元巨人プロスカウトが明かす木佐貫洋のトレードの舞台裏 交換要員を伝えられた原監督は「高木? 誰?」
元巨人・香坂英典が語る「プロスカウト」のお仕事(後編)
3年前まで巨人のプロスカウトを担当していた香坂英典氏。前編ではプロスカウトの仕事について語ってもらったが、後編では実際どのようにしてトレードが行なわれたのか。実例とともに紹介してもらった。
2009年にトレードで巨人からオリックスに移籍した木佐貫洋 photo by Sankei Visual
「巨人というチームは、毎年優勝を求められています。勝ちながら中長期的な視点に立って選手を育成していくということはとても難しい。勝つためには若手選手を我慢して使い続けることができにくい球団です。そのため好素材であっても、なかなか開花させられないこともありました」
たとえば、香坂氏がプロスカウト2年目に携わった木佐貫洋とオリックス・高木康成の1対1トレードの話。
「2009年当時の巨人は、左の中継ぎ補強に迫られていました。この時、勝ちパターンで使える切り札的投手は山口鉄也しかいませんでした。山口の登板過多の傾向をチーム首脳は危惧しており、一軍のリリーフとして定着し、少しでも彼の負担を減らすことができ、勝利に貢献できる左腕をトレードによって補うということが急務となっていました」
そこで交換要員にあがったのが木佐貫だった。木佐貫は力強い速球とフォークが武器の本格派右腕。入団1年目の2003年には10勝を挙げ新人王に輝き、07年にも12勝をマークした。
「でも、木佐貫のその後は登板すれば打たれる......の繰り返しでね。見ていても、気の毒になるくらい気持ちが萎えている印象でした。フロントとしても『巨人じゃちょっと厳しいな』というイメージが強くなっていったはずです。そして、あるシーズンオフにある幹部から『木佐貫の環境を変えてやりたい』とトレード要員になったんです」
つまり、木佐貫を交換要員に左の中継ぎ投手を獲得せよとの指令を受けた。そこで香坂氏が球団幹部に提示したリストのなかにあったのがオリックスの高木だった。
「当時のオリックス投手陣はエースに金子千尋がいて、岸田護、近藤一樹、平野佳寿、香月良太、菊地原毅、加藤大輔など、パ・リーグの投手陣ではトップクラスの充実度があった。そのなかで高木の序列はそれほど高くなく、じつは肩の故障後ということもあり、登板が少なくなっていました。この形ならスムーズに合意するとは思っていましたが、実績から言えば釣り合いがとれないという意見もありました」
香坂氏が続ける。
「木佐貫を交換要員とするのだから、ストッパークラスの投手がチームとしてはほしいのは当然わかっていました。でも、左のリリーフ層はどの球団も薄く、不在といってもいいチームも多くありました。もしあれが、木佐貫クラスの投手を交換要員にできなかったら、トレード成立とはならなかったもしれません。成立しなければ、何も変わらない、何も起きないのです。私は山口の負担が減らすことだけを考えました」
【外のメシを喰う重要性】結果的に、このトレードは成功だった。木佐貫はオリックスに移籍した2010年に10勝を挙げ、なにより先発ローテーションとして28試合に登板した。
「その後、2ケタ勝利は果たせず、2013年から日本ハムに移籍しますが、プロで13年間も投げ続けたんですよね。木佐貫のためにはよかったと思っています」
一方の高木は巨人で4年間プレーし、時には先発起用もされるなど108試合に登板、5勝5敗22ホールドと中継ぎとして投手陣を支えた。
木佐貫は引退後、巨人に戻り、スカウト、投手コーチを歴任。高木も引退後は巨人で一軍マネージャーや監督担当マネージャーを歴任し、現在編成本部長補佐の役職に就いている。
「ふたりとも複数の球団でプレーしたことは、引退後の仕事に役立っていると思います。『外のメシを喰う』ということはとても大事なことだと思います。球団によってのさまざまな違いは、実際にその場に身を置いてみないとわからないことで、その経験で視野が広がり、人脈だって増えます。私自身も巨人というチームのことしか知らない身であり、ほかのチームのことは知りませんでしたが、他球団調査であるこのプロスカウトの仕事をしたことで、他チームを知るということの重要性を強く感じました」
