フランス哲学者「パリ五輪開会式を批判する人は無知すぎる」…心憎いほどに計算された演出に「フランスはまだまだ健在だ!」

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 国内での経済効果が2500億円にも上ると試算されたパリ五輪。そこで思い出されるのが、賛否を呼んだ開会式の演出についてだ。フランス哲学者の福田肇氏は「パリオリンピック開会式の演出に使われた伝統的な表現技法などを何も知らずに批判するのは無知すぎる」というーー。

2002年仏ワールド杯を「いっさい報道しません!」とCM流した仏テレビ局

 前回書いたが、私はオリンピックには何の関心もない。

 そういう人間にとって、オリンピックが開幕して以降の各テレビ局の報道には(毎回のことであるが)うんざりせざるをえない、というか苦痛である。どのチャンネルも、いつ観てもオリンピックの同じ試合を伝えている。他に報道しなければならない案件はないのか? それとも、オリンピックが始まるや、犯罪や社会問題が激減するのか? 国際紛争が停戦にもちこまれるのか?

 2002年のフランスで開催されたワールドカップを、「いっさい報道しません!」とフランスM6(地上波民法テレビ局)は、当時わざわざCMで流していた。国民の多くが熱狂するイヴェントを100%扱わないという自社のポリシーをあえて視聴者に強調する。日本でこれをやったら顰蹙ものだろう。しかし、ただ報道権をもっていないだけなのに、それを負け惜しみのようにあえて「自社のポリシー」に仕立て上げ、きわどいメッセージを繰り出すユーモアが、いかにもフランス一流のエッジの効いたエスプリだと、私はこれを目撃するたびに苦笑いしたものだった。

フランス人独特の露悪的な表現手法「ディスフェミスム」

 物事や観念のネガティヴな面を、挑発的あるいは野卑なしかたで露悪的に表現する一種のレトリックを「偽悪語法」(ディスフェミスムdysphémisme)という。フランスは、ディスフェミスム大国である。

 フランスの国民的アーティスト、故セルジュ・ゲンズブール (1928-1991)は、1984年「レモン・インセスト」(Inceste de Citron)という、娘シャルロット・ゲンズブール (1971-)とのデュエット曲を発表した。直訳すれば「レモンの近親相姦」。PVでは、上半身裸のセルジュと、あられもない下着姿のシャルロット(当時まだ13歳!)がベッドのうえで戯れながら、ショパンの「別れの歌」のメロディーに載せて近親相姦を謳歌している。日本のアーティストが発表したらまちがいなく〝良識〟派の総スカンを喰らうであろうこの「炎上覚悟」の確信犯的な作品は、フランスでは、Je t’aime, moi non plusとならんで、ゲンズブールの名曲のひとつに数えあげられている(もっとも、このJe t’aime, moi non plusは、セクシーな吐息やあえぎ声を入れたため、実際に日本では放送禁止の憂き目にあった)。

“アントワネット演奏”批判者はミスタービーンも批判するのか

 クロタン・ド・シャヴィニョル (crottin de Chavignol)という有名な山羊の丸いチーズがある。日本ではあまりなじみがないが、バゲットを輪切りにしてこのチーズを載せ、オーブンで焼いてサラダ菜とともに食するシェーブル・ショーというサラダがその代表的な食べ方だ。しかし、この名称、直訳すれば「シャヴィニョル村のうんこ」である。村の唯一の特産品である高級チーズに、わざわざ「うんこ」と命名しなくてもいいのでは、とチーズに同情してしまうが、この命名センスこそ、茶目っ気たっぷりな、フランス人独特のディスフェミスム的ユーモアである。

 2024年パリオリンピック開会式が、日本人をはじめ、ファンダメンタルなキリスト教信者など、〝良識〟派の方々からさんざんな悪評を被っている。ためしに、開会式を扱うYouTube動画の視聴者コメントを任意にひろってみると、いわく、

「マリー・アントワネットのあれ、ああいう故人を侮辱・嘲笑する様な行為は日本人には軽蔑感しか抱かせない」

「フランスが心配になる開会式でした」

「マリーアントワネットの生首を肯定し、キリスト教を侮辱するフランスに対して嫌悪しか持たなくなりました。キリスト教ではありませんが。笑って済ませる話でないという事を自覚してほしい」等々。

 こういう人たちは、「Mr.ビーン」を観ても、きっと「英国王室に対する不敬だ」とか「障がい者を笑いものにしている」と「正論」を盾に眉を釣り上げて非難するのだろう。

パリオリンピック開会式には、フランス独自の表現技法やコンテキストがふんだんに盛り込まれていた

 パリオリンピック開会式を、フランス独自の表現技法の伝統と歴史的・宗教的コンテキストを知らずに感情にまかせて論評するのは、批評する者の無知をさらけだすだけだから気をつけたほうがいい。

 フランスは、〝オリンピック専用〟の巨大建築物をわざわざ新設することなく、既存の歴史的モニュメントやアーキテクチャを効果的に使用してオープニング・セレモニーを演出した。その構成は、あたかもパルクール(parcours。フランス生まれの、障害物を超えるなどの移動動作で心身を鍛えるスポーツ)のパフォーマーのような、覆面をつけた聖火ランナーが、水先案内人としてパリの名所を駆け抜けながら、フランス共和国の理念Liberté(自由), Égalité(平等)、Solidarité(連帯)等々を次々に再発見していく絢爛なスペクタクルである。その道程に、(知る人ぞ知る)歴史や映画の名シーンに対するオマージュやパロディを散りばめた(ときには悪趣味な)ショーが挟まれていく。

