妻の死に直面した光源氏が女たちに吐露した心境

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(写真:terkey/PIXTA)

輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。

NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。

この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 2 』から第9帖「葵(あおい)」を全10回でお送りする。

22歳になった光源氏。10年連れ添いながらなかなか打ち解けることのなかった正妻・葵の上の懐妊をきっかけに、彼女への愛情を深め始める。一方、源氏と疎遠になりつつある愛人・六条御息所は、自身の尊厳を深く傷つけられ……。

「葵」を最初から読む:光源氏の浮気心に翻弄される女、それぞれの転機

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人の世のはかなさを語り合い

七日ごとの法要は次々と終わるが、光君は四十九日までは引き続き左大臣邸にこもっている。光君のこうした慣れない退屈な暮らしを気の毒に思い、三位中将(さんみのちゅうじょう)(かつての頭中将(とうのちゅうじょう))は始終つきっきりで、世の中のさまざまなことを──真面目な話も、またいつものように色恋の話も、あれこれと話してはなぐさめている。そんな時、二人で大立ちまわりをした典侍(ないしのすけ)のおばば殿のことがきまって笑い話の種になるのだった。

「かわいそうじゃないか、おばば殿のことをそんなふうに軽んじちゃいけないよ」

光君はそう咎(とが)めながらも、いつも笑ってしまう。

あの十六夜(いざよい)の月に、暗い中で中将に見つかった時のことや、ほかのことも、それぞれの色恋について洗いざらい打ち明け合いながら、しまいには、人の世のはかなさを語り合い、つい泣いてしまうのだった。

時雨(しぐれ)が降り、人恋しい思いをそそる日暮れ時、中将は鈍色(にびいろ)の直衣(のうし)と指貫(さしぬき)を一段薄い色のものに衣替えして、ずいぶんと男らしくすっきりした出で立ちであらわれた。光君は西の妻戸前の高欄(こうらん)に寄りかかり、霜枯れの前庭を見ている。強い風が吹き荒れ、時雨がさっと降りそそいだ時、時雨と涙を争っているような気持ちになり、「雨となり雲とやなりにけん、今は知らず」と唐(とう)の劉禹錫(りゅううしゃく)が愛人を失った悲しみをうたった詩の一節を口ずさんで、頰杖をついている。その姿があまりにうつくしいので、中将は、もし自分が女で、この人を後に残して逝かなくてはならないとしたら、きっとたましいはこの世に残ってしまうに違いない、などとついじっと見つめてしまう。中将が近くに座ると、光君はしどけない恰好をしながらも直衣の入れ紐だけを差しなおし、襟元を整える。光君は、中将よりももう少し濃い鈍色の夏の直衣に、紅色の袿(うちき)を着ているが、その地味な姿に、かえって見飽きることない風情がある。


「葵」の登場人物系図(△は故人)

夫婦とは不思議なものだ

「雨となりしぐるる空の浮雲(うきくも)をいづれのかたとわきてながめむ
(妹は煙となって空に上ったが、この時雨れる空の浮雲のどれがいったいその煙だろう)

妹はどこへ行ってしまったのだろうね」

とつぶやく中将に、

見し人の雨となりにし雲居(くもゐ)さへいとど時雨にかきくらすころ
(亡き妻が雲となり雨となってしまった空も、時雨降る冬になり、ますます悲しみに閉ざされてしまう)

と光君は詠む。心底悲しがっているふうなので、夫婦とは不思議なものだと中将は思う。生きている時はそれほど愛情を持っているとは思えなかった。そのことについて桐壺院(きりつぼいん)からも見かねて仰(おお)せ言(ごと)があり、左大臣の厚意ある世話もあり、桐壺院の妹である母宮との間柄もある、そうしたことに縛られて葵の上から離れられないのだろうと思っていた。気の進まない結婚をやむなく続けているのだろうと、気の毒に思うこともしばしばだった。けれど、本当にたいせつな正妻として格別に重んじていたらしいと気づかされ、中将は今さらながらに妹の死が無念である。世の中から光が消えてしまったような気がして、ひどく気落ちしてしまう。

枯れた下草の中に竜胆(りんどう)や撫子(なでしこ)が咲いているのを見つけ、光君は仕えの者にそれを折らせた。中将が立ち去ると、光君は若君の乳母(めのと)である宰相の君に、母宮宛ての手紙を託した。

「草枯れのまがきに残るなでしこを別れし秋のかたみとぞ見る
(下草の枯れた垣根に咲き残る撫子を、過ぎ去った秋の形見と思って見つめています)

母上にはやはり、亡き母である葵の上のうつくしさに、若君は劣って見えるでしょうか」

若君の無垢(むく)な笑顔はじつに愛くるしい。風に吹かれて散る木の葉より、もっと涙もろい母宮は、光君の手紙を読んでこらえきれずに涙に暮れる。

今も見てなかなか袖(そで)を朽(くた)すかな垣ほ荒れにしやまとなでしこ
(お手紙をいただいた今も、若君を見て、涙で袖が朽ちるようです。荒れ果てた垣根に咲く撫子──母を亡くした子なのですから)

