厚生労働省は2月「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」を発表した。文筆家の御田寺圭さんは「喫煙や飲酒など、『健康には悪いけれど、たのしいもの』を排除していく社会の流れがある。この流れが加速すれば、排除の対象は広がっていくだろう」という――。
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■「健康を維持すること」がモラルになりつつある

コロナのパンデミックが収束したあと、「健康を維持すること」はいずれ個人の努力目標ではなくなり、全社会的にすべからく達成すべき「モラル」に格上げされる。健康を害するかもしれないが個人的には楽しいものを享受する自由は、社会のインフラや秩序の維持を優先するという論理のもとで、じわじわと規制されていくようになる。タバコ、アルコール、肉食、カフェイン、あらゆる嗜好(しこう)品はその「有害性」によって、個人がそれを楽しむ余地は失われていくことになる――。

私はこれまで、こうした近未来の展望を2020年からいくつものメディアで発表してきた。そのメディアのなかには本サイトプレジデントオンライン(※)も含まれている。

※「ニュージーランドの若者は一生タバコを買えない」コロナ後、“個人の自由”は確実に消えていく(2021年12月21日)
※「タバコを吸う人は悪人」コロナ後の世界では健康管理はモラルに変わる(2021年6月12日)

私がウィズ・コロナの時期に危惧していたとおり、やはり世の中はそのような方向に向かって着実に前進しているように見える。というのも、厚生労働省が2023年11月にはじめて、飲酒についての具体的な数値を含んだガイドライン案を示したからだ。

厚生労働省は22日、飲酒の影響やリスクをまとめたガイドライン案を有識者検討会に示した。少量であっても高血圧などのリスクを上げる恐れがあるとして、飲酒量をできる限り少なくすることが重要と強調した。国が飲酒に関するガイドラインを作成するのは初めて。

健康増進に向けて国が定めた基本方針では、生活習慣病のリスクを高める「純アルコール量」について、1日当たり男性40グラム以上、女性20グラム以上との目安を示している。20グラムは、ビール中瓶1本、日本酒1合に相当する。

時事ドットコム「飲酒量『できる限り少なく』 ガイドライン案を提示 厚労省」(2023年11月22日)より引用

■国が「生活態度」や「価値観」に踏み込むように

国民の飲酒習慣について言及したガイドラインができたこと自体が初であったことはもちろんだが、それ以上に大きなインパクトを感じたのは「飲酒をできるかぎり少なくすることが重要である」と、社会生活における個々人の価値判断に踏み込んだこれまでにないステートメントを出したことだ。

コロナというパンデミックを経験した社会は、個々人の健康がそのまま医療リソースや社会運営のリスクファクターとして繋がっていることを理解した。この3年間に蓄積された経験によって、国は人びとの「生活態度」や「価値観」に対して踏み込むことをコロナ前ほど恐れなくなった。言ってしまえば、国民生活の価値基準や行動規範に介入するような言動をとっても、国民からはさほど反発を受けず、むしろ共感されるはずだという確信を持つようになったと記述してもよいだろう。

■「やっぱりこうなったか」とは言いたくなかった

実際、このガイドライン案が発表されたとき、世間やネットではそこまで強い反発はなかった。国がこのようなステートメントを出す前から、市民社会はかねて「ノンアルコール」の機運をじわじわ拡大していて、それがコロナの3年間に大きく加速した。統計的に見ても、アルコール飲料の市場規模は年々縮小しているが、それに反比例するようにノンアルコール飲料の市場規模は拡大している[読売新聞オンライン「ノンアル市場活況…コロナ禍で高まる健康志向、『アルコール離れ』も」(2023年11月15日)]。

このような流れのなかで、国が「アルコールを控えよう、具体的な数値目標は……」と、人びとの規範に踏み込んだガイドラインを出すのは当然のことだったのかもしれない。「やっぱりこうなったか」とは言いたくなかったが、やっぱりこうなってしまった。

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■「ただしい側でいること」の心地よさ

コロナ騒動の数年間は、人びとに「(権威によって認められた)ただしい側でいること」の心地よさや安堵(あんど)感や所属感や高揚感をたっぷりと味わわせてしまい、一人ひとりの自由にもとづいて「わるい(≒権威が必ずしも推奨していない)けど、個人的にはたのしいもの」を享受することの快感を大きく上回ってしまった。

筋金入りの自由主義者といわれていた言論人や知識人でさえも、2020年以降はあっさりと「権威主義的パターナリズム」に心地よく包摂されてしまったのだから、一般大衆はなおさらだった。県外ナンバーの自動車に嫌がらせをしたり、20時以降も営業を続けている飲食店に嫌がらせの張り紙をしたりといった「自粛警察」が全国で猖獗(しょうけつ)をきわめていたことを皆さんも覚えているだろう。