大ブーイングを受けたマリー・アントワネットにもフランス一流の表現手法

 酷評を一身に集めた、みずからの生首を抱いたマリー・アントワネットのダンス。「セファロフォリー」(céphalophorie)という概念を知らずにこれを語るのは、「去勢」という概念ぬきで精神分析を理解しようとするのと同じだ。セファロフォリーは、斬首され殉教した聖人が、みずからの頭部をかかえて歩行するというエピソードである。フランスの聖人伝においてこの物語類型の代表者は聖ニケーズ(saint Nicaise)であり、聖ジュスト・ド・ボヴェ(saint Juste de Beauvais)であり、あるいは使徒パウロ(saint Paul)である。

 1830年フランス7月革命を描いたドラクロワの有名な絵画『民衆を導く自由の女神』(La Liberté guidant le peuple)のイメージに引き続いて、血まみれの生首を抱いたマリー・アントワネットが叫ぶ、 « Ah! Ça ira! Ça ira! Ça ira! Les aristocrates à la lanterne. Ah! Ça ira! Ça ira! Ça ira! Les aristocrates, on les pendra! »(ああ!うまく行く!うまく行く!うまく行くよ!貴族たちを街灯に吊るせ! ああ!うまく行く!うまく行く!うまく行くよ!貴族たち、俺たちはやつらを縛り首にするぞ!)と。このせりふは、1790年ころから歌い継がれたフランス革命を象徴する革命歌 Ah, Ça ira! の歌詞の冒頭である。貴族の処刑を宣言する民衆の歌を、斬首された側の、しかもセファロフォリーに伍する者として蘇生させられたマリー・アントワネットに歌わせるとは、いかにもフランスらしい不謹慎でアイロニカルな演出で小気味いい。

ショーに出てきたのは『最後の晩餐』ではなかった

 続いてキリスト教に対する揶揄だとして大ブーイングを浴びたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの名作『最後の晩餐』中の人物配置を、ドラァグ・クイーンたち(しかも中央の全身青塗りのフィリップ・カトリーヌはほぼ裸!)によって再現させたかのようにみえるショーである。しかし、これを『最後の晩餐』のパロディと受け取るのは、いささか早とちり--というかむしろ〝失錯行為〟--というものだ。

 このスペクタクルを監督したアーティスト、トマス・ジョリー(Thomas Jolly)は、「『最後の晩餐』だって? 俺はそんなところからインスピレーションを受けてないよ。わかるよね、テーブルのところにいるのはディオニソスだよ。なぜかって? そりゃ、ディオニソスが祭典の神だからさ。」と弁明している。実際、このショーがレオナルド・ダヴィンチの件の作品ではなく、むしろヤン・ファン・ベイレルト(Jan van Bijlert, 1598 ?-1671)の『神々の宴』から着想を得たことを指摘する声も少なくない。この絵画は、海の女神テティスとプティーアの王ペーレウスとの結婚を祝して神々がオリンポス山に参集し繰り広げる宴を描いたものである。題材の面からも、構図の面からも、こう考えた方がはるかに合点がいく。

 ちなみに、『最後の晩餐』は、フランス語でla Cène(ラ・セーヌ)と言い、このショーの舞台となったla Seine(ラ・セーヌ。つまりセーヌ川)とまったく同じ発音である。もし、トマス・ジョリーが、あえて紛らわしい構図を採用したうえで、観客や視聴者が河川名から無意識に連想したla Cèneをこのシーンにあてはめるようトラップを仕掛けたのだとすれば--このアーティストは、心憎いほどに計算された演出をやってのけた、というほかはない。

フランスが国家の威信をかけて世界に放った「どや?」

 セファロフォリーのマリー・アントワネットが叫ぶ旧い革命歌は、1954年の映画Si Versailles m’était conté (「もしもヴェルサイユが私に語ったなら」)の主題歌として、エディット・ピアフ(Édith Piaf)によって歌われた。そして、オープニングセレモニーのラストシーンを飾るのもまた、エディット・ピアフの永遠の名曲「愛の讃歌」である。スティッフパーソン症候群なる難病と闘病中で、歌手活動を休止していたセリーヌ・ディオンが、エッフェル塔をバックに同名曲をフランス語で絶唱する。いささか雑多な要素を詰め込みすぎにみえた一連のスペクタクルを、このベタな選曲と人選で一挙にまとめあげてしまう構成はズルすぎる。セリーヌ・ディオンの神々しいまでの勇姿と表現力に感極まった「フランス2」(国営テレビ局)の女性キャスターが泣いてしまってその後のナレーションがボロボロになったのも致し方ない。

 もう一度いうが、私はオリンピックには無関心である。しかし、アート・イヴェントとして2024パリ・オリンピック開会式を観てみて、ディスフェミスムとアイロニー、オマージュとパロディを惜しげも無く散りばめて世界に向けて「どや?」と放ったこの挑発、フランスはまだまだ健在だ、と少しうれしくなった。