方広寺の梵鐘に刻まれた言葉が物議を呼ぶ(写真:鴨川さんぽ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は徳川家康と豊臣秀頼の対立が深まった、方広寺鐘銘事件の背景を解説する。

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関ヶ原の戦い後の慶長16年(1611)3月、徳川家康は豊臣秀頼と二条城で会見した。今後、徳川と豊臣との関係がどうなるのか。人々の不安が解消されたわけではないが、「無事に会見が終わったことはめでたい、これで天下泰平になった」とする声も聞かれた。

対立が深まった「方広寺鐘銘事件」

しかし、そうした声を打ち消すかのような事件が慶長19年(1614)7月に起こる。有名な方広寺鐘銘事件である。

方広寺とは、京都市東山区にある天台宗寺院である。豊臣秀吉によって3年がかりで造営され、天正17年(1589)に完成。僧侶・木食応其(もくじきおうご)が開山となった。

文禄4年(1595)には大仏殿も完成し、そこには金箔で彩色された木造の大仏が安置される。ところが、慶長元年(1596)、いわゆる慶長の大地震により、大仏殿は倒壊してしまった。

豊臣家ゆかりの寺院である方広寺大仏殿の再建を志したのが、秀吉の子・秀頼であった。再建途上で火災により消失するが、それでも秀頼は諦めなかった。

慶長14年(1609)から再建の準備に入り、翌年に工事開始。慶長17年(1612)に大仏が完成した。大仏殿が再建されたのは、慶長19年(1614)のことだった。

大仏殿の再建は、亡き父・秀吉の追善供養ということもあるが、豊臣家の威信をかけたプロジェクトとなっていた。

後水尾天皇から勅定(天皇の決定)を得て、同年8月3日には、大仏の開眼供養が行われることになった。

その直前の7月上旬には、大坂から秀頼の使者が駿府の家康のもとに遣わされ、秀頼からの進物(金・太刀・馬)が献上されており、この時点では、徳川と豊臣の間に、方広寺をめぐる対立は起きていない。

だが7月21日、家康は、金地院崇伝(臨済宗の僧侶)と板倉重昌を呼び、方広寺大仏殿の鐘銘は「徳川方にとって不吉な語句がある。上棟の日も吉日ではない」と激怒した。方広寺の梵鐘に刻まれた言葉が、家康の機嫌を損ねたのだ。

家康の二文字を分断する言葉が刻まれる

その言葉は「国家安康」「君臣豊楽」。「国家安康」は国の政治が安定していることを意味する。「君臣豊楽」は、君主から民衆に至るまでが豊かで楽しい生活を送るという意味で、どちらもとても縁起がよいように思う。だが、家康はそれを不吉と捉えた。

「国家安康」は「家康」の2文字を分断している、「君臣豊楽」は「豊臣」を君主として楽しむ、という意味ではないかと疑ったのだ。


「国家安康」「君臣豊楽」の2字(写真: 46-2 /PIXTA)

8月3日、2代将軍・徳川秀忠は、方広寺大仏殿の再建供養を延期することを命じる。このことに、天下の人々が驚き、騒ぎになったという。徳川と豊臣の間に衝突が起こるのではないかと懸念したのだ。

大坂方の片桐且元は、8月3日に開眼供養と堂供養を行いたいと申し入れた。8月18日には、豊国神社で臨時祭(秀吉の17回忌)が行われるからであった。

しかし、徳川方の主張に変化は見られなかった。大仏開眼供養などを延期し、吉日を選び、行うよう要請したのだ。

片桐且元は秀頼の命により、8月13日に駿府に赴く。片桐且元は、応対した金地院崇伝と本多正純に対し「秀頼から家康・秀忠に対し、叛逆の意思はないとする起請文を提出しよう」との提案を出した。

ところが、家康はそれを拒否する。片桐且元は、約1カ月もの間、駿府に滞在したが、解決策を見いだすことができず、大坂へと戻ることになった。片桐且元の足取りは重かったに違いない。徳川方からは鐘銘問題とは別に、次の3カ条の案が持ちかけられていたからだ。

その案というのは「豊臣氏は大坂城を明け渡して国替えすること」「豊臣氏は、ほかの大名と同じく江戸に屋敷を持ち、住むこと」「それらが不可能ならば、淀殿(秀頼生母)を人質に出すこと」というものであった。

それにしても、徳川方(家康)はなぜ、突然このようなことを言い出したのか。

それは、大坂方が軍備増強をしており、そのような態度を改めて、淀殿が江戸か駿府に住むならば、秀頼は今後長く生きることができよう、との理由からであった(『駿府記』)。

そうした理由から、家康は先の3カ条の提案をしたのだ。秀頼らがもし「野心」を改めなければ、天下の軍勢が大坂城を攻め落とすであろう、という家康の強硬な態度。大仏殿をめぐる騒動で、秀頼らが徳川方に謀反を起こすのではないかとの話もあり、家康は警戒していたのかもしれない。

片桐且元の殺害命令が下される

片桐且元が大坂に戻った9月18日、大坂方にこの3カ条が示された。もちろん、秀頼や淀殿がこのような提案をのめるはずはない。秀頼と淀殿は機嫌を損ね、秀頼は片桐且元を殺せと命令を出したという。

殺害指令を知った片桐且元は、大坂城内の自邸に籠もった。だが、大野治長らの軍勢が自邸を取り囲んだ。

片桐家の者たちは、屋敷に籠もり、一戦する覚悟であったが、片桐且元は「攻めてくる者に矢を放ってはならない。しかし、屋敷の壁を登る者あらば、槍の柄で退けてもよい」との命令を出している。

秀頼に敵対する気持ちは毛頭ないことを示そうとしたのだろう。一触即発の事態だったが、片桐且元らが大坂城を出て高野山に向かい、出家するということで、一戦は避けることができた。

10月1日、片桐且元は大坂城を退去する。片桐且元が去った後は、大野治長が大坂方の主導権を握ったという。

片桐且元は豊臣家の家老として、徳川との交渉を担ってきたが、その一方で、徳川から加増を受けて、大和竜田2万8000石の城主となっていた。

家康が秀頼を討つ口実に

その片桐且元を討伐することは、家康の家臣を討つのも同じ。片桐且元殺害計画は、家康に秀頼を討つ口実を与えることになった。

方広寺の鐘銘・大仏開眼供養に関する流れを見ていくと、家康は明らかにこの問題を利用しつつ、豊臣家に圧力を加えていることがわかる。大坂冬の陣はこうして勃発していくのである。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)