Hidehiro TANAKA

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何事にも始まりがある。それがなかったら何も起こらなかったわけだから、”コトの始まり”への賞賛は最大級であっていい。けれども何かがただ起こっただけでは、調べれば分かる記録にはなれど、思い出すべき記憶にはならない。

【画像】ひとりの男の心を鷲掴みにしたアストンマーティン「GO1203」(写真14点)

人々の心を動かし、そこからまた何か新しいコトが起きることもない。つまり、小さな物語=因縁の連続が振り返ったときにやがて壮大な歴史へとなっていく。

たとえば自動車産業にとっても、モータースポーツにとっても、そしてそれらを愛する人々にとっても。

この物語の起点をどこに置くか。取材を終えた後からずっと悩み続けてきた。資料や文献を漁り、芦屋マリーナでの取材のメモと写メを何度も見直した挙句、〆切を過ぎてなお一語も書き出すことができなかった。ようやくローズゴールドのマックブック・エアーに立ち向かったのは、マラネッロから296GTBをはるばるドライブしル・マンに到着したその夜のことだった。

2023年に記念すべき100周年の記念大会を迎えたル・マン24時間レース。50年ぶりにワークス参戦を果たし、50年前と同じく予選1-2を飾ったマラネッロのレーシングチームにばかり注目が集まっている(ような気がする)。その長い歴史を振り返ってよく思い出されることはというと、たいていは誰がどのようにして勝ったかという華々しいページの数々であり、24時間の、否、準備を含めれば途方もなく長丁場なレースを誰がどのように戦ったかに関わらず、トラック上(あるものはそこにたどり着く前に)散っていった勝者以外の数えきれないエントラントやその関係者たちにスポットライトが当たることなどほとんどないと言っていい。歴史は常に勝者によって紡がれる。例外があるとすればそれは稀に見る悲劇だけであり、いずれにせよ語り継がれる物語というものには常に何かしら目立つ主人公が必要であるということを、ル・マンの地に立って改めて実感した。

ル・マンで認知を高めたアストンマーティン

今回の主人公を車ブランドでいえば”アストンマーティン”である。残念ながら100周年を迎えたル・マンにおいてこの老舗ブランドのワークスチームを見ることは叶わなかったけれども、5台のヴァンテージ AMRがLMGTE Amクラスにエントリーされていた。

アストンマーティンもまたル・マン24時間レースにおいて認知を高めてきたブランドのひとつである。最初のオーバーオールビクトリーは1959年で、かのDBR1によってもたらされた。戦後、実業家デイビット・ブランによって買収されたアストンマーティンは救済者のイニシャルに因んで今に続くDBのモデル名を生み出し、ロードカーとレーシングカーの二本立てでブランドの再興を図ったのだった。実業家の野心はル・マンに勝ってブランド名を世界に売ることであったから、レースに勝ってからというものはロードカービジネスに専念することになり、数々のDBシリーズにとって現代へと続く高級GTブランドとしての基礎を築くことになる。

ル・マンにアストンマーティンのレーシングカーが帰ってきたのは21世紀に入ってからのこと。フェラーリ550マラネッロベースのレーシングカーで戦ってきたプロドライブがマシンをアストンマーティンDB9Rへとスイッチした。その後、三度、アストンマーティンはル・マン24時間レースにおける常連となり、クラス優勝を始め数々の好成績を収めてきた。

そう、今は三度。二度目はデイビット・ブラウン時代。では、一度目は?それを語るには時計の針をもう少し昔、1913年にまで巻き戻さなければならない。そしてこの年を起点に数々のドラマを経て、今回の主役である1930年製の「GO1203」がいよいよ登場することになる。その後、物語は今回の核心となる現代、しかもブランド物語よりはもっと身近で素敵なストーリーへと連なっていくわけなのだが、それは後ほどのお楽しみにとっておこうじゃないか。まずはこの歴史的なブランドの成り立ちを手短に語っておく。

ひとつめの大きな戦争が起きる直前。公道を使った一周およそ54kmのサルト・サーキット最後の年、すなわち1913年にライオネル・マーティンとロバート・バムフォードによる最初の”アストン・マーティン”が誕生した。

