「死」をどこで迎えるか? 間違えると、「悲惨な最期」が待っている

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だれしも死ぬときはあまり苦しまず、人生に満足を感じながら、安らかな心持ちで最期を迎えたいと思っているのではないでしょうか。

私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。

望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。

*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

病院死より在宅死

以前、ある講演会の質疑応答で、高齢の女性からこんな質問を受けました。

「わたしは点滴やチューブでベッドに縛りつけられ、人工呼吸器などをつけられて最期を迎えたくないのですが、どうすればいいでしょうか」

私はこう答えました。

「それならいい方法があります。病院に行かなければいいんです」

すると会場から笑い声があがりました。私はまじめに答えたつもりだったのですが、冗談だと思われたようです。それくらい、最後は病院に行くのが当たり前と思っている人が多いということです。

現に今も七割以上の人が、病院で亡くなっています。しかし、病院は診療が建て前ですから、患者さんが来たら検査と治療をせざるを得ません。そこで医療にイケイケの医者や、あとで家族や“遠くの親戚”に文句を言われることを怖れる医者が登場すると(たいていの場合はそのどちらかですが)、不毛な延命治療のベルトコンベアに載せられます。だから、それがイヤなら病院に行かないようにする以外にないのです。

長らく特別養護老人ホームの医師を務めている石飛幸三氏は、自ら積極的な医療に携わっていた経験から、病院での死より、高度な医療をせずに看取る老人ホームでの死のほうが、はるかに好ましいと気づき、「平穏死」という言葉でその効用を説いています。

施設での看取りも、家族さえ納得していれば、望ましい状況が可能です。施設では余計な医療的処置はしませんから。

先に書いた通り、私も高度な医療をしない在宅医療での看取りで、本人にも家族にも好ましい最期を実感しています。石飛氏や私以外にも、在宅医療に関わっている多くの医師が、病院死より在宅死(あるいは施設死)のほうが望ましいと、著書や講演で述べています。

にもかかわらず、未だにいざとなったら病院へと思っている人が多いのは、やはり死に対する心配と不安のせいでしょう。

さらには、もしかしたら病院に行けば助かるかもという、ワラにもすがる思いがあるのかもしれません。しかし、そういう思いに引かれて病院に行ってしまうと、下手な最期になる危険性が高いです。「心配だから病院に来ましたけど、検査や治療はしないでください」などと言えば、「それなら病院に来ないでください」と言われるのがオチです。

もちろん、症状によっては病院に行くべきときもあります。一般の人には、病院に行くべきか、自宅で最期を迎えるべきかの判断がむずかしいこともあるでしょう。ケースバイケースで一概に基準は示せませんが、たとえば、それまで元気だった人が急に倒れたときや、新型コロナウイルスを含む感染症などの場合は、病院に行ったほうがいいかもしれません。しかし、超高齢の人や、末期がんの人で、徐々に死に近づいている場合は、病院に行かずにいたほうがいいでしょう。

いずれにせよ、病院に行くなら、助かる可能性もあるけれど、悲惨な延命治療になる危険性もある、病院に行かないなら、そのまま亡くなる危険性もあるけれど、悲惨な延命治療は避けられるということを、心得ておくしかありません。

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