1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:真弓明信(前編)

 1992年のプロ野球セ・リーグのレギュラーシーズンは4月4日に開幕し、阪神は10試合を戦って6勝4敗。4月の1カ月でも12勝9敗と勝ち越したが、その時点で首位は広島で13勝6敗。開幕ダッシュに成功したわけでもない。それでも、2年連続最下位に終わった前年の4月は5勝11敗。各マスコミが「快進撃のタイガース」と表現したくなる成績ではあった。

 好スタートの4月。その推進力となったのは、オープン戦のチーム防御率がリーグ1位だった投手陣。先発では仲田幸司、猪俣隆、中込伸が好調で、新守護神の田村勤は1勝5セーブで失敗なし。野手では抜擢された若い選手の活躍が目立ち、5年目捕手の山田勝彦、新人遊撃手の久慈照嘉、5年目外野手の亀山努という3人がとくに光っていた。

 若手が台頭する一方で、出番が減ったのはベテラン勢だ。捕手の木戸克彦、内野手の平田勝男、岡田彰布、外野手の真弓明信という85年の日本一メンバー。胴上げ投手の中西清起も二軍落ちしていたが、彼らの目に「快進撃」はどう映っていたのか。全盛期は"史上最強の1番打者"と呼ばれ、92年はチーム最年長の39歳。キャンプから亀山に助言していたという真弓に聞く。


1992年はチーム最年長だった真弓明信 photo by Sankei Visual

【指揮官は若手を積極起用】

「亀山はね、ロッカーが隣やったんですよ。僕もだいぶ歳とってたし、その年はもう常時試合に出るって感じでもなかった。それに、開幕前に肩を痛めてね。甲子園のラッキーゾーンがなくなったからって、キャンプから帰って来て甲子園で練習した時、ライトのポジションに就いていて、外野と内野の連係を何回もやっているうちに痛くなって。全力で投げられなくなったから」

 前年12月に甲子園球場のラッキーゾーンが撤去され、左中間、右中間が8mも深くなったことによる練習で右肩故障。真弓は開幕2試合目でスタメンを外れ、代打がメインとなる。のちに肩は回復したが、その間、打撃で助言した亀山がライトのポジションをつかんだ。だからどうということはなく、のちにブレイクした新庄剛志も含め、若手への助言は率先して行なっていた。

「ただね、あいつらアドバイスしても、聞いてるのか聞いてないのかわからへんからね(笑)。実際、その3年後、山内一弘さんがバッティングコーチで来られた時もそう。練習終わって、『おい、真弓。新庄と亀山って、指導しても聞いてるんか聞いてないんか、全然わからへん。どないなってんねん』って言われたんです。それで僕はこう答えました。『山内さん、それは違いますよ。一生懸命、聞こうとしてやってるんやけど、できないっていうだけですから』って。そしたら『そうかあ? ほな、もうちょっと、ちゃんと教えなあかんな』って言ってました。最近の若い子はそんなもんです(笑)」

 山内は毎日(現・ロッテ)、阪神、広島で19年間プレーし、通算2271安打、396本塁打、1286打点を記録して"打撃の職人"と称された。引退後はロッテ、中日で監督を務め、巨人、阪神、オリックスでコーチを歴任しており、95年の阪神打撃コーチは2度目の就任で当時63歳。徹底的な熱血指導で有名だったが、40歳近く年下の新庄、亀山は暖簾に腕押しだったのか。

「いや、たぶんね、ちゃんと聞いていたと思いますよ。ふたりとも性格はものすごくいいからね。でも、この年、たしかに亀山、新庄って若手が出てきましたけど、数字的に言うと、そこまでの成績じゃない。にぎやかに、若い人がやり始めた、っていうだけで」

 亀山と新庄の「数字」については、岡田の発言と合致する。「何かすごいブレイクしたようになってるけど、別にそこまで数字とか残してないやん」と指摘しているのだが、中村勝広監督は若手に切り替える方針だった。「日本一になった優勝メンバーに取って代わる時代の象徴」として亀山を抜擢。4月25日の中日戦、チャンスで岡田に打席が回ると代打に亀山を起用した。

