【濱口竜介『他なる映画と』長編書評】Au hasard Hamaguchi【三浦哲哉】

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『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『悪は存在しない』……カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアの世界三大映画祭を制覇し、米国アカデミー賞に輝いた、いま最も注目すべき映画監督・濱口竜介。

群像10月号で、これまでの映画論集成である『他なる映画と 1・2』(インスクリプト)の刊行を記念して徹底特集をした。

特集内から映画批評家・映画研究者の三浦哲哉氏による書評「Au hasard Hamaguchi」を群像WEBにて特別掲載する。

「何ともおかしいことを自分が口にしているのはわかっているのですが……」

ここまでおもしろい映画論の本を読んだのはいったいいつ以来だろう。おもしろいというのはつまり、読み始めると止まらなくなり、読んでいる間中はらはらどきどきが持続し、随所で驚くべきできごとが起き(私たちはそれを「目撃」することになり)、発見がもたらされ(私たちは「見逃し・聞き逃し」ていた! と気づかされ)、手に汗を握り、読み終えると自分のからだの芯に鈍い興奮の余韻が残っている、というような意味だ。その興奮は格別な深度を持つ。本書『他なる映画と』の表現を少し借りるなら、からだの奥底が耕される、とでもいった感覚を覚える。かくも圧倒的におもしろい映画論がいま世界に向けて刊行されたことを心から祝福したい。

濱口の文章のおもしろさは、濱口だけが持つその声の質と不可分だ。もちろん文章には実際の音声が保存されているわけではないが、その消えたはずの声のニュアンスを濱口は、加筆修正時になるべく保存しようとしたのだと述べている。そのことを語る巻頭のくだりが独特で、本書のおもしろさの質が端的に示されている。

本書の第一巻は、話された講義録を集めた「映画講座篇」である(第二巻が、書かれた「映画批評篇」)。その「まえがき」で濱口は、レクチャーをするとき自分は即興で言葉を紡ぐことにいつまでも慣れることがなかったのだと書く。「まあ、今こう言ったけど、実際はもちろんそうも言い切れないんですよ」(第一巻[以下同]、6頁)という思いが湧き上がり、「自分の声が「細る」」(6頁)ことがままあったからなのだという。それゆえいつしか、かなり綿密に準備した原稿を用意することになった。それをもとにレクチャーがなされる。

この「映画講座篇」は、それら原稿をもとに再構成されたものだが、書籍化にあたって、それらテクストの束と直面しなおしたとき、濱口は違和感を覚えることになる。「妙に堂々としたものとしても感じられた」(8頁)というのだ。「本来は「何ともおかしいことを自分が口にしているのはわかっているのですが……」という含羞とともに発せられるはずだった言葉が、放り投げられてそこに在った」(8頁)。

この違和感をどうにかするために濱口がしたのは、必要に応じて録音素材も聞き返しながら「含羞」やためらいを再度、しかるべくテキストに再充塡する作業だったのだという。

なんとも独特なスタンスというほかはない。それが本書の始まりの箇所において、自覚的に表明されている。もちろん、話し言葉が文章化されるとき「自然らしさ」に配慮するというのは、あらゆる著者が心がけることではあるだろう。だが濱口がここでしていることは、それとは少しちがう。きわめて明晰に、「身体」を焦点にすることの必要性が意識され、読者とまずそれを共有しようとしている。「「不確かなものを信じて、それを口にしようとしている私」の身体」(7頁)、その在りようを読者に差し出そうということだ。

「は」>「が」

このように独特な加筆・修正が、必要に応じてなされたのだという濱口のテクストが帯びる、独特の響きがある。それはどのようなものか。いろいろな面があり、いろいろな指摘ができるだろう。柔らかで、謙虚で、ユーモラス。どの文章にもかならず随所に圧倒的に明晰な指摘が含まれるのだけれど、それら指摘は、映画を見るときに私たちが必然的に陥る「不注意」がいかに突破されたかというプロセス──そこで得られた発見にともなう全身的な震撼とともに示される。ある意味、とても人間臭い記述である。映画の卓越した機械的記録能力を称揚し、それに接近しようとしつつ、機械にはなりきれない、そのもどかしさを同時に率直に吐露することも濱口は忘れない。「他」なるものをめぐる倫理的態度に関しては、一切の妥協を排する覚悟が示されるけれど、それがいかに「狂気」めいているか、あるいは「変態的」であるかが冷静に相対化され、読者へとオープンに差し出してもいる。

