実は、妻と別居して3ヶ月。公私共に絶好調に見える39歳男の本音
平日の真ん中、水曜日。
月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。
ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。
それが、アッパー層がひしめく街──“ハイタウン”、東京で生き抜くコツだ。
貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?
<水曜日の開拓>
真野慎二(39):コラムニスト、コメンテーター
「真野さん!今日もコメント、キレッキレでしたね!また来週もよろしくお願いしますよ〜」
報道番組の収録を終え、妙に縁の太いメガネをかけたプロデューサーを適当にかわすと、俺はサッサとスタジオを後にした。
8月の六本木通りは、21時半を回ってもサウナのような熱気が立ち込めている。
― まったく。日本は一体、いつから東南アジアになったんだ。
イライラと心の中で毒づくと、さっさと引き返してお馴染みの『とり澤』か『鮨 由う』あたりにでも駆け込みたくなる。
けれど、今日だけはそうするわけにはいかない。
なぜって今日は、水曜日だからだ。
左腕のオーデマ ピゲ・ロイヤル オークの針が「WED」を指しているのを確認すると、俺は西麻布の方へと歩みを進める。
「どこか良さそうなところは…っと」
路地裏をフラフラと不確かな足取りで歩く様子は、はたからはまるで亡霊のように見えるだろう。
それもそのはずだ。今の俺には、行くあてなどない。
俺の水曜日は、“開拓の水曜日”。
なんの情報もなく、ただ道を歩いて見つけただけの店に、フラッと一見として飛び込むことを自分に課しているのだから。
そもそも俺は、失敗するのが大嫌いだ。
メディアではコラムニスト、コメンテーターとして知られるようになった俺だけれど、もともとの畑は統計学と社会学ということもあるのかもしれない。
日本人男性の平均寿命は、およそ80歳。
俺は今39歳。死ぬまで残り41年。
1年は365日だから、41×365=14,965日。
朝は食べないから、1日2食。14,965日×2食=29,930食。
もちろん、人より酒も飲む不摂生な俺のことだ。平均寿命まで長生きすることもないだろう。
老いたら今と同じようには食べられないはずだから、ざっと少なく見積もって2万5千。いや、2万がいいところか。
2万食。
それが、俺が残りの人生で食べる食事の回数。
食は、人間の幸福の根幹だ。美味しいを食べること=人間の幸福と言っても過言ではない。
俺はその貴重な2万食を無駄にしたくない。
新規の店を開拓せずに、いつもの行きつけの店に行くようにすれば失敗することもない。
それに、SNSなどが発達したこの社会では、失敗しなくて済む情報がそこらじゅうに溢れかえっている。
昨日開催されたレギュラー番組の決起会も、プロデューサーに頼んで行きつけのヒルズクラブにしてもらった。
安定の美味しさ。安心のサービス。
そう。ハズレの店に入って不幸になるリスクなんて、少したりとて犯す意味はないのだ。
それなのに、なぜこんな”開拓の水曜日”というルーティンを持っているのか…。
その理由を改めて反すうしようとした瞬間、ふと、食欲をそそる香りが鼻をくすぐった。
西麻布の路地裏。一見古ぼけた民家のようにも見えるが、入り口には清潔な暖簾がかかっている。
― 何屋かもわからない。もしかしたら、とんでもないハズレかもしれないな。
そう訝しみながらも、意を決して暖簾を掻き分け、引き戸を開ける。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
20代半ばの男性店員のフランクな問いかけに、無言で人差し指を一本伸ばす。
意外にも広い店内には、小さな音量でクラシックピアノが流れている。
ほどよく混雑した座席の中で、俺は女性2人組の隣になるカウンター席に通された。
店内には、デートや友人同士の小さなグループのほか、一人客もちらほらといるようだ。
家族連れが一組もいないことに、ホッと胸を撫で下ろす。
どうやら、創作居酒屋といった類の店らしい。普段の俺ならば、まず選ばないタイプの店だ。
筆で書かれた長々としたメニューを前にして、俺は、なぜこんなところに辿り着いたのかを改めて思い返した。
◆
「あなたは、挑戦が本当に怖いのね…」
妻がそう言ったのは、3ヶ月前のことだっただろうか。
ポツリと呟いた妻の目に、凍えそうなほどの冷たい悲しみが滲んでいたことは、はっきりと覚えている。
けれどその時の俺は、今思うと図星を突かれたからなのだろう。頭に血がのぼってしまい、彼女の悲しみを受け止めることができなかった。
「俺が?挑戦しないって?本気で言ってるのか?」
コメンテーターとしてそこそこ重宝されて、本も重版がかかるくらいには売れて、講演だって途絶えない俺が?
