積層セラミックコンデンサーで世界シェア首位の村田製作所。会社の売り上げの90%以上を海外が占める一方、製品の生産は国内比率が過半を占める。とくに技術の粋を結集した最先端部品は日本での製造にこだわっている(撮影:ヒラオカスタジオ)

甚大な被害をもたらした正月の能登半島地震。電子部品大手の村田製作所は1月9日、日本赤十字社を通して義援金5億円を被災地へ贈ると発表した。寄付を表明したほかの企業と比較しても桁違いの金額だ。

京都府長岡京市に本社を構える同社が、なぜここまで支援に力を入れるのか。その背景には、北陸地方と共に歩んできた事業発展の歴史と、創業者である故・村田昭氏(1921〜2006年)の言葉があった。

危機管理責任者は帰省で福井にいた

1月1日夕方、村田製作所で危機管理の責任者を務める上林季之総務部長は、妻の実家がある福井県越前町で親族との宴会を楽しんでいた。そこに襲った強烈な揺れ。港町で海はすぐ近くにある。一帯に津波警報が発令され、家族たちと一緒に高台へ逃げた。

避難所の保育園に身を寄せながら、スマートフォンで関係部署と連絡を取り合った。同社は石川と富山、福井の3県に計13カ所の工場を有し、合計で約1万3000人が働いている。状況の把握が急務だった。工場はいずれも正月休みで稼働していなかったが、保安員から被害を知らせる報告が集まってきた。

同社は震度5以上の地震が発生した際、緊急対策本部を設けて対応に当たると定めている。上林部長も翌日から関西へ戻り、連日の緊急対策会議に出席。各部門の幹部と被災した工場の担当者をオンラインで繋いだ。

日を追うに連れて、被災地の壊滅的な状況も明らかになってきた。「どうか全員、無事でいてくれ――」。そんな思いもむなしく、従業員1人の犠牲を確認した。

「報道される死者数の規模から、人的被害が出てもおかしくないとは覚悟していた。でも、同じムラタの大切な仲間。言い表せないほどショックだった」(上林部長)

従業員や家族の安否確認、生産再開の段取り、取引先への説明……。悲しみに浸る暇もなく、やるべき膨大な作業が浮き彫りになっていく。

激務の渦中でも、会議では自然と支援の話題が出た。無事だった石川県金沢市の工場を拠点に、備蓄していた食料や衛生用品、仮設トイレを集めた。被災した自治体と調整のうえで、工員らが4トントラックやワゴン車に詰め込んで物資を現地へ届けた。

義援金についても「やれるだけのことをやろうという気持ちは、みんなが持っていた。そこにロジカルな理由はあまりない」(上林部長)。担当役員と電話で協議を重ね、5億円と決定。役員会に諮ると中島規巨社長も一言、「それでいい」と許可したという。

黎明期を支えた北陸の工場群

村田製作所と北陸地方の縁は深い。1944年10月創業の同社が福井県に生産工場を設けたのは1951年のことだった。

きっかけは、創業者の村田昭氏と福井県窯業試験場(現福井県工業技術センター)の場長の会話だ。村田氏は場長から「ここの土質は良い。工場にも向いているのではないか」と勧められた。2人は元々、知人関係だった。

村田製作所は現在、スマホなどで多く使われる積層セラミックコンデンサー(MLCC)で世界シェア約4割を握り首位。連結売上高も直近実績の2022年度で約1兆7000億円を誇る、世界的な電子部品メーカーだ。

だが、当時は数ある中小企業の1つにすぎなかった。事業を拡大しようにも、都市部では人材の獲得競争に勝てない。福井県側の誘致は渡りに船だったというわけだ。国鉄(当時)の北陸本線が東海道本線と山陽本線に次ぐ利便性を持ち、製品の配送に便利なのも決め手になった。

そこに朝鮮戦争の特需景気や民放ラジオのブームが重なった。主力製品であるコンデンサーの需要は急拡大し、福井工場もフル稼働。地元の優秀な工員を確保できたため、京都では1日2000個しか製造できなかった部品を、同3000〜3500個ほど作る能力を有していた。

雇用が生まれたことで、街もにぎわった。それを見た石川県や富山県など、近隣の自治体からも誘致が相次いだ。1984年までに3県で計13カ所の工場を設立し、現在まで続く。

とくに福井にはMLCCの主力工場もある。北陸は会社の黎明期を支え、発展の礎を築いた大切な土地なのだ。

村田氏は北陸を単なる生産地として見ていたわけではない。同社広報部の五井健裕氏は、「幹部候補生に生産技術を学ばせ、一人前に育て上げる『修行の場』としても、創業者は北陸の工場群を重視していた。その構想は当時のメモにも残っている」と語る。

福井で「修行」した中島社長の思い

実際、多くの社員が若い頃に北陸地方へ配属され、後の主力メンバーや経営層に名を連ねている。2020年に創業家以外で初の社長となった中島氏もその1人だ。20代の頃に福井村田製作所で勤務経験があり、現在は福井県越前市のふるさと大使も務めている。

その思い入れは深い。今回、東洋経済の取材に対し、中島社長は文書で以下のようにコメントを寄せた。


中島規巨社長は村田製作所と北陸の繋がりは非常に強く、産業の復興支援に貢献していきたいとのコメントを寄せた(撮影:ヒラオカスタジオ)

「私を含め、村田製作所の多くの従業員は、北陸の地で従事した経験がある。村田製作所と能登地方をはじめとした北陸との繋がりは非常に強く、今回の地震災害は、とてもひとごとではすまされない」

「震源に近い能登半島には中小規模の事業所が4拠点あり、定期的に訪れてきたこともあって、活気ある生産現場やそこで働く皆さんの姿が目に浮かぶ。被災した従業員とその家族が一日でも早く日常を取り戻せるよう、並びに被災した事業所が早期にその活気を取り戻し、地域が復興を遂げられるよう最大限の支援を行っていくのはムラタの使命だ」

「個人的には、有志による義援金募金への参加、能登の物産の購入や能登地方を訪れる機会を増やし、産業の復興支援に微力ながら貢献できればと思う」

気象庁によると、石川県能登地方では、2018年ごろから地震が増加傾向にあった。2020年12月には活動が活発化し、2023年5月ごろからさらに活発に。そして今年1月1日の大地震で地震の発生領域も広がったという。

つまり、地震は群発的に発生しており、またいつ大災害が起きないとも限らない状況だ。それでも村田製作所が北陸から撤退する考えはないという。上林部長はこう語る。

「地震をはじめとした災害のリスクは、北陸地方に限らず、どの拠点においても起こりうる。その中で部品メーカーとしての供給責任を果たすため、ムラタグループ全体としてBCP(事業継続計画)強化に努めていく。北陸地方の一員として、一日も早い復興を願うとともにできる限りの支援を進める方針だ」

根源にある創業者の言葉

その根源に生きているのが、創業者の言葉だ。「そこにムラタがあることが、地域の喜びであり、誇りでありたい」。五井氏は「この精神が従業員に根づいている」と強調する。

能登半島地震による工場の被災で同社が受けた損害は30億〜50億円ほどと見込まれている。そんな状況下での多額の義援金の拠出は、同社なりの改めての決意表明なのだろう。

つねに地域と共に歩んでいく――。被災地が復興を遂げたとき、その輪の中には「muRata」の赤いロゴも以前と変わらず輝いているはずだ。

(石川 陽一 : 東洋経済 記者)