松本人志氏(第64回ロカルノ国際映画祭時の写真)(写真:AP/アフロ)

「週刊文春」による性加害疑惑報道を受け、裁判に専念するとの意向から芸能活動を休止しているダウンタウン・松本人志。レギュラー番組を7本抱える人気芸人であり、多くの企画を生み出してきたヒットメーカーでもあるため、今後もさまざまな面で波紋を呼ぶことが想像される。

とはいえ、やはり多くの視聴者が気になるのは年末の一大イベント『M-1グランプリ』への影響ではないだろうか。

紳助の意志を引き継いだ松本

M-1は2001年〜2010年でいったん幕を閉じ、2015年に出場資格を「結成10年」から「結成15年」に変更し再スタートを切った。2011年に発起人の1人である大会実行委員長・島田紳助が芸能界引退を表明。2015年は歴代王者を審査員としたが、2016年からは松本が紳助の意志を引き継ぐ形で長らく審査員を務めてきた。

審査員の座組がなぜそうなったかは、大会の根幹について触れなければならない。そもそもM-1は、2001年に吉本興業の上層部から命じられた「漫才プロジェクト」に端を発する。

1980年代初頭に『花王名人劇場』(関西テレビ制作/フジテレビ系)や『THE MANZAI』(同系)といった番組が火付け役となり“漫才ブーム”が到来。ツービート、B&B、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんちといった若手漫才師たちが大人気となった。

しかし、3年足らずでブームは去り、漫才はあっという間に過去のものとなっていく。1990年代は東西を問わず若者の間でコントが支持され、漫才の人気は下降の一途をたどっていた。そんなときにスタートしたのが吉本興業の漫才プロジェクトだ。

漫才プロジェクトは、当時の吉本興業社員・谷良一をはじめとするわずかな人たちによって実施された。チラシやクリアファイルを持ってテレビ局や出版社、新聞社などを訪問し、漫才文化を広めるべく奔走する。


そんな地道な活動の中で、かつて漫才ブームで一世を風靡した元漫才師・島田紳助から「若手の漫才コンテストをやったらどうや」との提案を受けた。「賞金1000万円」「漫才のガチンコ勝負」というアイデアが盛り込まれたコンテストは、それまでにないインパクトがあった。

谷は、これを受けて素人のカラオケ大会で人気を博した『よしもとカラオケ選手権』をイメージしたという。

「よしもとカラオケ選手権が普通のカラオケ番組と違ったのは、決勝の前に厳密な予選を何段階もつくったことだ。テープ審査から始まって地域予選、地区予選、準決勝と勝ち進むと、決勝はなんばグランド花月で豪華なセットをバックにして、きらびやかな照明を当てられて歌える。それぞれの段階でガチンコの審査を行って、負ければそこで終わりだった。」(谷良一著『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)より)

番狂わせを起こす緊張感、また素人のカラオケ選手権と同じく、勝ち進むごとに若手の漫才がうまくなっていくだろうことも大会の魅力になる。何よりも、そのプロセスを視聴者に見せることで漫才の人気は高まっていく、と谷は考えた。

M-1審査員には若手のカリスマが必要だった

もう1つ、谷がこだわったのは審査方法だ。1999年に開始した『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)の会場の一般客100人による投票審査は、「誰にでも確実にウケる漫才が有利」になる傾向が強い。好き嫌いが分かれる漫才師のほうが後々ファンを獲得し売れていくと感じていた谷は、2002年からM-1決勝の地方審査(札幌、大阪、福岡の一般客による審査)を取りやめ、プロの審査員のみの採点システムに統一している。

この“ガチンコの審査”に欠かせなかったのが松本人志だ。前述の『M-1はじめました。』のあとがきで、島田紳助はこう書いている。

「(筆者注:M-1開催にあたって)松本人志も快く審査員を承諾してくれ、これも私には重要なことでした。演者が納得するには、松本人志がいてくれないと困るのです。当時彼は、若手のカリスマでしたから、快くオッケーしてくれ、私が引退するときもM-1頼むなの約束を守り、今もやってくれてることに感謝です」

