京都御所(写真:t.sakai / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は恥とされていた「宮仕え」を、紫式部がなぜ決断したのかについて解説します。

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「宮仕えは恥さらし」とされていた平安時代

平安時代には、宮中で女官として宮仕えすることは、軽薄で恥さらしなことであると思われていました。紫式部や清少納言など、実際に宮仕えした女性たちもそう感じていました。

では、なぜ紫式部は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮でもある彰子に仕えることにしたのでしょうか?

紫式部が「これがその理由です」と書き残しているわけではないため、想像するしかありませんが、1つには、道長が紫式部の出仕を促したのではないかと推測されています。紫式部が生まれた家と、道長の家には、大きな縁がありました。

まず、紫式部の父・藤原為時は、道長の尽力により、越前守というポストに就くことができました。そして、為時の従姉は、道長の家司(貴族の家政を司る職員)を務めた源高雅の母でした。

寛弘6年(1009)に高雅は出家していますが、道長は「年来、他心なく従ってくれた者だ。この度の出家は、悲しいことである」と信頼する家司の出家を惜しんでいます。

為時の家は一族を挙げて道長に仕えていたので、道長もかねて、紫式部の存在くらいは知っていたと思われます。藤原為時の娘であり、藤原宣孝の妻(未亡人)として認識していたのではないでしょうか。

また道長は、前々から、詩歌の会を催したり、書物を収集させたり、文事(学問や芸術)に深い関心を寄せていました。

紫式部も若い頃から書物に親しみ、自らも物語を執筆します。道長はそのことを聞き、インテリの紫式部を出仕させることは、娘(彰子)にとって教育的観点からもいいのではと考えたのではないでしょうか。

為時は紫式部の宮仕えをどう思っていたのか

「娘御を女官に」という話は、もちろん最初は、紫式部の父・為時にあったでしょう。

為時としては、道長に恩義を感じていたでしょうから「嫌」とは言えない。それに、娘が宮中に出仕することは、自分の家の繁栄につながると、為時の胸に功利心が宿ったかもしれません(それとも、世間一般のように、宮仕えは家の恥であり、娘の出仕は気が進まぬと思っていたのでしょうか)。

父から宮仕えの話を聞いた紫式部も迷ったことでしょう。それでも結局は出仕することになります。

宮仕えは恥ずかしいことだと思いながらも、どこか違う世界を見てみたいという好奇心や、夫がいない寂しさを紛らわしたいとの気持ちもあったのかもしれません。寛弘2年(1005)頃のことでした。

紫式部の宮仕えの日々を知るうえで貴重な史料が、『紫式部日記』(以下『日記』)です。記述を見て、宮中での生活をのぞいてみましょう。

紫式部が出仕してから3年後の寛弘5年(1008)秋、中宮・彰子は懐妊していました。

彰子は、父・藤原道長の土御門殿(邸)に滞在。『日記』は、この土御門殿でのたたずまいの描写から始まります。


土御門殿跡(写真: なみこし / PIXTA)

「秋の気配が立ちそめるにつれ、ここ土御門殿のたたずまいは、えも言われず趣を深めている」と。

鮮やかな空、色づく池の畔の木々、草むら。秋の気配漂う道長の邸は、鮮やかな色に染まってて、そう遠くないところから、絶え間なく読経の声が聞こえてきたそうです。道長が娘・彰子の安産を願い、僧侶たちに読経させていたのでした。

紫式部は出産間近の中宮・彰子の様子を「お付きの女房たちがとりとめのない雑談をするのをお聞きになりながら、出産間近で、お身体も大変に違いないのに、それをさりげなく隠しておられる」と書きとどめています。

そして、そんな中宮の様子を見て「つらい人生の癒やしには、求めてでも、このような方にこそお仕えするべきなのだと、私(式部)は日頃の思いとは変わって、すべてを忘れてしまう」と紫式部は感想を漏らすのです。

紫式部の宮仕えの日々は、気が重いこともあったでしょう。いや、ほとんどがそうだったかもしれません。

何しろ紫式部は、好奇心はあっても、引っ込み思案で内向的な性格。多くの女房たちに交じって、宮廷で働くことは、精神的にきつかったと思います。

紫式部の彰子に対する思い

そんな紫式部の清涼剤ともいえるのが、自身が仕える彰子の奥ゆかしい態度だというのです。これを主人への追従ととる向きもありますが、そのような追従をわざわざ紫式部が私的な日記に書き込む必要はないでしょう。

彰子は、長保元年(999)に入内。当時、彰子はわずか12歳でした。しかも、一条天皇には、すでに寵愛する中宮・定子がいたのです。

定子の父は、藤原道隆。道隆は、道長の兄でした。彰子の入内の直後、定子は一条天皇の第一皇子・敦康を産みます。翌年、彰子は中宮、定子は皇后となるのですが、天皇の愛情は定子に注がれていたと思われます。そして長保2年(1000)、定子は女子を出産しますが、直後に亡くなってしまいます。

亡くなった後も、一条天皇は定子に思いを寄せていました。そのため、一条天皇と彰子の間にはなかなか子ができませんでした。

彰子が懐妊するのは、入内から9年を過ぎた頃なのです。彰子には、出産の重圧というものが、かかっていたでしょう。それにもかかわらず、そのような素振りを見せない中宮・彰子。紫式部ならずとも、彰子の姿に感動するのではないでしょうか。

だからこそ、紫式部が「つらい人生の癒やしには、求めてでも、このような方にこそお仕えするべきなのだ」と『日記』に書いたのは、言葉だけの追従ではないと思うのです。

さて、娘・彰子が男子を出産するか否かは、道長にとっても大きな関心事でした。娘が男子を産めば、その子はいずれ天皇に、そして自らは外戚(母方の親戚)として権力を振るうことができるからです。

彰子の安産を祈る紫式部

そうした事情もあり、土御門殿では、夜明け前から、僧による祈祷が始まっていました。僧侶たちは、我も我もと声を張り上げ、祈祷する。その声は「ものものしく厳か」だったようです。

僧侶の祈祷の声を聞きつつ、紫式部も、主人・彰子の安産を心の中で、祈っていたかもしれません。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)