愛する北陸の復興を願い歌を届ける伊藤敏博

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 国鉄(現JR)に勤務しながらシンガー・ソングライターとしてデビューした伊藤敏博(68)は今、富山に居を構え音楽事務所の社長兼シンガー・ソングライターとして40年以上も歌い続けている。北陸にこだわり情緒的な歌を作ってきた。今年1月1日に発生した能登半島地震から9カ月がたとうとしているが、今も心を痛めている。

 1981年に発売した「サヨナラ模様」が大ヒットした。国鉄・富山車掌区に所属する車掌との二刀流で活躍。旅番組のテーマ曲も歌い注目を集めた。「体を壊して」と1987年の国鉄民営化を機に退職を決意した。

 「これから君みたいな社員が必要なんだと引き留められた。退職してからは富山県知事から歌で富山を広めてほしいとうながされた」

 引く手あまただったが、体のことを考え音楽一本での生活を選んだ。東京の大手事務所に所属しホテル暮らしもした。

 「都会は都会なりに、東京は東京なりにすてきなところとか、孤独なこととか、いろんな人間模様もある。そういうのも見て、歌を作れるようにはなっていたんですけど、基本はやっぱり北陸の風土の中から生まれてくるものだったもんで」

 北陸にこだわり事務所も移り、富山を拠点として音楽活動を続けた。2度目の移籍となった事務所が倒産するアクシデントもあり個人で伊藤敏博音楽事務所を開設。当初はカラオケ教室も開き、地元ラジオ局のパーソナリティーなど幅広い活躍をしてきた。

 富山はもちろん東京、関西などでライブも開催。透き通るような歌声をファンに届けてきた。それが新型コロナウイルスがまん延し、ライブ活動が困難になった。マネジャーの提案でYouTubeも開設した。

 「年齢のことも考えて、振り返ってみればまさか43年も(音楽活動を)やってるとは思わなかったんですけど」

 自分にしか届けることができない歌があるという自負もある。

 「そのためのトレーニング、体作りや声作りって必要なんです。声帯って筋肉だから」

 週末はカラオケボックスにギターと譜面を持ち込んで歌い込む。

 「カラオケは使わない。ギターで自分のオリジナル曲を歌う。1時間半なり2時間。マネジャーとやりとりをして歌をチェックして、ああでもないこうでもないってやって。節が回ってるからダメとか」

 伊藤敏博の歌を待つファンのために努力を怠らない。しかし、2月に東京のライブ後に帯状疱疹(ほうしん)を発症。3カ月も歌うことができなかった。

 「音程は取りにくいし、声もそんなに出ない。迫力がある声も出ないっていう段階を経た」

 苦しみを吐露したが、復活の日に選んだのは5月19日。金沢駅のとなり駅、森本駅東広場で開催された能登半島地震における商店街創出事業の「森本春まつり」でのミニライブだった。

 1月1日に発生した能登半島地震の「復興を祈念するんですけど、なかなか復興に及ばない」という。ライブでは液状化現象で富山県内で大きな被害を受けた氷見を舞台に作った歌を歌うようになった。

 「『MOLD I−氷見にて』っていう歌なんですけど、それを歌うと県外の方でも思いを馳(は)せてくれる。まだ復興もそんなに進んでないので応援していこうっていう気になってくださる」と心を込めて歌っている。

 また「能登には僕の国鉄時代の同僚がいっぱい住んでる。一人一人の安否を確認するのが大変。車掌の頃は富山の独身寮に住んでいたので能登からもいっぱい来ていたんで。同僚も先輩も後輩も。だからひとごとではない」と被災者の気持ちも思いやった。

 「サヨナラ模様」でデビューしてから43年がたつ。8月には68歳になった伊藤のファンも高齢となっている。10月5日には今年3度目となる東京でのライブ(江古田 Marquee)を開催する。地震発生から9カ月が過ぎようとしている。能登半島は先日、豪雨で再び被害を受けた。愛する北陸の復興を願いながら、美しい歌声をいつまでも届け続ける。