「それ、自分のことみたいに覚えてる。その時、チーフコーチの石井晶さんに言うたもん。『絶対これ、事情を説明しにいかなあかんよ』って。たしかに岡田は調子が悪かったし、しょうがないのはしょうがないんだけど、長年、タイガースを支えてきた選手。代打を出すにしても、ほかにいろんなところがあるのになって思ったからね。

 別に、その試合ぐらい我慢してもよかったんじゃないかということも考えた。いや、監督の采配で岡田を代えるのは間違ってはいないと思うけど、フォローだけはしておいたほうがいいよ、ということをコーチに言うたんです」

 結局、コーチの言葉は岡田の心に響かなかったのか、もしくは、コーチが岡田に説明することはなかったのか。そもそも、監督からの事前説明もなかったため、屈辱を受けた岡田はその夜から「やる気をなくして」しまい、4月30日にはスタメンを外れた。オープン戦で右足を負傷した影響で打撃の調子が上がらず、その時点の打率は1割5分台。以降は代打が中心となった。

【痛かった守護神・田村勤の離脱】

 一方、開幕当初から代打がメインの真弓は打撃好調だった。新庄が一軍に昇格し、初打席でプロ初本塁打を放った次の日、5月27日の大洋(現・DeNA)戦。1対1の延長15回裏(当時のセ・リーグは延長15回制)、二死一、二塁の場面、代打の真弓がレフト前にヒットを放つと、二塁走者の亀山が生還してサヨナラ勝ち。5時間28分の熱戦のあと、真弓はこう言っている。

「フォークがくると思ってたんだ。だから、それを待ってた。ボールはよく見えていた。バッティングは水ものだけど、若手が頑張っているし、締めるところは締めないとね。こんな時間に野球やって、ヒーローになるなんて初めてだよ」

 この試合で4連勝となったのだが、その4試合すべて1点差。4月の12勝のうち5勝が1点差で、5月も12勝した中で半分の6勝が1点差だった。接戦を制するチームになり、大量失点の惨敗も少ない反面、大差で勝つ試合はほとんどなかった。

「だからこの92年はね、ピッチャーやと思う。先発は中込とか湯舟(敏郎)が出てきて、田村が抑えでしっかりして。田村は本当に打たれなかったから。ただ、1点、2点とって、それを守りきって勝つと、何かずっと追われているみたいな感じになる。連勝もしない代わりに連敗もしないというのはよかったと思うんだけど、打線が点とれなかったのがね......」

 投手陣の踏ん張りで貧打をカバーしていた阪神だったが、7月に入り、田村が左ヒジの故障で離脱する。5勝1敗14セーブ、41回を投げて防御率1.10という守護神を欠くことになったのだ。

「点がとれなくて、何とかピッチャーで持っていたなかで、田村の故障がいちばん痛かった。だから僕、全然関係ないんやけど、ピッチングコーチの大石(清)さんにわざわざ言うたことあります。遠征先の宿舎で大石さんに『酒飲もうか』って言われて、部屋で飲んでる時。『これ、最後の抑えはね、もう野田(浩司)しかいないですよ』って」

 野田は右ヒジ痛の影響で開幕時から不調。5月半ばから二軍暮らしだったが、チームが6月末から7月にかけて連敗する最中に昇格して復活。7月8日の大洋戦で完封して連敗を7で止めるとチームは息を吹き返し、前半戦を2位で折り返すきっかけをつくった。その後も野田は先発するたびに快投。4連勝で7月の月間MVPを受賞したが、真弓の考えは抑えでの起用だった。

「誰が見ても野田は真っすぐが速いし、フォークがあって三振がとれる。だから抑えとして一番いいんちゃうかと思って大石さんに言わせてもらいました。けど、『うーん、考えておくわ』で話は終わりましたね」

後編につづく>>

(=敬称略)

真弓明信(まゆみ・あきのぶ)/1953年7月12日、福岡県出身。柳川商から社会人野球の電電九州に進み、72年のドラフトで西鉄ライオンズに3位指名され入団。 78年に遊撃手のレギュラーとなり、オールスターに初選出され、ベストナインにも選ばれた。その年のオフのトレードで阪神に移籍。79年から1番・ショートに定着して、外野手にコンバートされた85年は不動の1番打者として球団初の日本一に貢献。94年には代打の切り札として活躍。シーズン30打点の日本記録を樹立した。95年に現役を引退。引退後は解説者、近鉄でコーチを歴任後、09年から3年間、阪神の監督を務めた