目の前に並んだ夕飯のコロッケに手もつけず、俺は怒りに任せて書斎へと逃げ込んだ。
その翌日のことだ。
妻と娘が、荷物をまとめて家を出て行ったのは。
昨日のヒルズクラブの会では、若手の映画監督とかいう男に向かって「家族がいるっていうのは良いぞ」なんて大口を叩いていたのに…。
実際の俺は、別居生活3ヶ月目。
酒が入っていたとはいえ、つまらない見栄を張ってしまったことが情けない。
そんなことを考えながらボーッとメニューを見ていた俺が、途方に暮れているように見えたのだろう。ふと、隣の女性客が気さくに話しかけてきた。
「メニュー、めちゃくちゃ多くて悩んじゃいますよね」
驚いてキョトンとしている俺に、女性客はニコニコしながら続ける。
「どれも美味しいですけど、ここはコロッケが超絶品ですよ!絶対、オススメです」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、頼んでみます」
― よりによって、コロッケか。
妻が出した最後のメニュー。あまりの皮肉に、乾いた笑いが漏れる。
冷たいビールとコロッケを注文すると、俺はすっかり手持ち無沙汰になり、なすすべもなくBGMのピアノに耳を澄ました。
ピアノ。
コロッケ。
本当に皮肉なことに、どちらも、家族を失うことになったキッカケだ。
揚げ物が苦手な妻は、コロッケを失敗することも多かったため、あまり作らないように頼んでいた。そもそも、コロッケをそんなに美味しいと思ったこともない。
そして、ピアノは…。
「音楽で食べていける確率はとてつもなく低い」「ピアノなんて続けても意味がない」と力説して、俺は5歳になる娘にピアノをやめさせ、プログラミングを習わせようとしたのだ。
娘は、ピアノが大好きだったのに。毎週水曜日のレッスンを、楽しみにしていたのに──。
娘に、失敗してほしくない。
娘が可愛いからこその、そんな親心のつもりだった。どれだけ強引なことを言っていたのか、冷静になってみればわかる。
けれど、そうして飛び出したのが、妻のあのセリフだ。
「あなたは、挑戦が本当に怖いのね…」
仙台の実家にいる2人を迎えに行けないまま、いつのまにか3ヶ月という時が過ぎていた。
多忙が理由なのはもちろんだけれど、図星でへそを曲げた自分が恥ずかしくて。2人に合わせる顔がなくて。
それ以来ただでさえ多かった外食が、毎日になってしまった。
生ビールを喉に流し込みながら頭を抱えていると、「お待たせしましたぁ!」という威勢のいい声とともに、かたわらに皿が置かれた。
揚げたてのコロッケ。ジクジクと、衣の心地よい音がしている。
思わず唾を飲み下すと、俺は箸の先でその振動を感じながら、子どものようにかぶりつく。
「あっつ…!」
熱く、香ばしく、素朴な甘みが口の中に溢れる。
火傷するほどの熱さに喘ぎながらビールを流し込むと、どんな高級フレンチのロッシーニにも、どんな高級寿司のマグロにも勝るとも劣らない満足感が俺を包んだ。
「あなたは、挑戦が本当に怖いのね…」
頭の中にリフレインする妻の言葉は、本当だ。
だから、そんな自分を少しでも変えたくて、失敗を恐れ過ぎない自分になりたくて──。
本当に些細なことだけれども、こうして水曜日はせめて、新しい店に飛び込むようにしてみている。
娘が楽しみにしていた、水曜日だから。
― ウマい…!コロッケって、こんな美味しかったっけ。
もちろん、ハズレの店に当たってしまい、腹が立つこともある。
けれど、“開拓の水曜日”をルーティンにしてから、こういう小さな幸せと新しく出会える喜びに、気づけたような気がしていた。
知らない店の揚げたてのコロッケを頬張りながら、あの夜のことを思い出す。
妻の揚げたコロッケ。箸すらつけなかったけれど、あのコロッケは日頃の失敗したものとは違って、これくらいカラッと揚がっていたような気がする。
きっと妻は俺とは違って、失敗を挑戦に変えられる女性なのだろう。
― 俺も、あいつみたいになれるかな。娘も、あいつみたいな女性に育ってほしい。
来週の水曜日は、数ヶ月ぶりの完全オフの予定だ。少し前から、仙台行きのチケットを用意してある。
3枚分の、復路のチケットも。自宅には、アップライトのピアノも。
これほど大きな失敗をした俺は、取り戻せるだろうか。
心の底から妻と娘に謝って、もしも許してもらえたら…仙台でどこかウマい店を探してもいいかもしれない。
水曜日だから、下調べは無しだ。
家族連れOKのウマい店が、ちょうどよく開拓できればいいのだけれど。
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西麻布の創作居酒屋。コロッケをすすめた女性の、水曜のルーティンは