イスラエルの国旗(写真:shimon bar/PIXTA)

2023年10月に起こったパレスチナ自治区ガザ地区のイスラム組織ハマスによるイスラエル襲撃は世界に衝撃を与えました。長期化するパレスチナ問題の根源を理解する一助として、今回はイスラエル建国の歴史について、解説します。

※本稿はラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエール著、村松剛訳『[新版]おおエルサレム! アラブ・イスラエル紛争の源流 上』から一部抜粋・再構成したものです。

離散と悲運が産んだパレスチナの地へのつながり

ベン・グリオンの民にとって、自由へのこの道は長く苦悩にみちたものだった。彼らの祖先ヘブル人たちが、その指導者アブラハムに神が約束したこの土地に最初に姿を現わしたときから、この夜の投票がそれを返してくれるまで、苦悶と戦いの4000年が流れている。

メソポタミアの出身地からここに到着してまもなく、ヘブル人たちは追放され、1000年にわたる亡命と奴隷とそして戦いの生活を課せられた。その後モーゼに導かれて帰国し、ついにユデアの丘の上に最初の主権国家をうちたてるのである。

しかしダヴィデとソロモンとの両王の下での絶頂期は、1世紀とつづかなかった。アフリカ、アジア、ヨーロッパの街道の交叉点に位置し、周囲には不断の誘惑のたねとなる土地に住んで、彼らは次の1000年間、近在の諸帝国からの攻撃に耐えねばならなかった。

アッシリア、バビロン、エジプト、ギリシャ、ローマが次々に彼らを猛攻し破壊し、再度にわたる追放と神殿の破壊という重罰を彼らに課した。モリアの丘に立つ神殿は世界最初の唯一宇宙神、ヤハヴェの栄光に捧げられたものである。

しかしこの二度の離散と彼らにつきまとった悲運の連続こそが、父祖の地への肉体的かつ神秘的なつながりを生み、これを存続させたのだった。世界の諸国民はこの夜、その請求権を認めた。

ユダヤの民の不運は、愛を説く一宗教の発展とともにはじまった。異教徒大衆を転向させることに熱心だったキリスト教会の初期の教父たちは、彼らがひろげていた新しい信仰とユダヤ教とのあいだの溝を強調することに、全力をふるった。

ビザンツの皇帝テオドシウス2世は、この意志を立法化して法典とし、ユダヤ教を分派と宣言して、ユダヤ人を法によって隔離した。つづいてフランク族の王ダゴベールは、彼らをガリアから追放し、スペインの西ゴート族は彼らをキリスト教に引きいれるためにその子供を奪った。

6世紀に、ビザンツのもうひとりの皇帝ヘラクリウスは、ヘブルの祭儀の実行を非合法化した。十字軍の時代とともに、組織的迫害が訪れる。サラセン人ははるかとおくに生活していたが、それでも彼らは危険だった。ユダヤ人たちは手を伸ばせば届く範囲の、ヨオロッパ諸国に住んでいる。キリスト教信仰の戦士たちは彼らにおいて、その宗教的情熱をいっそう手近にかつ容易にみたすことができたのである。

エルサレムに向かう途上で出会ったユダヤ人集団を次々に殺戮したとき、その犯行を合法化するために叫んだことばは、デウス・ヴルトだった。

「神がそれを望みたもう」

大部分の国々が、ユダヤ人に不動産の所有を禁じた。中世の職人や商人の組合にはいるみちも、彼らにはひとしく閉ざされていた。法王の勅令の1つが、キリスト教徒に金融業を禁じ、ユダヤ人たちは不名誉な高利貸業に追いこまれた。法王庁はさらにキリスト教徒にたいして、ユダヤ人のために働くことを禁じ、彼らといっしょに生活することをさえ禁じた。

1215年に絶頂に達した人種差別

この人種差別は、1215年に絶頂に達する。このとし開かれたラトランの第4回公会議は、ユダヤ人を真の別種族とすることに決し、彼らに明瞭な徽章をつけることを強制した。イギリスではそれは、モーゼが十戒を受けた律法の板をあらわす徽章だった。フランスとドイツとでは、黄色い星をあらわす黄色の楕円で、のちに第三帝国がガス室に送る犠牲者を示すために、これを採用することになる。

