日本はいかにして「漫才先進国」になったのか(イラスト:graphicalicious/PIXTA)

12月24日に漫才コンテスト「M-1グランプリ」の決勝戦が行われる。それを前に、2001年にM-1を立ち上げた元吉本興業の谷良一氏がM-1誕生の裏側を初めて書き下ろした著書『M-1はじめました。』が刊行された。

『M-1戦国史』の著者であるお笑い評論家のラリー遠田氏が、本書のバックグラウンドを考察した。

マヂカルラブリー優勝をめぐる大論争

2020年の「M-1グランプリ」でマヂカルラブリーが優勝したとき、彼らのネタについて「あれは漫才じゃない」と主張する人が出てきて、空前の「漫才論争」が巻き起こった。


論争自体はすぐに下火になったものの、長い「M-1」の歴史の中でも、優勝者の漫才について反発の声があれほど出てくるのは初めてのことだった。

論争の是非については今さら言うまでもない。マヂカルラブリーは、プロのお笑い関係者が審査する予選を勝ち抜き、プロの芸人が審査する決勝でチャンピオンに選ばれた。そんな彼らがやっていることが漫才でないわけがないのは明らかだ。

そんなことよりも、個人的に興味深いと思ったのは、論争が起こるくらい多くの一般人が漫才というものについて自分なりの考えを持っていて、それを他人に主張したくなっていたという事実だ。いつから日本はこんなにも国民の漫才への意識が高い「漫才先進国」になったのだろう。

もちろんそれは「M-1グランプリ」が生まれたからだ。新しい漫才の大会「M-1」が始まり、それが徐々に人気を獲得していき、今では年末の風物詩としてすっかり定着して、国民的行事と呼べるほどの高い視聴率を取るようになった。

「M-1」は芸人と観客を育てた

「M-1」は、それまでにもあったようなただの漫才番組ではなかった。漫才という芸の面白さや奥深さを人々に発信する役目を担っていた。出場する芸人は、一攫千金の「M-1ドリーム」をつかむために、決死の覚悟で厳しい予選に挑む。回を重ねるごとに大会のレベルは上がっていき、決勝まで勝ち残った芸人の珠玉の漫才は、日本中を大きな笑いで包むようになった。

「M-1」は芸人を育てると同時に、観客を育てた。今まで以上に人々が漫才に興味を持つようになり、ついには多くの人が自分なりの「漫才観」を持つまでになった。あの漫才論争は、この国における漫才文化の成熟の証しでもある。

私はお笑い全般に関する執筆を生業としている。2010年には「M-1グランプリ」のそれまでの歴史をまとめた『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)という著書を出版したこともある。

そんな私にとって、島田紳助氏と吉本興業の谷良一氏が漫才復興のために「M-1」という大会を立ち上げた、という「M-1誕生物語」は、事実としてはすでに知っていることだった。

しかし、歴史の生き証人である谷氏が書いた『M-1はじめました。』を読むと、そんな私でも知らなかったような「M-1」創設の経緯が事細かに記されていて、感銘を受けた。これは間違いなくお笑いの歴史における一級史料である。

本書を読めば、お笑いに詳しい人もそうではない人も、「M-1」を立ち上げるまでにどのような苦労があったのかということがありありとわかり、「M-1」という大会の革新性が理解できる。お笑い関連のノンフィクションとしてもビジネス書としても有意義な一冊だ。

本書を読んで改めて気付くのは、「M-1」が生まれる前、漫才がいかに不遇の状態にあったのかということだ。漫才文化が根強くある関西地域に住んでいる人はそこまで実感がないかもしれないが、それ以外の人にとって、漫才とはどこか遠い世界のものであり、流行っていないどころか、認識すらされていないものだった。

芸人の成功に漫才の介入余地はなかった

当時の芸人の一般的な成功モデルは、テレビに出てチャンスをつかみ、ゴールデンタイムでコント番組をやることだった。「芸人の成功=コント番組」という時代だった。

ザ・ドリフターズ、ビートたけし、明石家さんま、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンなど、スター芸人の誰もがコント番組を自分たちの根城にしていた。芸人が成功するとはそういうことであり、そこに漫才が介入する余地はなかった。

そんな時代に、吉本興業の谷氏は「漫才を盛り上げるためのプロジェクト」を任された。すっかり時代遅れになってしまった漫才を復興するというのは、大それた目標だった。だからこそ、谷氏も当初は苦戦を強いられた。漫才プロジェクトは、吉本興業の内部ですらそれほど期待されておらず、見向きもされていない地味な計画だったのだ。

「M-1」が始まった当初、それがのちにこれほど大きな大会になると思っていた人は、業界内にも一般視聴者にもほとんどいなかったのではないか。一お笑いファンである私自身も例外ではなかった。

第1回の「M-1」では、あの松本人志が審査員席に座るということ自体が画期的なことであり、そこに話題性があった。この時点では「M-1」は単なる漫才特番でしかなかった。

しかし、結果的に「M-1」は全国民を巻き込む巨大イベントへと成長を遂げた。そこにはさまざまな要因があり、さまざまな人の尽力があるに違いない。

今に受け継がれる立ち上げ当時の理念

ただ、その中で最も大きいのは、発起人である島田紳助氏と谷氏が本気で漫才を愛し、漫才復興のために必死で動いたことだ。その立ち上げのときの理念は、22年経った今でも「M-1」のスタッフに受け継がれ、彼らの中で息づいている。だからこそ、「M-1」の人気がいまだに衰えていないのだろう。

お笑い関係の番組や舞台は、基本的にはそこに携わる演者やスタッフによって作られているものだが、個人的には「M-1」だけは「お笑い業界のもの」でありながら、その枠を超えた「みんなのもの」であるという感覚がある。

普段それほどお笑い番組を見ていない人ですら、年に一度の「M-1」だけはチェックしていたり、結果に興味を持っていたりする。そんな番組は「M-1」しかない。

漫才は面白く、漫才の大会は面白い。そして、『M-1はじめました。』に描かれた漫才の大会が始まるまでの舞台裏も、同様に面白いものなのだ。

(ラリー遠田 : 作家・ライター、お笑い評論家)