令和ロマンの優勝で幕を閉じた「M-1グランプリ2023」。今回で19回目を数えるこの大会は、下火になっていた漫才を立て直すべく、元吉本興業社員の谷良一氏がゼロから立ち上げたものでした。

谷氏がM-1創設の裏話をつづった『M-1はじめました。』は、一つの新規事業の立ち上げ物語として読むこともできます。30万部を超えるベストセラーとなった『ストーリーとしての競争戦略』で著名な経営学者の楠木建氏が本書を読み、経営学的な視点から谷氏と語り合いました。

今回は前編をお届けします。

20年も続いた漫才低迷期

楠木:『M-1はじめました。』を読んだときに、タレントや芸人による芸論というよりも、企業のプロジェクトについて書かれた本だと思いました。これに副題をつけるとすれば、「需要創造の物語」だなと。


新しい市場が出てきて、伸びている市場を取りに行く話はいくらでもあるけれど、それは商売として二流。やはり一流は自分で需要や市場を創造することです。ピーター・ドラッカーさんをはじめ、いろいろな人が経営は究極的には需要創造だと述べています。この本には、それを達成するまでの経緯が書かれていて、興味深く読みました。

:ありがとうございます。

楠木:今はメディアを通じて芸人のお笑いが生活のさまざまなところに入り込んでいる時代です。だから、漫才というジャンルが極めて停滞していた期間が20年も続いていたとは、想像がつきにくい人も多いですよね。

僕自身は過去の漫才ブームをリアルタイムで経験し、子どもの頃はツービートやB&Bなんかをおもしろく見ていました。それが、言われてみると、漫才が話題にのぼらなくなっていたなと。この本を読んで改めて気づきました。

:私が吉本興業に入社したのは1981年です。当時、関西ではダウンタウンがデビューして活躍していましたが、その後、東京に出てしまって。1980年代の終わりには、大阪でも漫才は忘れられ、一部のファンだけが見ていたような存在になりました。

楠木:当時の漫才の状況を振り返ると、テレビで漫才番組がほとんどなくなり、漫才師もバラエティ番組のレギュラーがやりたい仕事になっていたと。漫才は一部の人向けに劇場や営業先でやるものになっていたのですね。

:それまで私は、芸人さんのマネージャーやテレビ番組制作などの仕事をしてきましたが、その頃は僕らもそういう捉え方をしていました。漫才師が漫才に力を入れずに、目指しているのは、テレビに出たり、レギュラー番組、もっと言うと、自分の名前のついた冠番組を持つこと。漫才はその足掛かりとして、本格的にタレントとして売れるのが目標なのかなと。


谷 良一(たに・りょういち)/元吉本興業ホールディングス取締役 1956年生まれ。京都大学卒業後、1981年吉本興業入社。間寛平などのマネージャー、「なんばグランド花月」などの劇場プロデューサー・支配人、テレビ番組プロデューサーを経て、2001年漫才コンテスト「M-1グランプリ」を創設した(撮影:今井康一)

漫才が落語と同じ道をたどった可能性

楠木:漫才は確立されたお笑いのジャンルだと思いますが、もしかすると、今の落語のような成り行きになったかもしれないということですね。つまり、芸として深くて、なくなるものではないけれど、一部の本当に好きな人だけが劇場に観にいく。

:そうですね。特に関西の落語では1970年代に笑福亭仁鶴さん、月亭可朝さん、桂三枝さんなど活躍していましたが、それ以降は長期低迷していました。漫才もそれに近い状態になるのかなと。もっとも落語の場合は、古典落語があるので、一定数の根強いファンがいて廃れないだろうとは思っていました。

楠木:落語は1人でできますしね。

:落語家は売れてなくても、食えると言われていました。街中で演じれば、たとえギャラが5万円でも全部自分に入ってくる。漫才は2人で分けないといけない。だから、漫才師は食うのが大変なのです。

楠木:この本で非常に印象だったのは、テレビにおける漫才の停滞ぶりを示すエピソードです。かつて漫才ブームの中心にあったフジテレビで、漫才の番組をつくったときに、サンパチマイク(固定式のスタンドマイク)を使わず、音がクリアにとれるからと、ピンマイクやガンマイクを使う。カメラも話している人に寄るので、相方のリアクションが撮れないとか。それではおもしろさが伝わらないんだと。

:空白の期間があったので、カメラマンや音声さんの間で、バストショットで2人を撮って、掛け合う声を拾うという漫才を見せる基本が伝承されていなかったのですね。

楠木:今では信じがたいことですね。そういう最高に忘れられていた時点で、谷さんは木村政雄常務の指示で、1人で漫才プロジェクトをやることになった。これは吉本で新しいことをするときによくあるパターンですか。