こうした濱口の文章の響きと感触について、より具体的な指摘をしてみたい。助詞の「が」に対して「は」を用いることが、濱口はおそらく標準よりも少し多い。引用してみよう。

映画を見る上で決定的にセンスを欠いているのだ、という思いに駆られることは非常に多くありました。(…)それでも映画を見ることをやめなかった理由は大きくは二つです。(…)寝て、目が覚めてもまだ続いている映画が、自分を拒んでいるようには必ずしも感じなかったということです。(…)それでも寝る前とは少し違って、その場面を見続けていられるような感覚がありました。(15頁。下線は、引用者が付加した)

これはあくまで一例だ。これら「は」は、場合によっては「が」などで置き換えることもできただろうし、他の多くの書き手はむしろそのほうがふつうと判断する箇所かもしれない。「思いに駆られることが非常に多くありました」、というように。あるいは省略することもできただろう。「理由は大きく二つです」。「寝る前と少し違って」。助詞の「は」は、あえて微細な躊躇を導入しているようにも感じられる。

映画講座篇だけではない。書き言葉を集めた第二巻、「映画批評篇」からも引用したい。

どこにも行き場のないその「最良の自分」の避難所として、ある種の手紙は書き付けられるところはあるのではないでしょうか。そして、そうした手紙が書き付けられるのは大概「夜」それも「深夜」という時間帯であることは言うまでもありません。そして、朝になって、結局出されなかった手紙もそれは数多くあるのです。(第二巻[以下同]、190頁。下線は、引用者が付加した)

濱口の「は」使用の多さが最も顕著な箇所であり、ほとんど「は」が韻を踏んでいるかのようですらある。率直に述べると、このようなくだりにこそ私は濱口に固有の声が最も鮮やかに響いて感じられて、ぐっと来ないわけにはいかない。

「は」が選択されることが──とりわけ「が」でもよかったはずのところであえてそれが選択されることが──もたらす印象について、文法をふまえながら、もうすこし詳述してみよう。「は」と「が」の機能上のちがいは複数あるが、そのうちの一つ。「が」は主格についての事項を、「ほかのすべての候補を排除して」述べる。例、「彼が勝者である」(勝者は彼以外ではない)。それに対し、「は」は主格についての事項を「対比的」に述べる。「彼は勝者で、私は敗者である」(*1)。また、このように対比される事項が明示されない場合でも、「は」を用いることで、述部で示される事柄とは対照的な側面を聞き手に「類推」させることができる。そのことによって話者の「ためらい」が表される 。

「は」は、その言明の背後にさまざまな別の事態、別の可能性を潜在させる。「が」はより断定的である。「は」を用いるとき話者は断定を保留し、模索のプロセスを持続させようとしている。つまりは、「まあ、今こう言ったけど、実際はもちろんそうも言い切れないんですよ」というニュアンスに近づく。ゆらぎの中で慎重に歩が進められていることが読者には察せられる。

また、このようなゆらぎの感触ゆえに一層、際立つのは、濱口の論述が佳境に差し掛かるとき、あえてそれを言っている、言うほかない、言うことに賭けている、という姿勢の大胆さ、勇敢さだ。躊躇と含羞の中にあくまでとどまりながら、ここぞというときに、濱口の文章は、保障のない別のどこかへと小さな跳躍を試みる。この微細なダイナミズムがあらゆるところで脈打っている。

