仏マクロンの決断は第3次世界大戦を招きうるか
欧州議会選挙の結果を受け、フランス国民議会を解散したマクロン大統領(写真・ 2024 Bloomberg Finance LP)
2024年6月9日に欧州議会(EU議会、EU加盟国で選ばれた議員で構成される議会)の選挙が行われた。下馬評通り、右派勢力が台頭した。とりわけ大きな躍進を遂げたのは、フランスのバルデラ率いる極右勢力であった。
とはいえ、27カ国の選挙の結果を見るかぎり、全体の勢力図がそれほど変わったというわけではない。
マクロンに痛手となったEU議会選挙
EU議会を構成する政党は、各国の政党が国家の枠を超えて結ぶグループによって構成されている。最も多い議席数を持つ政党はEPP(欧州人民党)で、むしろ議席数を8議席伸ばしている。
この政党はフランスの共和主義者とドイツのキリスト教民主同盟(CDU)などが参加する政党だが、2つの政党ともに今政権を握ってはいない。
次に大きな政党は社会民主進歩同盟(S&D)で、フランスでは社会党、ドイツでは社会民主党。ドイツでは政権党であるが、フランスではそうではない。この政党の議席数は変わらず、変化なしである。
一方、大幅に議席を減らしたのは欧州刷新(RE、Renew)で、22議席減の80議席。ドイツでは中道の自由民主党、フランスはマクロンの支持母体ともいえる「再生」党のグループだ。マクロンが大きな痛手を被ったというのは、この政党が議席を減らしたからである。
話題のフランスの極右党が入っているのは、アイデンティティと民主主義(ID)だが、9議席増の58議席であった。ここにはドイツのための選択肢(AfD)も入っている。いわゆる極右グループといわれる政党だが、たいして増えたわけではない。
しかし、とりわけフランスでこのグループが投票率1位に躍進したことが重要だ。フランスで31%は極右の国民連合(Rassemblement National)(バルデラ代表)に流れ、12議席増の30議席となった。
しかも、極右への投票率の流れだけでなく、4位は極左政党の不服従のフランス(LFI、メランション代表)で、政権党のマクロンの「再生」は極右と極左に挟まれ、さらに保守党に押されたという結果となったのだ。
この躍進がショッキングなニュースとして飛び込んできた。だからこそ、マクロン大統領は、その日のうちにフランス国民議会の解散を宣言し、6月30日(第1回投票)に総選挙を行うと決意表明を行ったのである。
フランス憲法12条では、首相と議長の了解を得て、大統領が議会を解散できることになっている。
フランス大統領と国民議会の関係
フランス・ストラスブールにあるEU議会は、ベルギー・ブリュッセルのEU理事会(各国首脳などによって構成される執行委員会)と並ぶEUの柱だ。
しかし、執行部であるEU理事会は、各国首脳であるがゆえに、大統領や首相の意思が反映する。大統領の意思とEU議会は、少なくともフランスにおいてはギクシャクすることになったことは間違いない。
EU議会で敗北したからといって、それがそのままフランス国民議会に反映されるわけではない。国民議会はフランスの地方選挙で選ぶ議会であり、その投票形式はまったく違う。
しかし2年前、大統領選挙後の総選挙でマクロン支持の政党は多数派を取れなかったこともあり、この2年間、大統領と議会との関係はつねに対決状態であった。今回の結果はそれを反映したといってもいいかもしれない。
とすると、マクロンは民意を尊重して国民議会を解散しようということなのであろうか。いやそうではあるまい。
議会選挙は比例全国区ではなく地方区からなる選挙であり、2回目の最終決戦投票で無難な政党が選ばれる可能性が高い。極右政党や極左政党が勝つ可能性は少ないともいえる。それをにらんだうえでの解散だということだろう。
フランスといえば、フランス革命以来、立法議会と行政権力(首相や大統領)が対立してきた長い歴史がある。この対立の中で議会を強くするか、行政権力を強くするかで憲法は変わってきた。
1958年から始まる現在の第五共和制(1958年〜現在)は、第四共和政(1946〜1958年)の行政権力を強化することで始まった。
それによって生まれたドゴール政権(1959〜1969年)は、独裁色を強め、1968年に学生と市民による5月革命事件が起こる。1969年4月、ドゴール大統領は国民投票によって憲法改正を問い、結局敗北し辞任することになった。
またシラク大統領(1932〜2019年、大統領在任期間は1995〜2007年)が、EU憲法批准を国民投票にかけて、失敗した例もある。
マクロンは「ミニ・ナポレオン」か
もちろん、1936〜1938年の人民戦線内閣のレオン・ブルム(1872〜1950年)のように反ナチズム、反ファシズムを掲げ勝利した例もある。いすれにしろ、マクロンは先達の例を気にしながらことを進めなければならないはずだ。