そして、こんな裏話を教えてくれた。
「ただ高木の獲得について、当時の監督だった原(辰徳)さんはあまり乗り気でなかったのかなと思っています。原さんは先発であれ、中継ぎであれ、とにかく球の速い投手がお気に入りでした。でも高木は変化球が武器の技巧派で、ストレートの球速は最速が140キロちょっとだった。実際、トレードの話を聞いた時に『高木? 誰?』って言ったらしいです(笑)」
【今も脳裏に浮かぶトレードで獲得した打者】香坂氏はおよそ10年のプロスカウト人生で、数十人のトレード、FAに携わってきた。もちろん、すべてが成功だったわけではない。香坂氏のなかで、今も脳裏に浮かぶ打者がいる。
「日本ハムから獲得した高橋信二という右のスラッガーがいました。かつては4番も担っていた打者です」
2010年、当時の巨人は右の長距離砲を探していた。
「高橋の存在は当然把握していました。しかし、4番を任されたこともある打者です。簡単に獲れるとは考えていませんでした」
ところがトレードが成立した前年、ハプニングが起きた。試合中に頭部に死球を受け、ケガを負ったのだ。
「翌年は出場機会が減りましてね。こういうケース、プロスカウトはトレードの可能性を考えます」
香坂氏は本来トレード交渉をする立場ではないが、この時は直接、日本ハムのGMと交渉するよう幹部から命じられた。
「交換要員の話をすると、日本ハム側が求めている選手は若手の有望株ばかりで、とてもこちらが呑める条件ではなかったんです」
結局、交換トレードの話は一度立ち消えたが、再度交渉の結果、翌年の5月に金銭トレードという形で獲得に至った。だが、移籍してからの高橋はなかなか結果を残せなかった。
「高橋は頭部死球の影響で打撃に影響はないのかという点の最終判断が行なわれ、統括ディレクターがクロスチェックをし、GOサインが出て金銭トレードは成立しましたが、彼が結果を出せなかったのは残念なことでした」
獲得して結果を出せなかった選手には、無念さが残る。
「トレードでチームを移るということは、その人の人生まで変えてしまうものです。『獲得しましたが、ダメでした』という結果は本当に忍びないですね」
そのため、慎重になりすぎることもあったという。
「最終的にトレードを決断するのは、チームのトップです。プロスカウトはあくまでも調査し、報告することが仕事です。そして問われれば意見を述べます。だからこそ自信を持って報告できるような調査が大切になってくるんです」
昨年から開催された現役ドラフトについては、どんな思いで見ていたのだろうか。
「現職の頃から現役ドラフトの話は少し聞いていました。最初は各球団から10人程度を候補にするといった案もあったようで、それからもさまざまな議論があったようですね。課題も出てくると思いますが、まずは続けることでしょう。どんな形であっても、選手の可能性を求めて、プロ野球界の活性化につながるような現役ドラフトになればいいと思います」
最後に元プロスカウトの立場として、香坂氏はこう語る。
「選手たちは戦力として必要とされない時が来れば戦力外となります。各球団のプロスカウトは他球団の戦力外選手のなかで、自チームならばまだ力を発揮できると判断した場合は再契約を検討します。また戦力外選手の進路になる独立リーグやアマチュア野球関係ほか、多くの問い合わせの窓口になるなど、選手救済のための"お手伝い"も行なっています。球界の財産である選手に対して、最後まで関わっているのがプロスカウトの仕事でもあります」
その思いは、現場を離れた今でも変わらない。
香坂英典(こうさか・ひでのり)/1957年10月19日、埼玉県生まれ。川越工業高から中央大を経て、79年ドラフト外で巨人に入団。4年目の83年にプロ初勝利を挙げるも、翌年現役を引退。引退後は打撃投手をはじめ、スコアラー、広報、プロスカウトなどを歴任。2020年に巨人を退団し、21年秋からクラブチームの全府中野球倶楽部でコーチを務めている