江戸時代の参勤交代制度の“真の目的“とは?「各藩の経済力を削ぐため」は俗説で40年前に否定されていた【後編】

写真拡大 (全4枚)

華美で豪奢になっていく参勤交代

【前編】では、参勤交代という制度が「幕府に逆らえないように各藩の経済を疲弊させるため」を目的としたものではなかったことを説明しました。

また、それは最近になってポッと出てきた学説ではなく、少なくとも40年前には有力な学説として挙げられていたことも見てきました。

では、なぜ参勤交代という制度は生まれたのでしょうか。

そもそも、家臣が主のもとに出仕することは、徳川幕府の時代よりはるか前からあった儀礼でした。

【前編】でご紹介した通り、徳川家光が「最近は参勤交代の人数が多い」と指摘していることから、以前から参勤があったことが分かります。その、もともとあった慣例を家光は制度化したわけです。

園部藩参勤交代行列図(一部)南丹市文化博物館蔵・Wikipediaより

しかし大名たちは、参勤交代を行う際には大勢の人を雇い、城下町を出るまでは立派な服装に着替えるのが常でした。そうして領民たちに威容を示していたのです。

そして町外れで解散すると、供回りの者たちは旅をしやすい服装に替えて小規模な行列に改めて江戸に向かいます。

そうして、江戸に入る前にまた人を雇って行列の威容を調えたといいます。

将軍のいる都・江戸の庶民にみすぼらしい姿は見せられないということだったのでしょう。

こうして、参勤交代は各大名家の権威を示したり家同士の見栄を張り合ったりするイベントになってしまい、大名家の財政支出を必要以上に膨らませる結果になりました。

家光はそれに危機感を持ったわけです。

昔ながらの慣習

【前編】で挙げた武家諸法度の内容からは、幕府は大名の経済力を削ぐどころか、経費を削減して分相応の支度で参勤するように命じていたことがわかります。幕府は、参勤交代が無駄に華美になるのを抑えようとしていたのです。

先述した通り、家臣が主のもとに参勤するという慣習は大昔からありました。鎌倉時代の御家人たちが鎌倉に出仕することにまで起源を遡ることができるのです。

室町時代は、守護大名は京都に在住させられました。応仁の乱でその慣習は中断しましたが、織豊政権時代にはその制度が復活。豊臣秀吉などは、諸大名へ京都に屋敷を造らせて在住させています。

繰り返しになりますが、参勤制度は主従関係の確認や主従の明確化を目的とした、昔ながらの武士の慣例だったのです。

しかし時代が下って徳川吉宗の時代になっても、この大名行列の豪華さは変わらなかったようです。吉宗の側近であり学者でもあった荻生徂徠も『政談』の中で、この点を指摘しているほどです。

江戸時代中期の儒学者・荻生徂徠(Wikipediaより)

陰謀論は論外

このように見ていくと、参勤交代制度は各大名の力を削ぐために徳川幕府が考案したオリジナルの制度ではないことが分かるでしょう。その目的はあくまでも武士の昔ながらの慣習の維持にあったと言えます。

そして幕府は、そんな参勤交代に無駄なお金が費やされて、人々が苦しむのを良しとはしていなかったのです。

イメージ

こうしたことからも、「参勤交代=大名の力を削ぐための制度」という説が、現代の教科書にも載っていない理由が分かるでしょう。この説は、今の歴史学では論外とされているのです。

私たちはつい、歴史上の出来事について、その裏側に「隠された真実」があると思いがちです。

はっきりそう考えていなくても、そうした「真実」らしきものが示されると、妙に納得してしまうものです。

しかし世の中の全てに「隠された真実」があるわけもありません。

この参勤交代についても「幕府は、諸大名の経済力を弱め、幕府に逆らえないようにするために参勤交代をさせた」というのはある種の陰謀論だと言えるでしょう。

参考資料:
浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社