イギリスのエドワード1世とフランスのフィリップ美貌王とは、彼らの王国に住むユダヤ人たちを毎日放逐し、この措置はその財産の大部分を横領することを可能にした。ユダヤ人たちは子供を祭壇で殺しているとまでいわれ、また恐しい黒死病を流行させたのも彼らであるとされた。

ユダヤ人たちは蜘蛛の巣を練りあわせたものと、蛙の太腿とトカゲとキリスト教徒の臓腑と聖餅とからつくった粉を井戸に投じて毒を蔓延させたことになっていたのである。この告発の結果、200以上のユダヤ人の集団が完全に掃滅された。

これらの残虐の諸世紀を通じて、ユダヤ人がほぼ正常な生活を送り得た唯一の国は、回教国王のスペインだった。ここではアラブ人の啓蒙的支配のもとに、ユダヤの民はその亡散の全期間を通じてかつてなかった繁栄を享受した。

しかしキリスト教徒による再征服が、この例外に終止符を打つ。1492年、クリストファー・コロンブスを新大陸の発見に送り出したその年に、フェルディナンドとイサベラとはスペインのユダヤ人を追放した。プロイセンでは、ユダヤ人たちは車に乗る権利と、安息日に火を点じるためにキリスト教徒の奉仕を受けることとを禁じられた。動物の場合と同様に、彼らが町にはいるときには入市税を課せられた。

イタリア半島でも、ユダヤ人への扱い方は人間的とはいえなかった。タルムードの所持は、ここでは犯罪を構成した。毎年ローマは気晴しのためにサーカスのむかしながらの残酷さを復活させ、肥らせたユダヤ人たちを半分裸で闘技場をガチョウのように走らせた。

ヴェニスはゲットオ・ヌオヴォ――新精錬所――とユダヤ人の強制居住区を名づけることによって、世界の語彙を増した。大部分の町々のゲットオでは住民の数は法によって定められ、若い人びとはだれかが死んで定数に空きができるまでは結婚を待たねばならなかった。

ポーランドで起こったこと

ポーランドではユダヤ人は一時期、かつてスペインで享受したのにほぼ比せられる自由と繁栄とを楽しんだ。政府の重要な役職につくことさえ、許されていたのである。コサックがポーランドに抗して蜂起したとき、主に犠牲とされたのがユダヤ人だった。ロシア人のユダヤ人迫害の兇暴さと手ぎわのよさとは、史上にも前例を見ないものであって、10年とたたないうちに10万以上のユダヤ人が消えた。

ツァーがその帝国の国境線をポーランドを経て西に押し出そうとしたとき、中世のそれに似た残虐の新時代が、世界のユダヤ人人口のほとんど半ばに達する住民を襲った。歴代のツァーはユダヤ人を追いたて、西部国境に設置された植民地帯、史上最大のゲットオに、彼らを閉じこめた。若者は12歳から25年間、徴兵に応じることを強いられた。

コシャー(ユダヤ教の儀式に従って血を抜いて処理した肉)の肉と安息日のろうそくには、特別税が課せられた。ユダヤ人の女たちは娼婦の黄色い印を身につけている場合をべつとして、大きな大学都市で生活することを禁じられていた。

1881年のアレクサンドル2世の暗殺の翌日には、大衆は公然とユダヤ人虐殺を奨励された。恐怖と死との同義語である新語、ポグロムが生まれ、このことばは厖大なロシアの町から町へと響きわたった。爾後この東方の国の呪われた人びとには絶滅を逃れるすべはなく、その宗教への熱狂的な執着と伝統への情熱的な遵守のうちに、わずかに身をかがめているほかなかった。

フランス革命以後、西方の国々のユダヤ人たちは、多少はうらやむに足りる運命を享受していた。フランスでもドイツでもイギリスでも、19世紀は彼らを監視から解き放し、解放の恩恵を与えた。しかしユダヤ人の運命が決定的な転換をとげるのは、この人権宣言の都においてである。

1895年1月の、ある朝のことだった。この日、パリの士官学校の大校庭に集まった群衆のなかで、黒い立派なあごひげに飾られた男が、しきりに足ぶみをしていた。オーストリアのジャーナリストで、ヴィーンの最大の新聞のパリ特派員である。

