「日本一の芸人」横山やすしが涙した奥さんの一言
横山やすしのマネージャーだった筆者は本番直前にメガネを買いに走らされました(写真はイメージ。写真:freeangle/PIXTA)
年末恒例の漫才コンテスト、「M-1グランプリ」。このコンテストをゼロから立ち上げた元吉本興業の谷良一氏が舞台裏を書き下ろした著書『M-1はじめました。』が刊行されました。
谷氏はM-1を企画するまで、芸人のマネージャーなどをしていました。そこで出会った異才たちとのエピソードをつづった連載エッセイ「天才列伝――ぼくの出会った芸人さんたち」を、『お笑いファン vol.2』から抜粋・再編集してお届けします。このエッセイで描かれるエピソードに、M-1創設につながる、著者の芸人に対する価値観が見え隠れします。
前編に続き、横山やすし編の後編です。
おっとりした穏やかな奥さん
やすしさんと言えば、きちっとオールバックにセットした髪型が有名ですが、あの髪型を維持するために毎日散髪に行ってました。
梅田の阪神百貨店に入っている理髪店が行きつけの店で、しまいに、そこのお気に入りの理容師さんにテレビ局まで来てもらっていました。店長にも無理を言って、来させてしまうのがやすしさんです。
頼まれた方も、いやとは言えない話術と魅力がやすしさんにはありました。逆にやすしさんに呼ばれることを自慢にされていたのかもしれません。
やすしさんは毒舌とアクの強いキャラで売り出しましたが、対照的に奥さんはとてもおっとりした穏やかな方でした。やすしさんが「ちゃっちゃとせえや」と苛立っても、「そんなに早うでけへんわ」と柔らかく返すので、いいコンビだなあと思って見ていました。
明石家さんまさんと今いくよ・くるよさんが司会をしていたNTVの「目方でドン」という番組がありました。これにやすし夫妻が出演したときのことです。
奥さんの体重と釣り合うだけの品物を買えれば、その商品がみなもらえるという番組で、例えば奥さんが体重50kgだとすると、買った商品の合計が47kg〜50kgまでにおさまればいいのです。
「なんか重たいものを持ってこい」
途中まで買い物を進めた段階で、明らかに商品の目方が足りない。それがわかるさんまさんといくよ・くるよさんが「師匠、もっと重たいもんを買わなあきまへんよ」と教えると、やすしさんが奥さんに、「なんか重たいものを持ってこい」と言いました。
そこで啓子さんが持ってきたのが、なんと浮き輪でした。よりによって浮き輪とは。これにはスタジオ中が大爆笑しました。こういうとぼけたところのある奥さんでした。
後楽園ホールでの収録を終えて、赤ちゃんだった光ちゃんを抱いて歩くふたりの姿がとてもほほえましく感じられたのを覚えています。ふだんの殺気立ったやすしさんとは全然違う穏やかな顔をされてました。
漫才ブームが日本中に吹き荒れた1980年〜1981年は、大晦日に放送される日本レコード大賞が35.3%、NHK紅白歌合戦が74.9%という驚異的な視聴率を取っている時代でした。今と違ってほとんどの国民が、誰がレコード大賞を取るのか、紅白のトリは誰なのかということにすごく関心を持っていました。
他の局はこのふたつのお化け番組に挑んでははじき返されるということが続いて、闘うことをやめて、手抜き番組でお茶を濁していました。そんな時代に、折からの漫才ブームに目を付けて、日本テレビとTBSが裏に漫才特番をぶつけたのです。
出演は、やすきよを筆頭に島田紳助・松本竜介、ツービート、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ、太平サブロー・シローなど。
18時半から21時までが日本テレビ、21時から23時までがTBSだったと思います。
漫才特番にメガネを忘れる
その日本テレビの生放送が始まる1時間前、楽屋でやすしさんが「メガネがない!」と言いだしました。舞台用の太い黒縁のメガネを、奥さんがカバンに入れ忘れたというのです。
漫才のときにきよしさんが舞台の端に投げて、それをやすしさんが「メガネが、メガネが」と言って探し回る例の有名なネタのあのメガネです。うかつにも、それまでやすしさんがふだん用のメガネと舞台用のメガネを使い分けていることをぼくは知りませんでした。
普段用のメガネでいいではないか、それでいくしかないと思っていたのですが、やすしさんはそれでは納得しません。
「おい、お前メガネ作ってこい」と言われました。普段用のメガネを渡されて「これと同じ度数で、舞台用の黒縁のメガネを作ってきてくれ。おれの舞台用のメガネがどんなのかわかってるやろ」と言われました。そう言われると、どんなメガネだったか自信はなかったけれど、はいと言わざるを得ませんでした。
当時、大晦日の夕方6時前というとほとんどの店が閉まっていました。
ぼくは新宿コマ劇場を飛び出し、知らない東京の街を途方に暮れて歩いて、開いているメガネ屋さんを探しまわりました。ようやく、閉めかけているメガネ屋さんを見つけて飛び込みました。
店長に頼み込んで、お金はいくらでも払うからなんとか作ってくれと頼んだら、渋々作ると言ってくれました。問題は生放送に間に合うかです。似たフレームを選んで、ハラハラしながら店主がレンズを削るのを横で見守りました。
持ち帰ったのは本番の10分前で、なんとか間に合いました。
でも出演者もスタッフも、本番中ずっと裏番組のレコ大や紅白を気にしてモニターをチラチラと見続けていました。一矢をむくいるかと思われたが結果は惨敗でした。
日本で一番注目された芸人の意外な姿
日本一の漫才師になり、テレビでは言いたい放題の毒舌を吐き、本番中に酒を飲み、けんかをし、セスナを買い、パワーボートのチームをつくり、映画の主役になり、本を出版し、横山やすしさんは当時日本で一番注目される芸人でした。
そんな風に、わがままいっぱい、本能のままに生きているようなやすしさんでしたが、娘の光ちゃんが、お母さんから聞いたという意外な話があります。
光ちゃんがまだ小学1年生の頃、家に帰ってきたやすしさんを奥さんがお帰りと言って出迎えると、やすしさんは上がり框(かまち)にへたり込んでいたそうです。
奥さんが「どうしたの。疲れてんの?」と聞くと、「おれなあ、もう横山やすしを演じるのに疲れた。本名の木村雄二に戻って、お前や光とのんびり暮らしたいわ」と言ったそうです。
「ほんまはもうキャラクターを変えたいんや。いまのおれは、おれが本来思てたところと違う、悪い方向に行ってるんや。でも、変えようと思っても、知らんうちに世間が求めている横山やすしを演じてしまってるんや」
「疲れたんならやめたらええやん。わたしや光が大事にしたるから、もうのんびりしい」
奥さんがそう言うと、やすしさんはおんおんと泣いたそうです。
みんなの前では脱げなかった鎧
自分のやりたいことをやりたいようにやっているように見えましたが、実は内面ではそんな風に悩んでいたということを知り、驚きました。本当にやすしさんが願っていたことは、ぼくらが思っていることと違ったのかもしれません。
世間に対してつっぱっていたやすしさんも、奥さんの前では横山やすしの鎧を脱いで裸の木村雄二を見せられたのだと思います。
みんなの前でも鎧を脱いでいたら、あんなに早く亡くなることはなかったかもしれません。それが残念です。
(谷 良一 : 元吉本興業ホールディングス取締役)