平日の真ん中、水曜日。

月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。

ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。

それが、アッパー層がひしめく街──“ハイタウン”、東京で生き抜くコツだ。

貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?

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<水曜日の秘密>
白木ゆい(28):外資IT企業勤務


代々木公園に面したベランダの窓から、朝の光が降り注ぐ。

まだ朝の8時だというのに、外の気温は、すでに30度近くありそうだ。

「今日も暑そうだなぁ…」

YouTubeを見ながらリビングでのストレッチを終えた私は、小さなマーガレットが挿してある花瓶の水を取り替える。

そしてそのままキッチンに立つと、マグカップに卵をひとつ割り入れた。

ここに、粉末のオートミールとプロテイン、ほんの少しのベーキングパウダーを混ぜ合わせてレンジで加熱すると、ダイエット中でも気兼ねなく食べられるヘルシーなマグカップケーキができるらしい。

昨晩眠りにつく前に、ネットで見たばかりのレシピだった。

「わぁ、本当にできてる」

すぐに調理終了のメロディが鳴り響き、入道雲のようにもくもくと膨らんだマグケーキを取り出す。

スプーンを割り入れたその場所からホカホカと湯気が立ちのぼり、一口頬張ると、ずっしりとした甘みが口に広がった。

「んんっ、けっこう美味しい!」

すぐさまもう一口をすくい上げようとした、その時だった。

リビングのドアが開き、のっしのっしという足音と共に低い声が問いかける。

「おっ、ゆい。何食べてるの?」

だけど私は、その声の方に振り向くと、不適な笑みを浮かべて言った。

「則之。今日は、水曜日だよ」


「これはこれは、失礼しました。今日は水曜日か」

「そう、水曜日。だから、何を食べてるかは内緒でーす」

私の答えに、則之はハハハと鷹揚に笑いながら、冷蔵庫から出した水出しのアイスコーヒーを注ぐ。

「じゃ、お互い水曜日を楽しむとしますか」

そう微笑んでまたのっしのっしと足音を鳴らしながら同じテーブルに着くと、眩しそうに窓の外を眺めつつ、無言でアイスコーヒーに口をつけるのだった。

「これね、昨日の夜TikTokで見つけたプロテインケーキ!

ほら、前に大袋で買っちゃったけど飲みきれずにいたプロテインあるでしょ?少しでも消費しようと思ってたら、ちょうどいいレシピを見つけたの」

本当は雑談がてら、そんな風にイチから説明したって別に構わない。

なんなら、無造作に入れた冷凍ベリーがものすごくいいアクセントになっていることまで、私の方から積極的に伝えたいとまで思う。

だって則之は私にとって、ルームメイトであり、親友であり──なにより大切な恋人でもあるから。

だけど、今日は。水曜日だけは、絶対に言わない。

だって、それがふたりのルールだから。

毎週水曜日は、私と則之の“秘密の水曜日”。

水曜日だけは絶対に、お互いに一切干渉しない日にしているのだ。




新卒で入った大手証券会社の先輩だった則之とは、付き合ってもう6年になる。

交際1年が経つ頃にこの代々木のマンションで同棲を始めたから、一緒に暮らして5年。

その間に、則之はデイトレーダーに。私は今の外資IT企業に転職し、ふたりともが在宅で仕事をするようになってから3年ほどが経った。

私は、残り少なくなったマグケーキをスプーンでこそげながら、まだ“秘密の水曜日”の習慣がなかった同棲を始めたばかりの頃を思い起こす。

― あの頃は、大変だったよなぁ…。






代々木公園に面した開放感のあるマンションとはいえ、たかだか70平米ほどの2LDKだ。

個室の一つはふたりの寝室。もう一つの小さな部屋は則之の書斎。

則之が書斎にいる時以外は、朝起きてから夜寝るまで…いや、寝ている間すら、私たちは言葉通り、四六時中一緒だった。

同じ朝ごはんを食べ、同じ昼ごはんを食べ、夜ももちろん同じものを食べる、代わり映えのしない毎日。

いつのまにか則之と私の間には、“新鮮さ”というものがすっかり無くなりつつあったのだ。

驚きもなく、ときめきもない。判で押したように代わり映えのしない、どこか息の詰まる毎日。

ベッドのある部屋では集中できない私は、リモートワークが推奨されている中、リビングで仕事をするしかない。

けれど、ここはふたりのリビングだ。則之だってことあるごとに出入りするのは当然のことだった。

仕事に集中したいのに、冷蔵庫を開けに来たり、ちょっと休憩しに来たり…。何度も何度も目に入る則之の姿に、理不尽だとは分かっていてもイライラが募る。

しまいには、体格のよい則之ののっしのっしという足音──。あの足音が響いてくるだけで怒りが湧いてきて…。

今日と同じくらい暑かった、ある夏の水曜日の午後。

私はついに、コーヒーを淹れに来た則之に当たり散らしてしまったのだ。

「ごめん、我慢できない。ちょっと一人になりたい…!」

吐き捨てるようにそう言うと、私は乱暴にスマホと財布、ノートパソコンをバッグに突っ込む。

「え、ゆい…!」

そして、グラスを片手に戸惑う則之を置いたまま、勢いに任せて部屋を飛び出したのだった。


カッとしたまま、足はずんずんと代々木公園駅の方へと向かう。

けれどその時の私の格好は、カジュアルなロンハーマンのワンピースに、ナイキのエア マックス ココ。

出勤しようかと一瞬思ったけれど、よく考えてみれば、オフィスに行けるような格好ではない。

― どうしよう…。やっぱり、家に戻ろうかな。

けれど、今戻ったとしても…。なぜ飛び出したのか、則之になんて説明すればいいのだろう?