彼の目前には、4000人の直立不動の将兵と向かいあって、砲兵大尉の細い孤独な影が立っていた。愛国の情熱の暴走に身をふるわせている群衆は、死刑囚の処刑公開を見に集まる中世の人びととそっくりだった。ある意味でこの朝の見世物は、まさに死刑執行だったのである。それはフランス陸軍の一将校の、降等の公開だった。

ジャーナリストを予言者に変貌させた光景

死刑執行人の役をつとめる準士官、ブウクザンが進み出た。何らの感情も示さずに彼は大尉のサーベルをとり、絞首刑囚の首を綱が砕くように、膝の上で刀身を折った。次に士官の肩章をひきちぎり、

――アルフレッド・ドレフュース、貴下はフランスのために武器をとるに値いしない。

観衆にざわめきがひろがり、やがてそれは復讐の不吉な叫びとなった。

――裏切り者を殺せ。ユダヤ人を殺せ。

この光景はジャーナリストを預言者に、変貌させることになる。アルフレッド・ドレフュースと同じように、テオドール・ヘルツルはユダヤ人だった。そしてドレフュースと同じように、その国の社会に完全に溶けこんだ同化ユダヤ人であって、種族や宗教の問題には無関心だった。

それでも彼が青年期をすごしたヴィーンで、彼自身その一員ではない東方のユダヤ人大衆の運命についてのはなしを聞いたことがある。そしていま、冬のパリの凍てつく風に吹きさらされる広場での、世界でもっとも高い文化をもつ人びとの叫喚は、コサックの野蛮な叫びを突然彼に思い出させた。雷電のように、天啓が彼を襲った。

アンティ・セミティスムの火山は決して消えることがなく、民族国家の世紀にはユダヤ人はナショナリズムの発展の犠牲とされる。彼ら自身が国家を形成しないかぎり、生きのびることは不可能であろう。

打ちひしがれて、テオドール・ヘルツルは刑場をあとにした。しかしこの朝彼の胸の底に芽生えた兇暴な革命は、1つのヴィジョンとして結晶し、ユダヤ人の運命と20世紀の歴史を変えることになる。

宗教的シオニスムが、政治的シオニスムとなった。2カ月後にヘルツルはこのヴィジョンに現実の姿を与え、100ページばかりの宣言文を書きあげた。この小冊子は福音書となって、ユダヤの民を解放へと導いてゆく。ヘルツルはこれに、もっとも単純な表題を与えた。ディ・ユーデンシュタット――ユダヤ人国家。

「国家を望むユダヤ人はそれを手に入れるであろう。このことばを書きながら、(そう彼は日記にしたためる)私には奇妙な物音がきこえてくるような気がする。あたかも鷲が、頭上を羽音高く飛翔するかのようである」

「バーゼルで、私はユダヤ人国家をうち樹てた」

2年後、ヘルツルはスイスのバーゼルの「カジノ」で開かれた第1回世界シオニスト会議の席で、シオニスムの運動を正式に発足させた。空想と現実主義とがまざりあった、奇妙な会議である。会議は国家の創設を決議したが、どこにどうしてということはわからなかった。なぜならオスマン帝国が、パレスチナのすべての門戸を閉ざしていたからである。


それでも代表たちは国際執行部の委員を選出し、パレスチナの土地購入のための民族基金と銀行とを創設した。さしあたりは彼らの空想の熱狂の中にしか存在しない国家のために、2つの紋章までも選んだのである。すなわち、国旗と国歌とである。

「バーゼルで、私はユダヤ人国家をうち樹てた」

ヘルツルは同じ夜、その日記で結論づけている。

「大声で今日私がそういえば、世界中の哄笑を買うだろう。おそらくは5年後に、そして50年後には確実に、それは万人に明白の事実となる」

国旗のためにえらばれた色は、青と白だった。肩衣の色。ユダヤ人が祈りのあいだそれで肩を掩う祭儀用の、絹のショールの色である。国歌としてえらばれたヘブルの歌については、もっと象徴的だった。それはヘルツルと彼の同志がふんだんにもっていた唯一の富を、讃えていた。題はハティクヴァ─―希望―─である。

(ラリー・コリンズ : ジャーナリスト)
(ドミニク・ラピエール : ジャーナリスト)