誠意のある謝罪を行うには、恥に対する恐れと向き合う必要がある(写真:metamorworks/PIXTA)

政治家の謝罪などでよく聞かれる決まり文句のひとつに「気分を害したのであれば申し訳ない」というものがあるが、これは果たして謝罪になっているのか。そもそも誠意のある謝罪とはなんなのか。アメリカ人気コメディドラマ『グッド・プレイス』の脚本家であるマイケル・シュア氏が、哲学的な視点からユーモアも交えつつ鋭く切り込む。

※本稿はマイケル・シュア著『How to Be Perfect 完璧な人間になる方法?』から一部抜粋・再構成したものです。

謝罪にはよいバージョンと悪いバージョンがある

謝罪のやっかいな点は、その行為の直後には、他人の前で過ちを認めることの気まずい、ぎこちない悔しさしか頭にないということだ。よい点(回復、成長、解決)は、目に見えにくい。

謝罪そのものは「道徳的」行為ではないが、私には道徳と隣り合っているように見える。意識して試すことが倫理的向上のポイントで、失敗は避けがたい結果だとしたら、謝罪はその失敗の退職者面接だ。自分は何をしたのか? なぜそうしたのか? 他人に対する影響について何を学んだのか?

謝るときの不快感(誤解していた人に対して過ちを認めることの赤っ恥)はメリットだ。私たちが自分の引き起こした苦痛を感じ、引き起こしたのはほかならぬ自分自身だと意識するのだ(アリストテレスによれば、恥を感じられない人には不名誉の感覚がない)。

こうした感情は、みずからの身体が苦痛を癒やそうとするインフルエンザの症状にも似ている。だが、謝罪はそうした不快感に満ちているので、たいていの人は謝るのが下手だ。

どんなことでもそうだが、謝罪にもよいバージョンと悪いバージョンがある。深呼吸して、恥に対する恐れと向き合い、そのうえで実際に謝れば、正しくできるはずだ。

1985年、ロック・ミュージシャンのトム・ペティは、アルバム『サザン・アクセンツ』のコンサートツアーを行ったが、ステージには巨大な南部連合の戦旗が飾られていた。

多くの人にその旗の意味を尋ねられ、彼は何年もたってから雑誌『ローリング・ストーン』で次のように述べた。

南部連合国旗は、フロリダ州ゲインズビルで過ごした子ども時代には、どこの家でも壁紙のデザインに使われていた。それが南北戦争と関係あることは昔から知っていたが、南部はそれをロゴに採用した。実際に何を意味するかは、まったく知らなかった。裁判所の前のポールに掲げられていたし、西部劇の映画でもよく目にした。正直、なんとも思っていなかった。よく考えるべきだったが……、

そのことでずっと嫌気がさしていた。それしか言えない。自分がバカみたいだった。もう少し周りの出来事に気を配っていたら、あんなことにはならなかったんだ……。いまでも申し訳ないと思っている。ずっと後悔してきた……。(南部の人が)あの旗を振っているときは、黒人がどう思うかを考えてやめたりはしない。俺はちゃんと考えなかったことに責任を感じている……。本当にばかげていた。あんなことをするべきではなかった。

とても好感の持てる発言だ。明快でわかりやすい。彼は自分の意見に固執せず、言い訳もしていない。ただ、ことのいきさつを説明し、自分が過ちを犯したことを認め、傷つけてしまった人々をあげ、後悔の念を表している。これが正しい謝り方だ。

仮にあなたが当事者で、人気ロックスターが憎しみのシンボルを正当化したせいで苦痛を感じた立場だったとしても、(たとえ数年後でも)この発言を読めば、苦痛は消えるかもしれない。

実際にあったアメリカ議員による謝罪

次に、別の種類の謝罪を取り上げてみよう。2020年7月、下院議員テッド・ヨーホーは議事堂の階段で同僚のアレクサンドリア・オカシオ=コルテス議員を侮辱し、彼女を(その中でもとくに)「ファ〇〇ング・〇ッチ」と呼んだ。謝罪に追いこまれたヨーホーは、議場で起立して、次のように述べた。