ナポレオン3世。1870年の普仏戦争でプロイセン軍の捕虜となり、自身の第二帝政は崩壊した(写真・Glasshouse Images/アフロ)
何といっても思い出されるのが、ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、1808〜1873年)の場合だ。マクロンは、現代版ナポレオンともいえる。マクロンもそれを意識しているはずだ。
すでに大統領を2期務めているマクロンにとって3期目はない。彼の気持ちは、1期しか認められていなかったルイ・ナポレオンの気持ちに重なるともいえる。
ルイ・ナポレオンの伯父、大ナポレオンであるナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世、1769〜1821年)は1799年11月9日、革命暦ブリュメールの18日、執行権を独り占めにすべくクーデターを起した。
クーデターが成功した後、やがて第一帝政(1804〜1815年)を施行し皇帝に上りつめる。議会や憲法を踏みにじって、独裁権力を獲得したのだ。ナポレオン神話の始まりである。
ルイ・ナポレオンは伯父のことが忘れられず、大統領再任を憲法に阻まれた。そのため憲法を踏みにじるべく、1851年12月2日にクーデターを起して第二帝政(1852〜1870年)を施行し、皇帝へと上り詰める。伯父と同じことを行ったのだ。だから、ヴィクトル・ユゴーはルイ・ナポレオンを小ナポレオンと呼んだ。
この光景を見ていたカール・マルクスは、有名な文章から始まる『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852)という作品を書いた。
「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大なる世界史的事象と人物は、いわば二度出現すると述べている。彼は、つぎのことを付加することを忘れていた。それは、一度目は、悲劇として、二度目は、茶番劇として出現するということである。―――人間は自らの歴史をつくるのだが、自ら選んだ自由な断片からつくるのではなく、直接に依存している、伝統的な、与えられた状況のもとでつくるのである。死せるあらゆる世界の伝統は、生きているものの額の上に、悪夢のようにのしかかる」
ルイ・ナポレオンは、これによって皇帝としてフランスにそれ以後20年近く居座ることになる。クーデターは確かに成功したのだが、大ナポレオンのように神話になることはなかった。だから小ナポレオンなのである。
マクロンの「ロシア派兵」
もちろんこれが茶番であったのかどうかについては議論が分れるところだが、少なくとも大ナポレオンに比べ、小ナポレオンであるナポレオン3世の方が偉大なる人物だと思うものはおそらく1人もいないだろう。
何事も二番煎じは評判が悪い。小ナポレオンも大ナポレオンのように普仏戦争(1870〜1871年)、3回にわたるイタリア独立戦争(1848〜49、1859、1866年)、アメリカ・メキシコ戦争(1846〜1848年)、クリミア戦争(1853〜1856年)と戦争に明け暮れたことは確かである。ただ、これらの戦争を偉大なるフランス革命の成果であると評価するものはいない。
ミニ・ナポレオンともいえるマクロン大統領も、大ナポレオンよろしく自由と民主主義のためにウクライナ戦争へ参戦しようという計画をもっているようだ。大ナポレオンが行ったように、本当にロシア戦線へ参加するのか。
しかし、国民の多くはこれを認めてはいない。ことごとく議会と対立している現状では、その実現の可能性はない。しかも、残り在任期間は3年である。
任期後は私人に戻るしかない。民主主義社会では大統領は終身ではないし、皇帝になることもできない。確かに八方塞がりなのだ。まさか3度目の正直、すなわちクーデターを計画しているわけでもあるまい。
マクロンの決断で世界が揺れる
反極右戦線を糾合しようにも、今のところ左派の結集すらも難しいかもしれない。また旧来の左派(社会党)と右派(共和主義者)もマクロンを見放すかもしれない。そうなると、解散前により大幅に議席を減らすこともありうるだろう。
しかし、マクロンは登場したときから策士であると言われ続けてきた。マジシャンともいわれていた。彼にはどんな秘策が隠されているかはわからないところが、いよいよもってナポレオンに酷似しているのだ。
ドゴールの道を歩むのか、レオン・ブルムとなるのか。マクロンはたんなる小さなアリにすぎないのか、それともライオンなのか。選挙の結果が気になるところである。
もちろん、この選挙はマクロンの権力維持の問題にとどまらない。下手をすると好戦的な人物であることで、第3次世界大戦のきっかけをつくった人物としてその名を永久に残すことになるかもしれない。
これはたんなるフランスの議会選挙だが、世界はその結果に注目しなければならないだろう。
(的場 昭弘 : 神奈川大学 名誉教授)