妻・昭憲皇太后に仕えた女官として、山川(旧姓:久世)三千子という人物が知られています。

彼女は1909(明治42)年に宮中に出仕し、1914年に退官するまでの足掛け6年間、天皇家の「内側」の奥深くをつぶさに目撃しました。

彼女の当時の経験は、『女官』として1960年に実業之日本社から公刊され、世間に衝撃を与えたとされます(現在は『女官 明治宮中出仕の記』として読めます)。

現在の皇室は、政府の有識者会議が「安定的な皇位の継承」について議論を重ねていますが、「皇位の継承」といえば、かつて天皇には「側室」がいました。天皇の側室とは、どのような立場だったのか。皇室の歴史的なあり方について知るうえにおいては、重要な知識です。

明治天皇のケースについて、『女官 明治宮中出仕の記』はさまざまな知識を授けてくれます。

同書のなかで山川は、側室という役割についてこのように報告しています。

〈権典侍(ごんてんじ)は俗のことばでいえばお妾さんで、天皇のお身のまわりのお世話がその仕事、お内儀においでになる時は、交代で一人は始終御側につめていますので、何かのご沙汰(お言いになる)のお取り次ぎもすることになっていました。

やはり宿直も交代で、奥の御寝台のそばに出る人と、一間へだてた次のお部屋で、内侍と一しょに休む人とになっていましたが、その当時、御寝台のそばで寝(やす)むのは、小倉、園の両権典侍の二人きりでした〉(25〜26頁)

側室のつとめはこのようなものだったそうです。

皇后と権典侍

さらに同書は、明治天皇とその妻・昭憲皇太后の仲むつまじい様子を描くなかで、皇后と権典侍の関係についても、ほのかに描き出しています。

〈前にも申しましたように皇后宮様にお子様がお出来にならなかったので、権典侍はいましたが、皇后宮様に対しての(編集部注:明治天皇の)御愛情は深く、何かとお心使いを遊ばされ、ちょっとお風邪気味で、皇后宮様が御所においでにならないと、すぐにお見舞のお使(権典侍)が来るという有様でした。

権典侍は、いつも御座所のお縁座敷に一人は詰めておりますが、御用の時以外、滅多にお口さえおききになりませんでした〉(56頁)

明治天皇は、ある種の「必要」に迫られて側室を持ちながらも、昭憲皇太后を深く愛していた……これが、山川の目から見た天皇夫妻(そして、側室)の関係であったようです。

また、同書には明治天皇が妻をいかに愛していたかに関して、こんな記述もあります。

〈皇后宮様は一度肺炎を遊ばされましたので、冬になると侍医が御心配申し上げてご避寒を願うので、暖かい海岸においでになりました。

御健康のためというのでお許しにはなりますが、やはり何となくお寂しいのか、このお留守中はとかくお上(編集部注:明治天皇のこと)のご機嫌がよくないので、側近者は皆困りました。

「皇后宮さんが弱いから、わしより早く死なれてはたいへんだ。一日でもよいから後に残ってもらわなければね。先に死なれては皆がわしを一人にして置てはくれまいし、今時気に入るような女はないよ。だから体を大事にしてもらうために、海岸に行かせるのだ」

と、仰せになっていました。これを伺っても、ご愛情の深さがしのばれます〉

山川は、明治天皇夫妻に深い尊敬を抱いていたというので、やや二人の関係を理想的に見ている可能性はありそうですが、一方で、そばで仕えていた人間の目に夫妻の関係がこのように映っていたという事実は興味深いものがあります。

そこには、「明治」「側室」という言葉から一般的にイメージされる、保守的な雰囲気とは少し違ったニュアンスが漂っているようにも思えるのです。

こうした天皇家の人々の細部についての情報は、瑣末なものにも思われるかもしれませんが、一方で、皇室というものについて考える際の、一つのヒントにもなりそうです。

また、放送大学教授で日本政治思想史が専門の原武史さんによる「知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記」という記事によれば、同書には、天皇家の「闇」をあぶり出した側面もあるとも言えるそうで、興味の尽きない書物と言えます。

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記