では、いかにして松本人志は“若手のカリスマ”になったのか。これは、ダウンタウンおよび松本個人の芸風と時代背景の2つの視点から考える必要がある。

漫才ブームで活躍したコンビの多くは、舞台袖から勢いよく登場し、ボケが圧倒的にしゃべるハイテンポな漫才を特徴としていた。

しかし、ブーム後に活動をスタートさせたダウンタウンはゆっくりとセンターマイクまでやってきて、無表情の松本がボソボソとしゃべり、表情豊かな浜田が高い声でキレ気味にツッコむ。テンポを落とすことで、ボケのシュールさと抑揚あるツッコミの対比が際立つ画期的な漫才だった。

1984年に「ABC漫才・落語新人コンクール」(現・ABCお笑い新人グランプリ)の漫才の部で最優秀新人賞、1987年に「日本放送演芸大賞」で最優秀ホープ賞を受賞。同年に帯番組『4時ですよーだ』(毎日放送)がスタートすると関西でアイドル的な人気を博した。

1989年の東京進出後は、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)や『ダウンタウンのごっつええ感じ』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(ともにフジテレビ系)など、時代を牽引する全国区のコンビとなっていく。

浜田は歌手や役者としても活躍し、松本は自身の持論を赤裸々に記した『遺書』(朝日新聞社)が250万部を売り上げ、1996年に大喜利形式の番組『一人ごっつ』(フジテレビ系)をスタートさせるなど、“笑いの求道者”というイメージが根付いていった。


多くの若手芸人に影響を与えた松本人志著『遺書』(朝日新聞出版)

また漫才ブームで知名度を上げたコンビは、ビートたけし、島田紳助らボケだけが生き残るというイメージがあった。しかし、ダウンタウンはコンビで活躍できることを証明し、後続の若手に希望を持たせた。

テレビ一強の時代に求められたスター

時代的な観点から考えると、彼らは1982年に創立された芸人養成所・NSCの1期生であり師匠はいない。この点もダウンタウン以前と以降に分かれる。加えて、世は好景気でテレビ一強の時代だ。そんな中で刺激的なスターが求められるのは必然だったのかもしれない。

1990年代に入り、バブル崩壊後もバラエティーは好景気の空気を引きずっていた。毒舌、突飛な言動、体当たり企画、お色気、大掛かりなゲームやコントなど、テレビはよりインパクトのあるものを提供し、若い視聴者の多くはそれを大いに歓迎した。

お笑い第3世代と呼ばれる、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンらはそんな時代の若きスターだった。とくに関西圏に住んでいなかった筆者のような視聴者にとって、もっとも後になって目にしたのがダウンタウンだ。景気のいい時代の終わりに登場した、どの組よりも話術に長けたコンビという印象が強かった。

第1回大会から関わる審査員は不在に

昨今、若手芸人に取材する中で「学生時代、YouTubeで『ガキの使い』のフリートークを見ていた」「子どもの頃、親の影響で『ごっつええ感じ』のDVDを見ていた」と耳にすることがままある。ダウンタウンが残したトークやネタは、若年層にとっての参考書になっているのだろう。

M-1に話を戻せば、2004年、2015年と松本が審査を担当しなかった年もあり、大会を継続させること自体は難しくないだろう。しかし、発起人の紳助や谷が大会に注いだ“志”を引き継ぐ者は不在になる。第1回大会から関わった漫才師の審査員は、松本をおいてほかにいないからだ。この先、松本が復帰しないことも想定される中、2024年はどのような形で大会を開催するのか。大会に携わる制作スタッフ、出演者、そして視聴者の意見も含めた議論が必要かもしれない。=敬称略=

(鈴木 旭 : ライター/お笑い研究家)