以上が、本書のおもしろさの感触についての(あくまで)一つの説明だ。このことは同時に、濱口の文章が、極端に言えば要約不可能であるということを意味する。もちろん、論述対象となる小津や溝口やブレッソンやカサヴェテス、ホークスについて濱口が取り出した「生産原理」をめぐる驚くべき明晰な言明は、今後の作家研究に不可逆的な変更を強いる、きわめて重要なものばかりであることは疑いない(自分の専門であるブレッソン研究においては、とくにはっきりそれが言える。誰も指摘しなかったことを濱口はきわめて鮮やかに指摘している)。ただ、同時に、ここで言われているすべては、模索する濱口の「身体」の在りよう、さらには、長いキャリアの中でじょじょに形成されてきた彼自身の「生理」と切り離しえないものでもあるということだ。

Au hasard Hamaguchi

最後にもう一つ。本書が貴重なのは、いまから十数年前の、濱口が世に知られるようになるはるか以前から、現在までの言葉が通覧できる点だ。2011年に書かれた「あるかなきか──相米慎二の問い」などを読んで驚かされるのは、信じるに足る何かがそこに在ると分かったならば、どんなリスクを取ってもジャンプする、その強靭な意志がすでにはっきりと自覚されている点だ。また、濱口が過去の偉大な映画作家たちの中に見出し、特筆してきたのも、そんなふうに「賭ける」姿勢だった。「あるかなきかの小さきものが「ある」と信じる、これが「映っている」と言うことによってしか、相米の向かう先を擁護し得なかったからだ。(…)書き終えた今になって初めて確信できるのは「相米慎二は、いつも勇気を振り絞っていた」ということだ。「勇気」とは何とも陳腐な、時に危険な、使い古された言葉だが、問いを持ち続けるために必要なことはおそらくそれだけなのだ。相米慎二が選んだように、今は私もそれを選びたい」(30−31頁)。

本書には収録されていないけれど、濱口が自作について述べていた、過去の言葉も脳裏をよぎった(インタビュー記事や、『ハッピーアワー』制作についてまとめた『カメラの前で演じること』[野原位・高橋知由との共著、左右社、2015年]等)。一般的な評価が得られるかどうかなどとはまったく無関係に、スクリーンで見られるもの、聞かれるものの価値をまっすぐに肯定し、すばらしい、と濱口は自作のもっとも貴重な箇所について毅然として述べたものだ(多くは、カメラの前に立つ演者に対してのものだ)。それらを起点として、次の賭けをなすためだったのだろう。

濱口が国際的な檜舞台で称賛される前夜、『牯嶺街少年殺人事件』について書いた次のくだりも、印象的に感じられてならない。「これが不世出の作品として完成することなど誰も知らない段階では、誰の目にも触れず埋没するほかはないバックストーリーの作業や、おそらくはそれに類した入念な諸準備は、多くの関係者にはほとんど狂気のように映ったのではないか。もしかしたら自分自身も含めた、これらあらゆる不信に耐えながら、ヤンは自身の魂を削った。そのことが必要だった」(123頁)。

「ほとんど狂気のよう」な作業は、ヤンのものでもあり、相米のものでもあり、溝口や小津やカサヴェテスのものでもあり、ブレッソンのものでもある。「狂気のよう」で、「孤独」で、「リスク」と不可分の跳躍は、また、それゆえにこそ、よろこばしい偶然や僥倖、出会いによって、誰も知らない質的変化を遂げることがありうる。本書を通読したあと、濱口自身のこれまでのキャリア、『何食わぬ顔』から最新作『悪は存在しない』までの道行きの見え方がよりくっきりと浮かび上がり、それが真に驚くべきものであることがあきらかになるだろう。

それはいわゆる「サクセス・ストーリー」などではまったくない。ブレッソンの映画では、「正確に作用」する偶然を巻き込みながら、孤独な跳躍が跳躍を呼び、道なき道が真摯に、同時に行き当たりばったりに(au hasard)踏破され、未知の眺望が得られるのだった。第二巻の最後に置かれる圧倒的に稠密なブレッソン論で詳述されるとおりだ。それとまったく同様の驚くべき何かとして、濱口の映画行脚が浮かび上がるということだ。言うまでもなく、その道行きは継続中だ。つづきを見られることが楽しみでならない。

*1 泉原省二『日本語類義表現使い分け辞典』研究社、2007年。

『他なる映画と 1・2』

(インスクリプト刊・いずれも税込定価2750円)

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