ちょっとした「言い間違い」が命取り。社会人としての「常識」として、一般的な日本語の意味合いをおさえておきましょう(写真:マハロ/PIXTA)

ちょっとした言い間違いは誰にでもあるもの。とはいえ「ビジネスシーンでは、言葉を知らないことで、教養のない人とみなされてしまう事態に及びかねない」と、明治大学教授の齋藤孝氏は警鐘を鳴らします。

職場で「残念な人」にならないためにも、今すぐ身につけておきたい真の教養について、齋藤氏の新著『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より一部抜粋しながら、ご紹介します。

ちょっとした「言い間違い」が命取りに

テレビ番組のコメンテーターなどをしておりますと、いわゆる「正しい日本語」について説明を求められる場面が多くあります。そこで頭を抱えるのが、間違った言葉を使っている人がすでに“過半数”を占めている場合です。

言葉とは、あたかも生物の進化のごとく、時代に合ったものが生き残り、そうでないものは次第に使われなくなっていきます。かつては「間違い」とされていた言葉が、あまりに多くの人が誤って使うことで、正式に辞書で扱われるようになることも少なくありません。これも、言葉の生命力ゆえでしょう。

一方で、特に社会人と呼ばれる年代の人が、ビジネスシーンなどで驚くような言葉の間違いをした場合、その人の知性を疑われてしまうこともあります。それは、多くの人が「社会人なら、日本語は当たり前にできるもの」→「当たり前ができない人」→「この人は、常識がない」と考えるためです。

したがって、いくら言葉は変わりゆくものだとしても、社会人としての「常識」として、一般的な日本語の意味合いをおさえておく必要が生じます。

ところが、日本語やその誤用に関する書籍は数多あれど、「しっかり目を通したのに……どっちが間違いなんだっけ?」と知識が記憶に残らず、結果として振り出しに戻ってしまった経験を持つ人も多いのではないでしょうか。

実は人間には、ただ一覧表を眺めるだけではなかなか頭に入ってこない知識でも、「へえ、なるほど!」「これは面白い語だ!」など、“感情が動くと覚えやすい”傾向があります。

そこで、覚えた言葉を“二度と間違えない”テクニックとして挙げられるのが、イラストを通じた視覚からの記憶へのアプローチ、加えて、その言葉にまつわる失敗談や笑い話などのエピソード(物語)を通じて、感情に訴えかけるといった手法です。

こうしたテクニックを存分に使って、あらためて、ビジネスマンとして必ず覚えておきたい「大人の教養」として、間違えやすい日本語をチェックしていきましょう。

職場で間違えたくない「煮詰まる」

さて、ここでは実際にいくつか、ビジネスシーンで間違えている人が多く見受けられる「言い間違い」をご紹介していきます。あなたは、これらの日本語を、はたして正しく使うことができているでしょうか。


(『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

語感が似ているため「行き詰まる」と混同される方が多いのかもしれませんが、意味合いはまるで違います。

「煮詰まる」は、いわばおいしくコトコト「煮詰めた」シチューのようなもの。「3日も煮詰めて、最高の味に!」「ようやく煮詰まったから、さあ食べよう!」となるわけですね。

最近では、さすがに圧力鍋の出番が多くなっているようですが、じっくり煮詰めた鍋を前に「そろそろかな?」といった風情は大切にしたいものです。


(『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

間違って使われやすい「敷居が高い」


(『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

「一見さんお断り」という表現にも似た、どこか高級なイメージを持たれる方が多いのかもしれません。しかし、この言葉は相手に対して「不義理」があるという点がポイントです。たとえば借金があったり、長いこと会っていなかったりすると、「どうも、あの家は敷居が高くてねぇ」ということになります。

そもそも「敷居」とは、家や部屋に入るための出入り口となる開口部の下にある横木のこと。この「敷居」が相手との境目になっているのでしょう。

ところが、最近では気軽に他人の家に行くことも少なくなり、この「敷居」という言葉自体が廃れつつあるように感じます。「こんなやつに、二度とうちの敷居はまたがせない!」といった台詞もすっかり聞かなくなりましたが、個人的には、できれば残したい日本語の1つです。

そういえば、学生たちが「この前◯◯の誘い断ったから、フォローしてもブロックされるかもな〜」とSNS の話をしていましたが、まさに現代の「敷居が高い」話なのかもしれません。


(『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

勘ちがいしている人の多い「触り」


(『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

「曲の触り」「触りの一節」などというと、冒頭部分のことだと勘違いする方もいますが、正しくは一番よいところ、という意味合いです。

今ではすっかりサブスクの時代となりまして、昔の曲のように、イントロやAメロを経ての「触り(=サビ)」というスタイルが通用しなくなっていますね。イントロがどんどん短くなり、そもそも「触り」から始まる曲もあるほど。学生とカラオケに行って昔の名曲を歌っても「触り」以外は「何を歌っているのかわかりません」と言われる始末です。


(『二度と忘れない! イラストで覚える 大人の教養ことば』より)

ふとした言葉遣いに滲み出る「大人の教養」

最近、本を読む人が減っています。

本の文章には、編集者や校閲者などの目が通されていますから、比較的「正しい日本語」が書かれていることが多いのですが、インターネット上の文章は、誰でも書き込めるという気軽さがある一方で、編集者も校閲者もいませんから、かなり間違った言葉であふれているわけです。

したがって、ネットニュースなど、今私たちが頻繁に目にする文章には、それだけ日本語の間違いが多いということ。チェックもせずに垂れ流された日本語にばかり触れていれば、次第に私たちの日本語力も低くなっていくことでしょう。

そう、私たちが“間違えやすい日本語”で間違ってしまう背景には、本を読む人が少なくなっている「活字離れ」にこそ原因があるのです。


さらに言えば、夏目漱石、森鴎外、幸田露伴などをはじめとする文豪の使う日本語には、いわゆる正しいか間違いかだけではない、奥深さや味わいがあるもの。

もともと日本語とは、漢字と大和言葉が出会って形成されていったものであり、かなり自由に漢字をあてていったという歴史も影響していることでしょう。たとえば「先刻」と書いて「さっき」、「一寸」と書いて「ちょっと」と読むといった類いです。

あるいは『古事記』などを例にとってみても、女性の名前に使われる「咲(さく)」という漢字を「えみ」と読むことも、あるいは「わらう」と読むこともある。なんとも風情がありますね。

――ふとした言葉遣いにこそ、その人の教養がにじみ出るもの。このような日本語本来の味わいを知ってこそ、本来的な意味で「教養のある人」といえるのかもしれません。

(齋藤 孝 : 明治大学教授)