豊川悦司が演じるハリソン山中。彼はそのどこか人間離れしたミステリアスなたたずまいに象徴されるように、わたしたちにとって悪魔的な存在であるといえるだろう(画像:『地面師たち』より)

Netflixのドラマシリーズ『地面師たち』が大ヒットしている。

配信直後から国内再生ランキングで1位を記録し、国内外で話題になっている。2017年に起きた「積水ハウス地面師詐欺事件」をモデルにするなど、ノンフィクションの要素を多分に含んだ社会派エンターテインメントが圧倒的に支持されているのは、現在の世相も関係しているが、おそらくもっと深いところでわたしたちの感情を突き動かしているからだ。

根底にあるのは普遍的な思考への回帰

ドラマの見所は、他人の土地の所有者になりすまし、不動産デベロッパーに詐欺を働く地面師グループの巧妙な手口をめぐって展開されるサスペンスである。

しかし、その根底には、人類史にまたがる普遍的な思考への回帰が垣間見える。それが昨今の過剰な投資熱や所有欲というものに対する反発や、その背後にある不平等感などと相まって、単なる犯罪ドラマ以上のカタルシスをもたらしているのだ。

物語は、典型的なアンチヒーローものだが、特に豊川悦司が演じるハリソン山中という極めて反社会的なキャラクターが非常に重要な位置を占めている。

ハリソン山中はただの凶悪犯罪者ではない。彼には驚くほどさめたところがある。第5話で、グループの交渉役である辻本拓海(綾野剛)を相手に、高価なウイスキーについて講釈し、その流れで突然「土地自身の本能」の話を語り出すのだ。

ハリソンは、「土地は土地として、太古から、ただ、そこに存在していただけです」と述べ、それを所有しようとする人間たちについて、「知恵が文明を生み出し、生物界の頂点に君臨させ、そして、こんなにひどい世界を作り上げた。その最たる愚行が土地を所有したがるということです」と批判してみせる。「本来は誰のものでもないはずなのに、人間の頭の中だけで土地の所有という概念が生み出され、それによって戦争や殺戮が繰り返されてきた」と。

そして、「土地自身には人間を滅ぼしたいという本能があるのかもしれませんね」などと、まるで自らの詐欺行為を棚に上げるような、あるいは正当化するかのような結論に達するのだ。

要するに、ハリソンにとって地面師詐欺は、欲深き人々に対して警鐘と教訓を与える愛のムチなのだ。そういう意味において、彼はそのどこか人間離れしたミステリアスなたたずまいに象徴されるように、わたしたちにとって悪魔的な存在であるといえるだろう。

土地にまつわる、恐ろしい寓話

トルストイの民話に「人にはどれほどの土地がいるか」という恐ろしい寓話がある。農民である主人公のパホームは、妻たちの会話に触発され、「地面」に取り憑かれるようになる。暖炉の後ろにいた「一疋(ぴき)の悪魔」がパホームの心の内を見抜き、《ひとつおまえと勝負してやろう。おれがおまえに地面をどっさりやろう――地面でおまえをとりこにしてやろう》と悪だくみの標的にされるのだ。彼は、いろいろな人々を介して、最終的にパキシール人の村にたどり着く。そこでは、広大な土地が格安で手に入ると聞いたからであった。

パキシール人の村長は、開口一番「よろしゅうございます。どうかお気に入ったところをお取り下さい――地面はいくらでもありますから」と耳を疑うような提案をする。なんと1日かけて歩いた足跡で囲った土地を「千リーブリ」均一で売るというのである。ただし、日が沈むまでに出発点に戻らなければ“ふい”になってしまう。これが村長の説明したルールだが、パホームは狂喜する。結局のところ、それが彼自身の破滅を招くというブラックユーモアで締めくくられている(以上、『トルストイ民話集 イワンのばか』中村白葉訳、岩波文庫)。

ハリソンはこの民話に登場する悪魔によく似ている。と同時に「好きなだけ土地をやる」と豪語する風変わりな村長でもある(民話では、中盤にパホームを導く人々がすべて「一疋の悪魔」の化身であったであろうことが種明かしされている)。