― 私、もしかしたら人と暮らすのに向いてないのかもしれない。

ジリジリと照りつける太陽の下で、気持ちはどんどん悪い方向へと沈んでいく。

その日、MTGの類いの予定がなかった私は結局、夕方以降の仕事はサボることにした。

閉じたままのノートパソコンを肩に背負ったまま、行くあてもなく代々木公園を散策する。

灼熱の屋外を散歩するなんてこれまで選択肢にもなかったけれど、生い茂った木々の下で休んでいると、吹き抜ける風が意外にも心地いい。

― 夏の夕方の木陰って、涼しいんだ…。

フラフラと何をするでもない時間。自分ひとりだけの発見をする喜び。

則之と離れてひとりになるのは本当に久しぶりだということに、私はこの時、初めて気がついたのだった。




しばらく公園でぼーっと過ごした後は、そのまま渋谷の街へと出た。

仕事で訪れることはあるけれど、私用で来ることは意外と少ない。

仕事をサボると決めた以上、自分だけの時間を過ごそう。そう決めて、則之とは絶対に来ることはないであろう、インスタで気になっていた花屋を訪れたのだ。

― わぁ、すごい。ブーケにこんな野草を使うんだ。

家の近くの花屋ではあまり見かけない、洗練されたデザインの花たち。その中から小さなブーケを購入すると、私はふと、あることに気がついた。

時計の針は進み、時刻はいつのまにか18時。則之と一緒にブランチを済ませてからはかなりの時間が経つ。

つまり私は、かなりの腹ペコだった。

空腹を覚えた私が辿り着いたのは、代々木上原駅からほど近い『クインディ』。

則之と私のお気に入りの店。珍しくひとりの食事だというのに、いつもふたりで通っているお店に来てしまったことがなんとも気恥ずかしい。

けれど、旬の素材がふんだんに盛り込まれたパスタを食べ終わるころには、そんな気恥ずかしさは寂しさへと姿を変えていた。

― 今日のパスタ、すごく美味しい。則之も絶対にこの味気に入ると思うなぁ。

仕事をサボったことも、夏の散歩が悪くないことも、野草をブーケに使うと素敵なことも、旬のパスタが美味しかったことも。

話したいと思うのは、どこまでいっても則之だけだ。

則之は何を食べただろうか?どんな午後を過ごしたのだろうか?そんな疑問も、次から次へと湧いて出てくる。

少し離れただけでもう会いたくなっている。

ずっと則之のことを考えている。

― もしかしたら人と暮らすのに向いてないのかもしれない。

そんな風に思った先ほどのことを思い返しながら、早足で家へと帰る。

― 人と暮らすのに向いていないのは本当かもしれない。だけど…。則之がいない人生には、もっと向いてないみたい。

そんな確信を、しっかりと胸に抱きながら。



当時のことを振り返ってクスクスと思い出し笑いをする私を、則之が何も言わずに愛おしそうに見つめてくれる。

「何笑ってるの?」なんて野暮なことは聞かない。繰り返しになるけれど、今日は“秘密の水曜日”なのだから。




あの後、帰宅した私に“秘密の水曜日”を提案したのは、則之の方だった。

愛おしさが溢れ、帰るなり則之に飛びついたものの、なぜ出て行ったのかの理由を口ごもっている私に言ってくれたのだ。

「言わなくてもいい。恋人同士だって、なにもかも共有する必要はないよ。俺は、どんなゆいでも大好きだから」

と。

それ以来、毎週水曜日は”秘密の水曜日”になったというわけだ。

だから私は、言わないことにした。

野草のブーケが気に入ったことも。マグケーキのレシピも。それに、コロッケの美味しい行きつけの店が西麻布にあることも。

ひとりだけの時間が、お互いをもっと必要とさせてくれる。

それが私にとっての、無理しない愛の形だと分かったから。

のっしのっしという重そうな足音は、いまではすっかり心地よく感じる。あの時、「足音にイライラする」なんて言わなくて良かったと、心から思う。

― 今日は一体、何をしようかな?

わくわくと考えながら、のんびりとコーヒーを飲む則之の横顔を見つめる。

こういう則之の横顔に、交際6年目でもときめいていることは──。

水曜日だから、絶対に秘密だ。

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週に一度、ひとりの時間を楽しむゆい。恋人・則之の本音は…?