先ほど、ニューヨーク州の同僚との会話で無愛想な態度をとってしまったことを謝罪する。アメリカの政策や展望について、我々が意見を異にするのは事実だが、だからといって礼を失するべきではない。

ここまでは申し分ない。実際に口にした言葉ではなく、会話中の「無愛想な態度」に対して謝罪を求められているとは思わないが、とりあえず、そういうことにしておこう。

誰に謝っているのかもわからない、さんざんな内容

私は45年前に結婚し、2人の娘がいる。自分の発言については、十分に認識している。メディアが私によるものだとする不快な呼び方は、同僚議員に向けられたものではなく、そのように解釈されたのであれば、誤解を招いたことをお詫びしたい。

これはまずい。何かに謝罪をしていると主張する人が、理由もなく妻や子どもを持ち出したら、警鐘を鳴らすべきだ。自分は悪い人間ではない。私を愛している人がいて、自分自身も親だから。

さらに、問題の出来事が起こったことを否定すれば、それはちっとも謝罪ではない。もし起こらなかったのなら……、なぜ謝るのか? そして最後に、「そのように解釈されたのであれば」? オカシオ=コルテスは「ファ〇〇ング・〇ッチ」という表現をどう「解釈」すべきなのか? 滑稽な、悪気のない冷やかし? だが、とりあえず議員には続けてもらって、この列車を線路に戻せるかどうかを見てみよう。

妻のキャロリンと私は、19歳のときに何もない家で結婚生活を始めた。

だめだ。余計に脱線した。車輪がレールから外れかかり、計器盤で赤い警告ランプが点滅し、モーターから不吉な煙が出はじめる。

私たちは雑用をして稼いだ。食料配給券ももらった。私は貧困というものを知っている。一時期、私自身がそうだったから。

テッド、どうしたんだ? なぜきみの家計の歴史を物語っている?

謝罪をしているはずではなかったのか。

だから私は、この国の人々がどれほど欠点があっても立ち上がり、成功し、けっして法を犯そうとしないことを知っている。

……もはや、ついていけない。きみはここで何をしているのか? どの人々? 誰が法を犯そうとしたのか? 何の法だ? いったいきみは何の話をしているのか?

あなたがた一人ひとりに私は誓う。私は情熱と、心の中の国および我々が仕える人々の向上とともに国家に向き合いつつ、我々が問題に取り組んでいることを前提に、政策や政治的不一致が活発に議論されていることの理解の場所から行動することを。

まさに拷問のような文章だ。あたかも最初に「私は誓う」とタイプして、そのあとは「自動予測テキスト」ボタンをひたすら押しつづけたかのようだ。そしてついに、最後に、このちんぷんかんぷんのサンドイッチに無意味な爪楊枝を刺した。

私は自分の情熱に対しても、神を、家族を、そして我が国を愛していることに対しても謝ることはできない。

つまり、要約するとこうなる……。

私は謝罪するためにここにいる。しかし謝るつもりはない。

私がしたと思われていることは、実際にはなかった。

皆さんは誤解している。ある時期、私は貧しかった。

神とアメリカを愛していることも謝らない。

ヨーホー退場。

さんざんな謝罪だ。自分が誰に謝っているのかもほとんど理解しておらず、起こった出来事を否定し、どういうわけか食料配給券の話を持ち出した挙句、自身のひどい資質を謝罪することを独善的に拒否した。誰にも頼まれていないにもかかわらず。これは明らかに謝罪ではない。

それは謝罪ではなく自分のイメージづくりでしかない

ハリー・G・フランクファート(1929〜)はプリンストン大学名誉教授で、専門は道徳哲学だ。かつてはイェール大学でも教え、オックスフォード大学のオール・ソウルズ・カレッジの客員研究員を務め、グッゲンハイム財団およびメロン財団から助成金を受け、“ウンコ”について1冊の本を書いた。