国や政府だって、自分たちが発信する「パターナリズム」に対する風向きが変わったことに気づかないほど鈍感ではない。こと「公衆衛生」や「健康増進」を建前にしておけば、国民は割合すんなりと自分たちの示す秩序や規範に従ってくれるという成功体験をこの3年間でたくさん積み上げた。そんなかれらが、アフター・コロナの時代に入り、これまで以上に「統制的」な態度を見せるようになったのは偶然ではないだろう。

■私たちがコロナで失った「目には見えない重大な代償」

私たちは「ウィズ・コロナ」と呼ばれた3年間によって、さまざまな犠牲を払った。

「大切な人(≒主として高齢者)の命を守るために」という号令のもと、若者たちにとっては青春の貴重な3年という時間を、商売人にとっては店の存続にかかわる商機を失った。経済的にも機会的にも文化的にも人間関係的にも、さまざまな損失があった。

だが、私たちはもうひとつ、目には見えない重大な代償を支払った。

すなわち「身体や健康にはわるいけど、個人としてはたのしくて快いもの」――を、心の底から楽しむことができなくなってしまったことだ。

哀しいことに、その「身体や健康にはわるいけど、個人としてはたのしくて快いもの」は、私たちの暮らしや人生に彩りを与えてくれるものの大半が多かれ少なかれ該当していた。

私たちは「倫理的でも健康的でも道徳的でもないが(個人の自由によって擁護されている)楽しいこと」に対して、自分がそれを享受してもかつてほど純粋に「楽しい」とは思えなくなった。むしろ「社会や他者に迷惑をかけている」という“後ろめたさ”が脳裏をよぎるようになってしまった。また他人がそうした事柄を楽しんでいる様子を見ると「こっちは社会や他人のために協力しているのに何も考えずに“タダ乗り”しやがって」という怒りに似た暗い感情が湧くようになってしまった。

■「自分には関係ないから、ご自由にどうぞ」ではなくなった

「不健康だけど、不必要だけど、たのしいこと」を楽しんでいる者は、「まあ自分には関係ないから、ご自由にどうぞ」ではなく「社会全体に害悪をまき散らす者」として見なされるようになった。元からタバコや飲酒に悪感情を持っていた人は少なくなかったが、だからといって積極的に糾弾するわけにもいかなかった。しかし今後は違う。「公共・秩序に背く社会の敵(ただしくない側)」という大義名分が付与される。

タバコ呑みが吐き出す煙にも酒飲みの繰り出す騒音にもフラストレーションを溜め、さんざん迷惑をかけられてきたと考える人からすれば「ようやくアイツらにただしく社会的制裁が下される日が来たか!」と快哉(かいさい)を叫ぶことになる。

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私たちはこれから、市民社会における「わるいけど、たのしいもの」を楽しむ自由を守るよりも、「ただしい側のメンバーである」ことを選んでしまう。

■カフェイン、糖質、動物性たんぱく質…排除の対象はいくらでもある

喫煙スペースが公共空間から次々となくなり、飲酒の「目安量」が国からはっきり示されるような時代は、酒やタバコを楽しまない人からすれば――あるいは、むしろそういったものを楽しんでいる人を前々から疎ましく感じていた人からすれば――「いいぞもっとやれ」と思えるのかもしれない。

だが、いつか気づくことになる。「わるいけど、たのしいもの」を積極的に排除していく社会の流れは、やがて自分の楽しんでいるものさえもその射程に入れてしまうことを。

タバコやアルコールが根絶やしにされれば、次はカフェインになり、それが終われば次は糖質や動物性たんぱく質になる。嗜好品や喫食物を健康面や倫理面を理由に「浄化」したらそれで終わりではない。次はポルノや暴力的な表現が含まれるエンタメやインターネットにそのターゲットが移っていく。「ただそれを享受する個人が楽しくて快い気持ちになるだけで、健康や精神や社会秩序には益がないどころか害があるもの」は、いずれも「健全な社会」をみんなで目指すという社会正義の前に、少しずつその居場所を失っていく。

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■全体主義や独裁主義が「民主主義的に」支持された理由がわかる

自分には関係がないものだから(むしろ消えてくれて清々するから)と、タバコやアルコールの苦境を内心では喜びをかみしめながら眺めている人は少なくない。だがその論理の導火線は、私たちの大切にしている趣味や嗜好にもしっかりつながっている。

リベラルや保守といった党派性にかかわらず、人びとは「権威主義的パターナリズム」が自分たちの側についてくれているときの頼もしさや心強さや安心感や高揚感にひたりすぎてしまった。それを他人に振りかざす快感に夢中になるあまり、それが自分たちに向かってくるときの恐ろしさをすっかり忘れてしまった。

歴史を振り返ると、なぜ近代以降の人間社会で全体主義や独裁主義がしばしば「民主主義的に」支持されたのか。いまならその理由がよくわかる。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。
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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)