:そんなこともないと思います。当時、吉本では新喜劇もジリ貧でマンネリ化していて、新喜劇と漫才は2本柱なので立て直そうと。それで、私は漫才プロジェクトをやれと言われました。期待されたというより、どちらかというと仕事を外されたのかなと思っていました。


楠木 建(くすのき・けん)/一橋ビジネススクール特任教授 1964年東京都生まれ。1992年一橋大学大学院商学研究科博士課程修了。一橋大学商学部助教授および同イノベーション研究センター助教授などを経て、2010年より一橋ビジネススクール教授。2023年から現職。専攻は競争戦略とイノベーション。著書に『ストーリーとしての競争戦略』(東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社+α新書)のほか、近著に『経営読書記録(表・裏)』(日本経済新聞出版)などがある(撮影:今井康一)

面談で聞き出した漫才師の本音

楠木:それで最初になさったのが、漫才師の現状把握ですね。当時の吉本のお笑いの劇場で漫才師を観察した。若手が出る劇場の「baseよしもと」には、20代のお客さんが入っていて、漫才のレベルも意外と高い。

:そうです。しかし基本は、ルックスのいい漫才師には女性ファンがついていて、いつも同じ顔ぶれで、男性客はいない。それに、漫才をしていないようにも見えました。普通にネタをすると、コアなファンはみんな知っているので、だらっと立ち話風で。

楠木:アイドルのコンサートのようだったのですね。要するに、表面的には需要は薄くなっている。ところが、漫才師全員に1人ずつ面談すると、供給側はみんな本音では漫才がしたいと思っていた。例えば、西川のりお・上方よしおは、漫才が一番楽しいし、漫才で食えたら幸せだと。キングコングもキャーキャーともてはやされても嬉しくなくて、漫才がしたいと思っていた。

:そう言われて、ほんまかいなという感じで。

楠木:つまり、漫才には、それだけやる側にとってもほかのジャンルと違った魅力がある。それは何でしょうか。

:たぶん、みんな関西出身なので、子どもの頃から、横山やすし・西川きよし、オール阪神・巨人などを見て、好きだったのでしょう。たとえば、中川家は新聞販売店から招待券をもらって、兄弟2人で劇場に観に来て、前に座ってやじをとばしていたそうです。

漫才はコントやトークよりも難しい

楠木:僕がこの本で意外だったのが、漫才の特殊性です。ほかのコントやトークよりも難しい。コントは小道具が使えるけれど、漫才は言葉だけ。しかも、短い時間で自分たちで世界観をつくって、そこに観客に入ってもらわないといけない。

:そうですね。コントは、白衣を着て聴診器をつければ、お医者さんだとわかる。漫才はそれをつくらないといけないので。その代わり、すぐに違う世界に飛べるのです。そこは言葉だけでやる強みでもある。しかし、新人や若手にとって、その世界に持っていくことは難しいし、間を合わせるために、稽古を何度も重ねないとできるようにならない。

楠木:僕は、すぐに役立つものほど、すぐに役立たなくなるのが、世の中の鉄則だと思っています。他のジャンルよりも難しい分、見ている側にとってはおもしろいし、そのおもしろさが長続きする。芸としての賞味期限が長くなる。そのあたりが完成された究極の笑いの形態で、芸人が漫才をやりたいと思うほど、本格的な仕事ではないかと思うのですが。

:どうなんでしょうね。子どもの頃に憧れた漫才師や漫才が前提にあって、取っかかりとしてコントをしていたとは思います。

楠木:意外と供給側はやりたい気持ちがあり、クオリティも高い。仲間も増やしてもらい、いろいろ試行錯誤しながら、プロジェクトを進めて、M-1コンテストのアイデアに帰着します。M-1のほかには、どんなアプローチをお考えになったのでしょうか。

:「漫才大計画」というイベントでは、吉本新喜劇の劇場でお客さんに残ってもらい、無料で漫才をしました。ただ、前座で漫才やアクロバットみたいなものがあり、新喜劇を観て3時間。もうお腹いっぱいで、「この後やりますから残ってください」と言われても、もうええわと帰ってしまう人が多くて。858人の劇場に100人くらいで、もちろんチケットも売れない。「base漫才計画」は小さい小屋なので、お客さんが入りましたが。