このような多数の人物が入れ替わり立ち替わりでパホームを地獄へと引きずり込む手の込んだ仕掛けは、あまりにも地面師詐欺的ではないだろうか。何かを必要以上に所有したいという見果てぬ夢の先には災厄が待ちかまえているのだ。

そもそも、文化人類学的にいえば、何かを持つ、所有することはとてもリスキーなことなのだ。経済学者のジャック・アタリは、『所有の歴史』(山内昶訳、法政大学出版局)で、モノや土地の集積に対する執着は、多くの古代社会で災いをもたらすとされていると指摘した。とりわけ「自分で作ったものではない財の占有は、危険となる」と。

どの物も、それを創りだした人の生命をふくんでいるのだから、自分で作ったものではない財の占有は、危険となる。当然に必要なもの以上のものを持ち、宇宙の均衡を破壊し、モノに攻撃される怖れが生じてくるからだ。モースは書いている。「あるモノの取込みは生死にかかわるほど危険である[……] 。というのも、たんに道徳的にだけではなく、身体的、精神的にもある人格から生じたこのモノ、この精髄、この食糧、この動産ないし不動産、この祭式ないし交感は、あなたのうえに呪術的、宗教的効力をおよぼすからである。」

誰かが作ったある物をうけとること、それは、うけいれた物によって自己の安定性をゆるがされ、占有〔憑依〕されることにほかならない。あたえること、それは脅迫することであり、うけとること、それは、生命を危殆(きたい)にさらすことなのだ。(同上)

ハリソンは、土地は「本来は誰のものでもない」と述べているが、人類史においては、厳密には「神々、先祖たち」のものであった。大地そのものが「神々、先祖たち」が創り出したものであり、地上に生きる人々はそれらを与えられたにすぎない。それをみだりに取り扱うことは「神々、先祖たち」の怒りを買うことを意味する。

加えて、前述のさまざまなモノたちは、生まれた場所、もとの所有者に戻ろうとする特性がある。アタリは、マオリ族の例を挙げ、他人の所有物を自由に使って、そのモノから生じた利益や報酬を返さないと、死が待ち受けているとされており、このような考え方は広範に見られるとした。

つまり、トルストイの民話の悪魔は、元来の土地の持ち主である「神々、先祖たち」の末裔といえる。ハリソンも同様である。いわば、人々の記憶の古層に眠る「神々、先祖たち」に代わって、懲罰を下す悪魔的な存在として現代に復活したのである。このような贈与のメカニズムとその根底にある倫理観は、今もなおわたしたちの心の中に息づいているのだ。

何も変わっていない本質

『所有の歴史』が示唆する文化人類学的な復讐劇は、ハリソンのせりふ「土地自身には人間を滅ぼしたいという本能があるのかもしれませんね」と奇妙に響き合う。21世紀版「人にはどれほどの土地がいるか」である『地面師たち』は、悪魔の所業が最新のものにアップデートされただけであって、「あたえること、それは脅迫することであり、うけとること、それは、生命を危殆(きたい)にさらすこと」という本質は何も変わっていないからだ。

ドラマでは、地面師詐欺に翻弄されるデベロッパーにとどまらない、所有をめぐる皮肉がちりばめられている。ホストを独占しようと躍起になる女性僧侶、少女たちを拘束し、もてあそぶことで不満を解消しようとするホスト、さらには、苦労して買ったマイホームを持っているが、夫婦関係は冷め離婚寸前にある刑事にも、それらの片鱗が示されている。愛、セックス、身体……所有という“沼”に落ちた者に降りかかる狂乱である。

わたしたちは、あたかもゲノムに刻み込まれた道徳的な心理傾向に促されるかのように、土地に復讐される人々の物語を至極当然のこととして受け止めているのではないだろうか。それこそが世界の摂理なのだと達観しているように見えるのだ。

(真鍋 厚 : 評論家、著述家)