具体的には、1986年に論文として発表し、2005年に(愛らしいほど小さな)本の形式で出版した『ウンコな議論』である。この本は一大現象を起こし、ニューヨーク・タイムズのベストセラー・リストに27週間にわたって掲載された。

おそらくその理由は、彼が冒頭に記しているように「我々の文化の最も顕著な特徴の1つは、いたるところにウンコがあること」だからだろう。フランクファートはウンコと嘘をつくことを区別している。

「嘘をつくのは、明確な焦点を伴う行為である。一連の信念もしくは信念体系の決まった所に特定の虚偽を挿入することが意図され、その目的は、その箇所が真実で占められる状態を避けることだ」

言い換えると、嘘つきは真実を知っていて、故意に正反対のことを言う。それに対して、ウンコな論者は「真実に対する関心に拘束されない」。何が真実かということには関心がなく、自分のイメージをつくり上げ、聞き手を感化したいだけだ。

フランクファートが例にあげているのは、独立記念日の演説を行い、建国者、星条旗、ママ、アップルパイを大げさに称賛する、傲慢で熱狂的なアメリカ人だ。この男がアメリカについて実際にどう考えているかは重要ではない、とフランクファートは言う。

心から愛しているかもしれないし、憎んでいるかもしれないし、無関心かもしれない。それはどうでもいい。肝心なのは……。

演説者はこれらの発言によって、自身に対する特定の印象を伝えることを意図している。アメリカの歴史に関して、誰かを欺こうとしているのではない。彼の関心は、人々が自分をどう思っているかということだけだ。

ウンコな論者の目的は、ただ1つ……、聞き手に自分をある種の人物だと思わせることだ。愛国者、道徳の化身、思いやりのある親切な人など、個人的利益を生み出すものならなんでもかまわない。

フランクファートによれば、「ウンコの本質は、それが誤りではなく、でっち上げだということだ」。

ヨーホーは悪い行為を目撃された。同じ仕事をしている女性に近づいて、悪態をついたのだ。自分と政治的姿勢を異にするという許しがたい罪を犯したとして。

目撃された際に、正しいのは謝罪することだった。ところが彼は罵り言葉を口にして、他人(悪態をついた女性ではなく政治家仲間)に対して自分のイメージづくりを試みたのだ(これはゲリラ的現象ではない。現代の共和党員によって芸術形式にまで高められたかもしれないが、政治家の雄弁な演説の歴史によって、両陣営からの山のような罵詈雑言が明らかになっている)。

「気分を害したら申し訳ない」は謝罪よりも非難に近い

もう1つ、誠実さに欠ける典型的な謝罪がある(ヨーホーもそのバリエーションを採用した)。

「気分を害したら申し訳ない」という決まり文句だ。もちろん、これは謝罪よりも非難に近い。裏を返せば、「私は何も悪いことをしていない」と「あなたは頭が悪いから、私が悪いことをしたと思って動揺している。あなたがそれほど頭が悪くて残念だ」を同時に言っているも同然である。

謝罪は悪い行為を帳消しにするわけではないが、心の底から誠実に気持ちを伝えれば、傷を癒やすのに役立つ。逆に、自己保身に走ったり、言葉をにごしたり、誠実さに欠ければ、なんの意味もない。心から許しを請う言葉でなければ。

一対一の謝罪に対する抵抗感は、組織や政府の謝罪という大きな領域にも持ち越される。

第2次世界大戦中の日系アメリカ人の抑留、奴隷制、ネイティブ・アメリカンの虐殺など、国家規模の過去の惨劇に対する国の謝罪を求める者は、昔から一定の周期で現れる。

それに対する反論は、「大昔の話だ。すんでしまったことはしかたがない。忘れるんだ」というものだ。

この主張は……、何かが足りないような気がする。国家の罪には、たとえ大昔の出来事であっても国家の謝罪が必要だ。そうした謝罪は、シンプルな宣言の形をとることもあれば、もっとよいのは、宣言に加えて、被害者の子孫に対する具体的な補償が盛りこまれているものだ。何はともあれ、はじめの一歩は悪い行為を認めることである。