楠木:baseにはもともと熱狂的ファンがいましたよね。それで、やる側に大きなヒノキ舞台を用意したと書かれていました。

:baseには、普通の興行で一生懸命漫才をやっている、おもしろい若手を出演させました。そして、ここで反応の良かった芸人を「大計画」にも出すようにしました。ふつう若手はヒノキ舞台に立てないので、そこは喜びだったのかもしれません。

楠木:大計画には、大木こだまひびきなど、中堅も出ていたんですよね。

:そうです。中堅を出して、その前の2組、3組は若手を出しました。

楠木:そこから時々、テレビの番組で新しい企画が出てきたと。

:そうです。関西で一番後発のテレビ局のテレビ大阪が年2回特番をやっていました。3月にオンエアしたら視聴率が良かったので、またやりましょうと。僕らも売り込みにいって、「めっちゃ!漫才」という番組をつくってもらって、これがすごくよかった。漫才大計画で受けた若手や中堅のコンビを優先的に出しました。そうやって、漫才自体の世間の認知度がゼロに近いところから、10から15くらいになりました。

ボトムアップのアプローチで土壌を整備

楠木:ボトムアップのアプローチですね。現場の人たちの考えや声を聞いて、だんだん広げていく。M-1で真剣勝負をやるようになったのは、「めっちゃ!漫才」を放送した後でしょうか、その前からでしょうか。

:少し後です。島田紳助さんと楽屋で漫才の話をしたときに、「若手コンテストをやろう」と言われたのです。上方漫才大賞、お笑い大賞、ABC漫才コンクール、NHK漫才コンテストとか、すでにいろいろあった。正直、ありきたりやなと思ったのですが、そこは紳助さんのすごいところで、賞金を1000万円にしようと。新人賞で10万円が相場の時代に2桁違うのはすごいな、何かが起こせるかもしれないなと思いました。

楠木:司会者として活躍されていた紳助さんが、そういうことが大切だとお考えになっていた理由は何でしょうか。ご自身は漫才をやめていらしたんですよね。

:紳助さんが漫才をやっていたのは8年間で、それから15年くらい経っていましたが、自分は漫才によって育てられたという感謝の気持ちがあって。でも、お返しをしていないと。そこに僕が飛び込んで、プロジェクトをつくって漫才を盛り上げようとしていますと言ったら、すごく喜んでくれました。

楠木:1000万円という賞金の金額はすごく重要な要素だと思うのですが、ほかにも最初から条件設定がうまかったと思います。真剣勝負で、その日、その場の漫才しか評価対象にしない。笑いのプロしか審査員をやらない。10年目まで。それから、吉本以外の人やアマチュアも参加できる。1000万円以外の条件については、谷さんが考えられたのでしょうか。

:私が思っていたのは、吉本だけ、大阪だけで漫才コンテストをやっても、絶対にムーブメントは起こせない。全国ネットでやらないと、大阪のローカルイベントにすぎなくて、注目してもらえない。嘘みたいな話ですが、大晦日の紅白歌合戦の裏で、日本レコード大賞のようになったらいいなと。

楠木:最初から高い目標を据えることは大切です。ついつい、やりやすいほうに迎合してしまう。途中で、一緒に働く部下が「このプロジェクトをつくられたではなく、谷さんがつくったと言ってくれ」というあたりから、お仕事に対する取り組みも変わったというのも、いい話ですよね。

:嬉しかったですね。

M-1にアマチュアも参加できる理由

楠木:なぜアマチュアを参加させようと思ったのでしょうか。


:カラオケが裾野を広げたのと同じかなと考えました。それまでは一般の人は、プロの歌手の歌を聴くだけやったわけです。のど自慢はあったけれど、一握りの歌のうまい人が出る。それが、カラオケができて、一般の人も自分で歌う喜びを知った。下手でも歌えば気持ちいいし、うまい人はみんなに聴かせたい。お笑いも、一般の人の中で自分はおもしろいと思っている人が、特に関西にはいっぱいいます。それから、カラオケを自分で歌ったり、人の歌を聴くと、やはり歌手はうまいなと思う。

楠木:プロはなんでこんなに違うんだろうと考えさせられますよね。

:漫才も一緒ちゃうかなと。参加者を増やしたいということもあったけれど、実際に自分がやってみると、漫才師のすごさがわかってくるし、親しみも感じてもらえるのではないかと。そういう思いがありました。

(構成:渡部典子)

(後編は1月14日に公開予定です)

(谷 良一 : 元吉本興業ホールディングス取締役)
(楠木 建 : 一橋ビジネススクール特任教授)