島田紳助16年ぶりの告白「M-1作った本当の人物」
芸能界を引退した島田紳助氏(左から3人目)が、「M-1」にずっと思い続けてきたこととは?(写真は「M-1グランプリ2010」の出演者たち。写真:時事通信)
2011年に表舞台から去った島田紳助氏には、「M-1」についてずっと言いたかったことがあった――。
元吉本興業の谷良一氏が「M-1グランプリ」の立ち上げについて初めて書き下ろした『M-1はじめました。』の帯を島田氏にダメもとでお願いしたことから、熱い再会ドラマにつながった。谷氏が番組プロデュースの現場を離れて以来、16年ぶりに言葉を交わした2人、それぞれの思いとは。
『M-1はじめました。』から「谷と作ったM-1(島田紳助)」、「あとがきのあとがき(谷良一)」を、一部編集のうえ全文掲載する。
本番前の楽屋に訪ねてきた谷
「谷と作ったM-1」 島田紳助
谷が、読売テレビの本番前の楽屋に訪ねてきて、会社から漫才を盛り上げろと言われたのですが、なんか知恵貸してくださいという風な会話から、全てが始まりました。
私の中で、2つの思いが心の中にあり、本番前の短い時間、谷の話に乗りました。
ひとつは、私は18歳で弟子になり漫才の道に進むのですが、漫才をずっとやる気はなく、夢は東京で司会者になること、だから漫才は最初から10年でやめる計画でした。実際は8年でやめたのですが、コンビを組むときに相方の竜介にも10年しかしないと話してのコンビ結成でした。
ですから、自分の夢が叶っていくと、漫才に対して利用したような罪悪感がいつもありました。
そしてもうひとつは、50歳で引退する、そして違う人生を楽しむという計画があり、心残りを全てクリアーしたい思いがありました。
予選からはじめて最後は賞金1000万
そんな時、谷からの漫才を盛り上げたいという言葉で、こんな物を作ろうと話をしました。
普通の人間なら、そうですねーと相槌打って終わるのですが、谷はいつものように熱く語るでもなく、淡々と内容を質問してきます。
演者が審査に納得する戦い、だから審査員は点数をその場で公開する、これも審査員が笑いのセンスを視聴者に審査されるわけですから、やってくれる人間がいるか?
そして、高校野球のように、予選からはじめて、プロセスから見せて盛り上げる。
最後は賞金を1000万。
新人の漫才の大会で、1000万なんて当時は超破格でした。
そんな私の提案を、谷は1人で動き、1人で作り上げていきました。
私は表の人間ですから、島田紳助がM-1を作ったと言われてきましたが、私の中では、M-1は俺と谷で作ったんだと、ずーっと思い続けていました。
私がライダーで谷がメカニック、2人のチームでした。
谷は裏で苦労したことも沢山あったでしょうが、私も表で大変でした。(笑)
審査員のなり手がなく、私も直接お願いしたり。
松本人志も快く審査員を承諾してくれ、これも私には重要なことでした。
演者が納得するには、松本人志がいてくれないと困るのです。
当時彼は、若手のカリスマでしたから、快くオッケーしてくれ、私が引退するときもM-1頼むなの約束を守り、今もやってくれてることに感謝です。
そう言いながら、やめてから1回もM-1見てませんが、やめた世界に興味がないんでしょうね。(笑)
数年前、オール巨人と久々会って、M-1終わったばかりだったんでしょうね、飲みながら漫才大好きオール巨人は、私にミルクボーイの素晴らしさを熱く語りました。
いまいちの反応の私に巨人が、お前どう思うねん? と聞きました。
私の答えは、それ誰?
本当にミルクボーイ知らないし。
そしたら熱血巨人が、お前作ったM-1ちゃんと見ろよと、怒りました。
まあ、今も道でミルクボーイに会ってもわかりませんが。
知らない番号からの電話
そんな思いの中、携帯に知らない番号から電話。
登録してない番号の電話は出ないので、ほっておいたら、昔のマネージャーから連絡あり、谷さんが話したいと、すぐに電話して久々の会話、電話口から懐かしい谷の声でした。
谷がしゃべる前に、俺がずーっと気になってることがある、M-1は俺と谷で作ったと熱く話してて俺の思いばかりしゃべってて、あれ? 谷は用事があって電話してきたんだと。
で、何?