1992年、教皇ヨハネ・パウロ2世が先任者を代表して、カトリック教会の犯した過ちを謝罪した。注目すべきは、謝った相手がガリレオ・ガリレイで、その過ちが犯されたのは1633年のことだった。

ガリレオは、地球が太陽の周りを回ると考えるコペルニクスの地動説を支持し、そのせいで異端者と呼ばれ、教会は投獄や死刑など、ありとあらゆる手段で彼を脅した。最終的に、彼の名声のおかげで、数々の発見を撤回することを条件に軟禁に減刑された。

それから約360年後、ヨハネ・パウロ2世は「我々の過ち」という表現を用いた。カトリック教会は当時の情報に基づいて判断しただけだと述べたが、とにかく謝罪した。

それが肝心だ。教皇は過去の過ちを公表することに決めた。公共機関がそうするときには、自分たちも誤りを犯し、不当に扱った相手に対して負い目があることをきっぱりと宣言する。教皇が謝らずに、「我々は何もしていない、歴史家が間違っている。教会は多くの慈善事業も行ってきた。我々は神への信仰を謝罪しない」と断言したら、それは謝罪ではなく……、言わなくてもわかるだろう。人間は、失敗をしたら謝るべきだ。それは政治家でも、宗教団体でも、国家でも変わらない。謝罪は大事だ。

生きていれば人を傷つけることは避けられない

これまでの人生で、数えきれないほどの過ちに対して謝ることができなかった人間として、声を大にして言いたい。齢40にして始めた道徳哲学への旅では、幾度も眠れぬ夜を過ごした。ほとんどは、自分が多くの人を傷つけたにもかかわらず、一度も謝ったことがないと気づいたからだ。

この地球に数年以上暮らしていれば、愛する人、まったく知らない人、そのあいだにいるすべての人を傷つける運命にある。ようやく最近になって、それが避けられないことだと理解した。あるいは、私たちがやむをえず誰かを傷つけてしまったときに、もう1つ、やるべきことがあるのに気づいた。文句を言わずに謝る。

できるだけ早いほうがよい。359年も待ってから謝ると、効果が薄れる。

人間は誰も完璧ではない

本稿の最後にもう1つだけ尋ねたいことがある。すぐに答えられる質問だ。謝ったら、相手にどう反応してほしいか? 恥をかくことを恐れつつ、勇気を出して恥ずかしさ、赤面、震える声を乗り越え、自分が悪いことをしたのを認めたら。

傷つけた相手が誰であれ、私たちが心から後悔し、昨日の自分より少しでもよくなりたいと思っていることに気づいてほしい。思いやり、共感、寛大さ、理解……、そうした感情を抱き、たとえまだ腹を立てていても、「わかった」と言ってほしい。

嘘をつくべきでないとわかっていながら、ついてしまったときにも。会社の休日パーティにゼブラ柄の中折れハットをかぶって来いと言って、さんざんな目にあわせてしまったときにも。私たちは許してほしいと願っている。

自分のしていることを意識するには、ひっきりなしに続く失敗を受け入れて耐えることが必要だ。誤解する。人を傷つける。ほんのささいなことかもしれない。ほとんど気づかれず、ほとんど意味もなく、宇宙の塵となって消えてしまいそうなほど。


あるいは逆に、はるかにひどいことかもしれない。自分のしたことのせいで生活が著しく脅かされた人々が、現実に、紛れもない苦痛を感じているかもしれないのだ。

徳に欠けた人が痛みや苦しみを引き起こしたら、(適切な方法、適切なタイミングで、適度に)声を上げるのは正当な行為だ。けれども相手の行為が許容範囲だったら、自分が失敗して、同じように寛大さや理解を求めようとすることを思い出してほしい。

それはきわめて複雑な哲学の質問だが、よく覚えておいてほしい。完璧を求めたり、他人に不可能な基準を押しつければ、誰も完璧ではないという単純で美しい現実を否定することになる。

(マイケル・シュア : テレビプロデューサー・脚本家)