朝顔の姫君から来た返事

どうしてもさみしさの拭えない光君は、この夕暮れのもの悲しさはきっとわかってもらえるだろうと、朝顔の姫君に手紙を送る。ずいぶん久しぶりだったけれど、いつものことではあるので、姫君に仕える女房たちは気にすることもなく手紙を見せた。今の空の色と同じ唐(から)の紙に、

「わきてこの暮(くれ)こそ袖は露けけれもの思ふ秋はあまたへぬれど
(今日の夕暮れはとりわけ涙を誘い、袖を濡らします。もの思いに沈む秋は、もう何度も経験しましたのに)

時雨(しぐれ)は毎年のことですが」

とある。その筆跡を見ても、いつもより一段と心をこめてていねいに書いていることが伝わってきて、「これはご返歌しなければなりません」と女房たちも言い、また姫君もそう思ったので、返事を送ることにした。

「喪に服していらっしゃることを案じながらも、とてもこちらからはお便りできませんでした」とまずあり、

「秋霧に立ちおくれぬと聞きしよりしぐるる空もいかがとぞ思ふ
(秋に、女君に先立たれてしまったと伺いましてから、時雨の空をどのような気持ちでご覧になっているかと思っておりました)」

とだけ薄い墨でしたためられて、見るからに奥ゆかしい。

何ごとにつけても、実際に逢(あ)うと想像よりすばらしいという人はまずいないのが世の常なのだが、つれなくされるとますます惹かれるのが光君という人の性分なのだ。

朝顔の姫君はそっけなくはあるけれど、ここぞというときには必ずしみじみした思いに共感を示してくれる。こういう関係だからこそ、互いにずっと思いやりを持ち続けられるというもの。たしなみや風流も度が過ぎるとかえって鼻についてしまう。紫の姫君をそんな女には育てたくない、と光君は思う。きっと二条院の対(たい)の部屋で、人恋しく過ごしているのだろう。紫の姫君を忘れたことはないけれど、それは母親のいない子をひとり置いてきたような気掛かりであって、逢えないことでどんなに自分を恨んでいるかと心配するのとは違い、まだ心が楽であった。

闇に閉ざされたような心持ち

すっかり日が暮れた。光君は灯火を近くに持ってこさせ、気を許した女房たちを呼んで思い出話をし合った。中納言の君という女房は、前からずっと光君と内々で関係を持っていたが、葵の上の喪中にあって、光君はそんな素振りを微塵(みじん)も出さない。それを、亡き人への深い思いやりだと中納言の君はありがたく思っていた。ただの話し相手として、光君は打ち解けて口を開く。

「こんなふうに幾日も、前よりずっと親しくいっしょに暮らした後に、離れなければならなくなれば、きっとたまらなく恋しくなるのだろうね。妻を亡くした悲しみはそれとして、あれこれ考えてみると、つらいことが多いね」

それを聞いて女房たちはみな涙を流し、

「今さらどうにもできないことは、闇に閉ざされたような心持ちにはなりますが、仕方のないことです。けれどあなたさまがこのお邸(やしき)を見限って、ふっつりいらっしゃらなくなることを考えますと……」と、もう言葉が続かない。それを見て胸が痛み、光君は言う。

「見限るなんてことがあるものか。よほど私が薄情な人間だと思っているのだね。もっと長い目で見てくれれば、きっとわかってもらえるのにな。けれどこの私だって、いつどうなるかわからないからね」

と、灯火を見つめる目元が涙に濡れて、神々しいほどうつくしい。

葵の上がとくべつかわいがっていた幼い女童(めのわらわ)が、両親もおらず、じつに心細そうにしているのに気づいた光君は、それも無理ないことと思い、

「あてき、これからは私を頼らなければならなくなったね」と声をかけると、童は声を上げて泣き出す。ちいさな衵(あこめ)をだれよりも黒く染めて、黒い汗衫(かざみ)や萱草(かんぞう)色の袴(はかま)を身につけて、ずいぶんとかわいらしい。

心細くてたまらない女たち


「昔を忘れないでいてくれるなら、さみしいのをこらえて、まだ幼い若君を見捨てずに仕えてください。生前の名残もなく、あなた方まで出ていってしまったら、こことのつながりも切れてしまうだろうから」

と、みなが気持ちを変えないようにあれこれと口にするが、さてどうだろう、光君が訪れるのもますます途絶えがちになるかと思うと、やはり女たちは心細くてたまらない。

左大臣は、女房たちの身分によって差をつけながら、身のまわりのものや、格別な葵の上の形見の品を、あまり仰々しくならないように気をつけて、みんなに配った。

次の話を読む:8月11日14時配信予定


*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)