上塗りをする、塗師の赤木明登さん(写真:赤木明登)

2024年1月に発生した能登半島地震。それから4カ月以上たったが、まだまだその深い爪痕は残ったまま。特に被害の大きかった珠洲市や輪島市は倒壊した建物がそのまま残り、再建のメドが立っていない状況が続いている。

この地震で消滅の危機に瀕しているのが、重要無形文化財にも指定されている輪島塗だ。

輪島塗の塗師として活躍する赤木明登氏に現状を取材し、2回に分けてお伝えする(本記事は前編)。

*この記事の続き:消失危機!「輪島塗」は復活できるのか【後編】

輪島塗がなくなる日

2024年4月11日、日米首脳会談前夜。岸田総理大臣が、バイデン大統領夫妻への手土産に選んだのは輪島塗のコーヒーカップとボールペンだった。

このセレクトには、能登半島地震で甚大な被害があった輪島塗業界へのエールが込められているのだろう。

しかしそうした背景を除いたとしても、この件は輪島塗が国賓に贈るにふさわしい工芸品だと認められている証しでもある。ちなみに輪島塗は、日本の漆芸品の中で最初に無形文化財に指定されている。

なぜ輪島塗は特別なのか。

それは輪島塗を表現する「堅牢優美」という言葉にすべてが凝縮されている。

輪島塗の特徴のひとつ「堅牢さ」は、輪島塗に欠かせない「地の粉」の存在が大きい。

「地の粉」は能登半島で多く産出される珪藻土の一種で、この土を蒸して粉砕し、漆に混ぜて下塗りすることで強度や耐熱性が増す。この「地の粉」が入っていなければ輪島塗と名乗ることができない。

また、「優美さ」は輪島塗独特の分業制から生まれる。

その工程は大きく分けて木地、きゅう漆(漆を木地に塗ること)、加飾に分けられる。塗りの工程だけで24工程、完成まで約124工程と、気が遠くなるほどの人の手をかけて一つの塗り物が誕生する。

制作にかかる日数は数カ月から1年ほど。これだけの工程を専門の職人が手掛けることで、研ぎ澄まされた美しさを放つのだ。

つまり輪島塗は、輪島の土と輪島の人なしでは成り立たない。それが、この能登半島地震で壊滅的な被害を受けた。


輪島の街並み(写真:まちゃー/PIXTA)

輪島塗は「分業制」それぞれの専門家がいる

「震災前から輪島塗は存続危機でした。けれど、この震災でトドメを刺されてしまったかもしれない」

そう話すのは、塗師の赤木明登さんだ。

輪島に住んで35年。伝統の技術を踏襲しながら、現代の暮らしに溶け込む「日用品」としての輪島塗の器を作り続けてきた。

その研ぎ澄まされた美しいフォルムと、吸い込まれるような漆の質感を大切にした器には国内のみならず海外にもファンが多い。

塗師の仕事は文字通り“漆を木地に塗ること”だが、器のデザインを考え、木地師たちにイメージを伝えて器を作る総合プロデューサーでもある。赤木さんは現在6人の職人を抱えて器の制作をしている。

「輪島塗は分業制。僕らの仕事はひとりではできないのです。木地師がいなければ塗る器がありません。また、一言で木地といっても、指物(さしもの)、挽物(ひきもの)、刳物(くりもの)、曲物(まげもの)という4種類があり、それぞれ専門の職人がいます」と赤木さん。

また、彼ら職が作る木地は、材木から荒く削り出した荒型が材料になっていて、それらは荒型師という別の職人が担当するという。

「震災前の段階ですでにそれぞれの職人の数が激減し、技術継承の危機にありました。それが震災をきっかけに廃業や引っ越しを決めた人も多く、これから先の見通しはまったく立ちません」と穏やかな口調で、厳しい現実を語る。


赤木さん作の夫婦碗。椀を覗き込むと柔らかな光が月のように映る(写真:赤木明登)

ここで、輪島塗の職人数の推移を見てみよう。

輪島市役所漆器商工課から取り寄せた「1980年から2022年までの輪島漆器関連従業者数推移」の表によると、1980年から1990年、つまりバブル全盛期までは従事者数は右肩上がりで増えている。

ピークの1990年には、挽物師は28人、曲物師は15人、指物師は69人、刳物師は19人。塗師屋では1806人が働いていた。

しかし、その年を境に急激に輪島塗の事業従事者はどんどん減っていく。

2022年には、挽物師は11人、曲物師は2人、指物師は20人、刳物師は8人。塗師屋は680人といずれも半数以下に。しかも残っているほとんどは高齢の職人だ。

「後継者問題」に直面するなかで起こった能登半島地震

輪島塗をどう継承していくか。そんな課題が積もるなか、2024年能登半島地震が襲ったのだ。

地震発生時、赤木さんは東京にいた。輪島の工房へ急ぎ向かってみると、耐震性のあった建物は無事だった。

しかし工房の中はぐちゃぐちゃ、そして停電に断水。生活はできない状況だった。また、共に働く6人の工房の職人が住んでいた家は全壊。職人たちは金沢への二次避難を余儀なくされた。

輪島での仕事はしばらく不可能になる。そう思った赤木さんは職人たちが二次避難をしている金沢での仮工房をすぐに開設した。

「幸いにも木の仕事道具は無事でしたし、漆も一部は残っていました。漆器業に携わる事業者には道具や材料に対する支援金は比較的すぐに出ました。さらにインフラが壊滅した事業者には金沢市が不動産を提供してくれました。そこで2月10日には金沢に仮工房を作り、上塗り以外の作業を進めることにしました」


赤木さんが2月10日から仕事を始めた金沢の仮工房(写真:赤木明登)

職人はスポーツ選手と同じだ。手を動かしていないと技術は一気に鈍る。若い弟子のためにも一刻も早く仕事をできる環境を整えたいと赤木さんは金沢へ仮工房を作ることを決意したのだ。

自分たちの仮の基盤はできたが、一緒に働いていた職人たちの安否がわからない。一人ずつ連絡をとろうと試行錯誤していくうちにじわじわと一番の問題に気がついていく。

それは、人材の流出と職人たちの廃業だった。

*この記事の続き:消失危機!「輪島塗」は復活できるのか【後編】

(山路 美佐 : 食と旅の編集者)