教科書から幕末のヒーロー・坂本龍馬の名前が消える!?その理由と真相について考える
あの偉人の名前が消える!?
歴史の研究も日進月歩で、これまでの通説やその扱われ方が大きく変わることも珍しくなくなりましたね。例えば、鎌倉幕府の成立は1192年ではないとか、「鎖国」という言葉が使われなくなるかもしれない、など……。
そんな状況の中、日本史界隈でまた衝撃的な出来事がありました。高校で使われる歴史教科書から、私たちが知っているある幕末の偉人の名前が削除されてしまうかも知れないというのです。
その偉人とは、他ならぬ坂本龍馬です。
桂浜の坂本龍馬像
特にエンタメ界隈では、幕末のヒーローと言えば坂本龍馬であり、幕末の歴史は彼を中心として描かれることも少なくありませんでした。私たち日本人の頭の中には「幕末イコール坂本龍馬」という図式がインプットされていると言っても過言ではないでしょう。
その龍馬の名前が、教科書に載らなくなるかも知れないのです。一体なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか?
「船中八策」は創作!?
2023年11月、歴史教育の専門家たちが、教科書で用いる用語についてさまざまなな案を示しました。その中で課題として挙げられたのが、坂本龍馬という人物の扱いです。
現在の教科書では、坂本龍馬は大政奉還を推し進めた人物として描かれています。大政奉還とは、言うまでもなく徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返還した手続きのことですが、これは当時の土佐藩の重臣だった後藤象二郎と、龍馬がともに藩主の山内家を通して勧めたものだったというものです。
その根拠とされているのが、龍馬が提唱したといわれている船中八策です。
船中八策は、江戸幕府が消滅した後の日本がどのような体制で臨むべきかを考えたもので、これは龍馬が土佐藩の船「夕顔」の中で提案したといわれています。この時に考えた、平和的に日本を改革するための八つの策が、大政奉還でも活かされたというのです。
しかしこの船中八策は、現在の日本史研究では後世の創作だという説が有力になっています。
新政府綱領八策(Wikipediaより)
また大政奉還後、龍馬は新政府綱領八策という文書を書いています。これは船中八策を簡略化したもので、「幅広い人材の登用」「有材の人材選用」「名ばかりの官役職廃止」「国際条約の議定」「憲法の制定」などの内容ですが、これも後世の明治新政府の政策に影響した形跡はありません。
薩長同盟もほぼ無関係!?
他にも、龍馬が実際に政治に関わって「日本の夜明け」を先導したとされる出来事は、今ではほとんど史実ではないと考えられています。
例えば薩長同盟では、龍馬が薩摩藩と長州藩の間を仲介したとされていますが、この時彼は無関係ではなかったものの、そこまで深くは介入していなかったようです。
「薩長土同盟」の記念碑
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、彼の一喝によって両藩が突然心を入れ替えて手を結んだというドラマチックなストーリーになっていますが、事はそんなに単純ではありませんでした。
どうもこのあたりは、大正元年に作られた『維新土佐勤皇史』という、半分が作り話のような本の中で書かれていたのが元ネタになっているようです。当時、明治政府内で冷や飯を食わされていた土佐閥が、土佐藩の実績をアピールするために捏造・あるいは大げさに描写した可能性があるのです。
また、長州藩が薩摩名義で武器を購入したという話についても、龍馬が発案・仲介したことになっています。しかし木戸孝允の回想録には確かに龍馬の名前が出てきますが、実際に彼が仲介した形跡はありません。
「非志士」か「重要人物」か
どうも、当時の志士たちは坂本龍馬を偉大な志士としてどれくらい認識していたか怪しいところもあるようです。明治維新直後に出た「志士列伝」のような書籍にも彼の名前は載っておらず、維新志士の仲間として考えられていなかった可能性すらあるとか。
JR高知駅の「土佐三志士像」
と、ここまで書くと今までのイメージが大きく変わり過ぎてめまいがしそうですね。
しかし坂本龍馬が、当時の政治関係者からも重要人物として扱われていたのは間違いないことです。それに、功績が一切なく大人物でもなかったという評価も、ちょっと過小評価しすぎでしょう。
むしろこうした動向は、司馬遼太郎などによって過剰にヒーロー扱いされてきたことの反動のようなものだと思われます。いずれは、こうした両極端の中間くらいのちょうどいいところで評価が落ち着くのを期待したいところですね。
参考資料:朝日新聞デジタル