と聞くと、M-1の本を出すと、それで出版社が紳助さんに帯を書いてくれないかと言ってるんですが、全てを断ってるから無理だと思うけど一度電話してみると出版社に伝え、電話しましたと。
それを聞いたとき、心の中のモヤモヤが一気に吹き飛びました。
ずっと後ろめたい気持ちがあった
M-1は島田紳助が作ったと言われ、私ひとりが手柄を取ってるような後ろめたい気持ちがあり、私の中ではずーっと、俺と谷が作った、思い出の作品だと。
だから、断るわけがない、俺からやらせてくれとお願いしたいと。
そして今書いてる文章、携帯で送るから、本の最後にスペースあったら載せてくれーと頼みました。
* * *
お互い気がついたら、爺さんの歳になりました。
過去を思い出しそれを肴に酒を飲むという、典型的な爺さん。
その思い出が沢山ある方が、間違いなくうまい酒を飲めます。
私の人生において、M-1も最高の酒の肴です。
それは全て谷が、いたからと感謝しています。
谷、あの時M-1を商標登録しておいたらよかったなー。(笑)
凄く今幸せな気持ちになりました。
ありがとう
(文:島田紳助)
M-1グランプリ開催を伝える2001年8月11日付の新聞記事(出所:デイリースポーツ、朝日新聞朝刊、日刊スポーツ、スポーツ報知、スポーツニッポン)
「あとがきのあとがき」 谷良一
スマホに突然電話がかかってきた。表示を見ると「島田紳助」になっている。パニックになった。さっき入れ替えたばっかりの新しい番号だ。ということは紳助さん本人からだ。
ぼくはたまらず、周囲に「紳助さんや」と叫んで、あわてて通話ボタンを押した。
紳助さんの熱い声が聞こえてきた。それは速射砲のように止まらなかった。
「M-1は谷とふたりでつくったもんや」
M-1の本を出すことになって今書いています。出版社の人がその本の帯を書いてくれと言ってまして、ぼくは無理やと断ったのですが……、とぼくが言い訳を始めると、
「おれは、おれひとりがM-1をつくったみたいに言われてるけど、ずっと気になってたんや。おれの中ではM-1は谷とふたりでつくったもんやという思いがずっとあってひっかかってたんや。帯はこっちから書かせてくれと頼みたいくらいや」
と、ぼくのことばをさえぎって言っていただいた。
涙が出てきた。ぼくのことなどすっかり忘れられてると思ってたのに。
そのあと、なんともうれしいことばが次から次へとショートメールに送られてきた。帯には書き切れない。
また電話がかかってきた。
「こんなんでいいかな」
「帯には長すぎます。あとがきにさせてください」
引退してからは、一切マスコミに登場することを拒否してきた紳助さんが、まさかこんなに熱い言葉を贈ってくださるとは思わなかった。
漫才プロジェクトであがいていたときに、紳助さんから「漫才のコンテストをやろう」と言われた。そのことばを頼りに動いた。
なぜあんなに動けたんだろう。
自分ひとりで考えてやったことだったら、あんなに自信を持って行動できなかったと思う。
途中で挫折していただろう。
紳助さんがいたから絶対できると思えた
ところが、M-1は紳助さんと一緒につくろうとしたものだ。だからぼくは自信を持つことができた。
スポンサーが見つからなくても、テレビ局に断られても、参加者が集まらなくても、絶対やってやる、絶対できると思って行動した。
なぜかわからないが、心のどこかで絶対にうまくいくと確信していた。
紳助さんと一緒につくったからだ。
紳助さんがいなければ、あんな風に自信を持って行動できなかっただろう。
それに、紳助さんとぼくだけではなく、この本に書いたような、本当にたくさんの人のおかげでM-1はできました。
さらに、今も熱い思いを持ってM-1をつくり続けているスタッフがいます。
そして何よりも、第1回からM-1に挑戦し続けてきた何万人という漫才師の熱い思いがこめられているからこそ、M-1は今も輝き続けているのです。
(文:谷良一)
(島田 紳助 : 元お笑い芸人)
(谷 良一 : 元吉本興業ホールディングス取締役)