バムフォード&マーティン社としてシンガーのディーラーとなり、その改造マシンで競技活動を続けていた彼らだったが、アストン・ヒルでの成功を機にブランド(車)名をアストン・マーティンへ変更することを決意する。この成功を機に、彼らの元にはシンガーを同様の手法でチューニングしてほしいという注文が舞い込んでいた。

とはいえ二輪時代からの同志である二人にとっての夢はあくまでも自分達自身で車を作ることだった。20世紀前半に自動車という新たな乗り物を好んだ才能ある先駆者たちに共通する、それは現代に考えるよりも遥かに現実的な夢であったに違いない。

彼らはコベントリー製エンジンを買ってきてそのチューニングに取り組んでいた。シャシーはもちろん自分達で設計した。けれども世の中にはすでに戦乱の雲が垂れ込めている。シャシーは待てど暮らせど仕上がってこない。完成を待ちきれなくなった彼らは08年製イソッタ・フラスキーニのシャシーに自社チューニングのコベントリー製エンジンを積んだスペシャルマシンを製作。”石炭容器”とあだ名されるほど不恰好だったが、これがアストン・マーティンを名乗った最初のマシンでもあった。

”石炭容器”のパフォーマンスの高さに自信を深めた彼らは新たな工場に移って、いよいよ自分達のオリジナルカーを作り始める。ところが相前後して大戦がいよいよ勃発。彼らは工場の閉鎖を余儀なくされ、戦時輸送に携わることになった。自分達の夢の実現をしばし延期せざるを得なくなったのだった。 終戦後、あいにくとロバートは自動車ビジネスへの興味を無くしており、ライオネルは妻キャサリンと石炭容器と共に、夢の実現へとひたすら突き進む。20年代に入ると少量ではあったもののシンプルで独創的なマシンを生産し始め、錚々たるジェントルマンレーサーの面々に愛された。

しかしながら24年、ライオネルは一度目の破産を経験した。苦境を救ったのはレディ・チャーンウッドで、彼女の息子が新たにボードメンバーとなっている。懸命に会社の立て直しを図ったライオネルだったが翌年、再び資金難に陥り、夢の容器であったバムフォード&マーティン社はチャーンウッド卿やその息子、さらにはカーデザイナーでありレーサーでありビジネスマンでもあったアウグスト・チェーザレ・ベルテリたちによって買収され、ライオネルはあえなく同社を追われることとなってしまった。

ベルテリ・カーズ時代の始まり

1926年。新経営陣のもとアストンマーティン社として再出発。誤解を恐れずに言ってここからが現代へと至るブランド史の真の起点というべきであろう。

なかでもA.C.ベルテリこそはその中心人物だ。アストンマーティンを手に入れる二年前、資産家エンジニアのウィリアム・レンウイックと組んだ彼は”BUZZVOX”の異名で知られるR&B1を作り上げていた。このマシンこそがチャーンウッド卿の買った新しい会社へと彼らが移ったのちに開発された名車”インターナショナル”や”LM”を産む偉大な母となる。ベルテリもまた自分達のマシンの名を世界に売るためにはル・マンでの成功が欠かせないと知っていたし、新生アストンマーティンもまた新時代を駆け抜けるための全く新しいマシンを必要としていた。いわゆるベルテリ・カーズ時代の始まりである。

1928年にプロトタイプマシン、その名もLM1とLM2の二台でアストンマーティンは記念すべきル・マン24時間レースへの初参戦を果たした。そして翌年、プロトタイプマシンをベースに改良を加えた市販車、”インターナショナル”が登場したのだ。

アストンマーティン11/2リットル・インターナショナルのデビューは華々しかった。美しいポイントテールボディに「MT3006」のナンバープレートをつけたシャシー#S016のインターナショナルにはロングストロークの1.5リットル直4SOHCエンジンが搭載され、オイル潤滑方式はドライサンプ式であった。スタイリング上の特徴は大型ドラムブレーキのバックプレートを介し非常に頑丈なアームで取り付けられたフルカバーウィング(いわゆるサイクルフェンダー)である。

