「宗教弾圧だ!」...仏教界騒然!″過激派集団”の拠点として寺を捜索してきた検察に住職がした″復讐”とは

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1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第105回

『「結核患者を寺で預かってくれ」…大阪・釜ヶ崎の労働者と向き合う“覚悟”が試された僧侶の“決断”』より続く

宗教と国家権力

後で紹介するが、一条の葬儀で経を読み、法名を付けたのは南溟寺の住職であった戸次である。その彼の権力に対する姿勢を如実に物語るエピソードがある。南溟寺は大阪府警の捜索を受けているのだ。信仰拠点である寺が権力の捜索を受けるのは珍しい。

80年代、大阪湾・泉州沖に関西新空港の建設計画が持ち上がっていた。戸次は地元住民として建設に反対していた。航空需要の見通しや採算性から、沖合に海上空港を作るべきではないと考え、建設反対の地元住民と交流していた。

そんななか、市民6人が83年4月、デモをした後、空港建設の現地事務所を訪れ、抗議文を手渡した。すると府警貝塚署は6人を建造物侵入・不退去の疑いで逮捕する。さらに、そのうちの1人が南溟寺に出入りしていたとして5月12日、警察は寺を捜索し、機関誌やパンフレット、録音テープなどを押収した。

警察は寺が過激派の拠点になっていると考えたようだ。戸次はその場で、「宗教弾圧だ」と主張したが聞き入れられなかった。

この捜索が宗教界に与えた衝撃は大きかった。戦前から戦中にかけ大本教、ひとのみち教団(現在のPL教団)、天理教、そして仏教が反国体思想を理由に弾圧された経緯がある。その反省から憲法は信仰の自由を保障している。南溟寺の捜索について、仏教界が府警に抗議したのは当然だった。

検察官「証拠品を取りに来い」

結局、建造物侵入などの罪に問われた6人は1審で有罪(86年3月)となったが、控訴審で逆転無罪(88年4月)を勝ち取り、検察が上告を断念、無罪が確定した。

戸次の人柄、性格が現れるのは、押収された証拠品の扱いだった。裁判が終わってしばらくしたころ、大阪地検から証拠品を取りにくるよう連絡が入った。戸次は検察事務官に言った。

「そっちが勝手に持っていったものを、いらなくなったからと言って、『取りに来い』という道理がありますか。社会ではそんな道理は通用しません。普通なら、菓子折りの1つも持って、頭を下げて返しにくるものです」

検察は頑なだった。自分たちからわざわざ出向くことはないと主張した。取りにこなければ証拠品は返却しないと言い張った。これが権力のやり方かと思うと、戸次の胸には改めて怒りが湧いた。

「絶対に取りにいきません。そちらで適当に処分してもらって結構です」

しばらくすると検察事務官2人が証拠品を返却に来た。寺の所有物である証拠品を処分するのはさすがに気がとがめたのだろう。戸次は懐かしそうに語る。

「菓子折りは持ってきませんでしたけどね。私は徹底して闘おうと思ったんです。踏み込まれたうえ、寺の物を持っていかれ、なんでそれを、わざわざこっちからもらいにいかなあかんのですか」

「結核患者を寺で預かってくれ」…大阪・釜ヶ崎の労働者と向き合う“覚悟”が試された僧侶の“決断”