多くの人々の人生を変えた「GO1203」

いよいよ本リポートの主役をブランドから個体に、そしてそれにまつわる人々へと落とし込んで物語のひとつを締めくくろう。

取材車両は英国時代のナンバープレートであった「GO1203」で個体識別されるアストンマーティン11/2リットル・インターナショナル(シャシー#K085・エンジン#K086)で、1930年式である。この一台の新車時におけるヒストリーをここでは触れない。きっと素晴らしい物語があったに違いない。これから語る物語はGO1203の第二、第三の”車生”における美しい物語であり、名車というものは必ずそれに相応しいオーナーの元で、どんなに古くなっても未来へと語り継がれるべき物語を生み出すという、ある種の理(ことわり)を教えてくれるものである。GO1203は、数多の歴史的名車たちと同様に、多くの人々に大なり小なりの影響を与えたのみならず、人生さえも変えてきた。

二つ目の大戦のあいだGO1203は倉庫の片隅で惰眠を貪るほかなかった。10年以上も前の中古車を趣味で走らせていい時代ではなかったのだ。長い戦いが集結した47年にレスリー・マーがGO1203をゆすり起こす。まともに走る状態ではなかったが、優秀な整備工であった友人のデリック・エドワーズにメンテナンスを依頼。50年にレスリーは別のアストンマーティンも手に入れていて、デリックはレスリーの二台のアストンを整備する交換条件としてインターナショナルでレースに出ることになったという。

50年代の半ば、彼らは多くのレースやヒルクライムに出場したが、やがてレスリーはレースに興味をなくしてしまい、65年にとあるオークションにてGO1203を売り払ってしまう。 それを購入したのが日本のヴィンテージ愛好家の草分けというべき人物、高橋哲彌氏であった。氏はしばらくヨーロッパでGO1203を楽しんだのちにいつしか日本へと持ち帰ったのだが、そこからしばらく二度目の、今度は少し長めの眠りにつく。

デリックによって50年代のレースシーンに通用するようモディファイされていたGO1203はヴィンテージアストンを代表する個体として実に多くのメディアに取り上げられていた。マグカップやソーサーなど美しいイラストレーションを使ったグッズも作られていたようだ。実物を拝見したが、特徴的な個体にGO1203のナンバーもしっかりと、そしてどこか誇らしげに描かれていた。

今から40年ほど前に雑誌でこのGO1203を見つけ、一目惚れした男がいた。車好きではあったけれど、流行りを追うのではなく個性的な車に惹かれるという男だった。そんな彼の心をGO1203は鷲掴みにした。いつしか自分もこんなヴィンテージカーに乗る資格のある男になりたい。キャッシュカードの暗証番号を1203 にして、彼は心に誓った。

男の名を湯川晃宏という。何十台もの車を乗り継いだ湯川さんだったが、1980〜90年代に開催されていた「六甲モンテミリア」を目の当たりにして、一気にヴィンテージカーへの興味が蘇ってきた。

いつかは出てみたい。湯川さんの思いが叶ったのは2001年のポンテペルレで、マシンは MG TDだった。2004年にジャガーXK120で国内最高峰のイベント「ラフェスタミッレミリア」に初出場を果たすと、そのままの勢いで本国イタリアの「ミッレミリア」にも参戦する。以来、氏は毎年のようにラフェスタに参戦、イタリアへも6、7回出場した。

MG TDで出場した初ラリーでは、六甲山へと向かう登り道で立ち往生を経験したが、実はその場所こそが後年、週末のガレーヂ用に購入した別荘の前であったという。数年前に完成し、ご覧のような城=ガレーヂを築いた。ある日、湯川さんの娘が友達を別荘に連れてきた。その友人はガレーヂに飾られたミッレミリアの大きな旗を一瞥してこう告げる。「うちの会社の会長さんも古い車が大好きですよ」。その会長こそが高橋哲彌氏であった。

知己を得た湯川さんは高橋さんのコレクションにGO1203があると知って驚愕する。憧れ続けたヴィンテージカーが現実のものとして突然に目の前に現れたのだから当然だ。一台の個性的な車が長い時間をかけてもたらした因縁の結末であった。

湯川氏の元へとやってきたGO1203は「壊れることさえ楽しい」という湯川氏の元で今順調に、時には故障に見舞われつつ、順調に昔のパフォーマンスを取り戻しつつある。ある時、国道を元気いっぱいに走るGO1203を対向車線から目撃した高橋さんは大いに喜ばれたらしい。

90年以上も前に生産された車の、また新しい物語が始まった。

文:西川 淳 写真:タナカヒデヒロ
Words:Jun NISHIKAWA Photography:Hidehiro TANAKA