「挫折してもやり直せる」元ヤクザが、弁護士になって 異色の経歴を明かした覚悟と理由
自身がかつて暴力団員、覚せい剤の売人、使用者であったことを明かした異色の弁護士がいる。その人、諸橋仁智弁護士(46歳)は「ヤクザの中でも落ちこぼれ、覚せい剤に溺れるどうしようもない“ポン中ヤクザ”だった」と振り返るが、逮捕をきっかけに弁護士を目指し、猛勉強の末に夢を実現した。そんな自身の経験をもとに「人生のやり直しが遅すぎることはない」と語る。
5月には、『元ヤクザ弁護士 ヤクザのバッジを外して、弁護士バッジをつけました』(彩図社)を上梓。どん底を見た諸橋弁護士はどう人生を立て直したのか。そして弁護士として目指す姿とは。(ルポライター・樋田敦子)
●「過去を隠すのがしんどかった」
2023年4月、浅草にほど近い下町、台東区入谷のマンションの一室に「諸橋法律事務所」を開設した。弁護士として登録して7年、独立を果たしたのである。昨年(2022年)4月には、ジャーナリスト、丸山ゴンザレスさんの YouTubeチャンネル「裏社会ジャーニー」でヤクザ出身の弁護士であることをカミングアウトしたのだがー−。
「それまでずっと僕の刑事事件の依頼者に対して、自分の経歴を言えないもどかしさがあったんです。元ヤクザであることを言うことができれば、もっとわかりやすく依頼人を説得できるのに。それが使えない。
例えば野球のボールの握り方を、プロ野球のピッチャーから教わるのと、ただの野球好きから教わるのでは、どちらが良いですか。よりうまいプロ選手から教わったほうが頭に入るはずです。それと一緒で、僕の経験や失敗を明かしたほうがより心に響く依頼者もいると思うのです。
また弁護士業界で、過去を隠していることが結構僕的にはしんどかった。一緒に食事をしていても、この人はどこまで知っているのか、僕も明かさないし向こうも聞いてこない。それも1つのもどかしさでした」
7年間黙り続けたのには理由がある。留置所で著書『だから、あなたも生きぬいて』を読み、弁護士を目指すきっかけになった大平光代さんのアドバイスからだった。諸橋さんは司法試験に合格後、大平さんに連絡して面会することができた。大平さんは合格祝いの席で、カミングアウトすることのインパクトとダメージが大きいことを理由に「言わないほうがいい」と諭した。
「大平先生もカミングアウトされて、いろいろあったことは想像できます。僕が東京に戻って弁護士活動をしたら過去がバレ、昔の仲間から追いかけられるのではないか。週刊誌に書かれるのではないかと、心配してくれたのだと思います」
しかし弁護士として活動して数年が経ち、心境も変化していく。
「僕がヤクザだったことは弁護士の中にも知れ渡ってきました。だったら隠さず、僕が大平先生の本に出会って変わったように、僕の経験を伝えることで、誰かが人生をやりなおすきっかけをつかめればいいと思うようになりました」
経歴を公表する1年前からSNSを始め、何か起こった時のために、情報発信して防御できるように準備したという。「何かあった際には、SNSを通じてお叱りにも対処できるし、自分で反論できる環境にあります」と話す。
●「クスリを止めさせてほしい」と依頼も
1年経った現在でも「ヤクザでさんざん人を泣かせておいて、偉そうにするな」という批判がくる。しかし良い面もあった。依頼者に隠す必要がなくなったし、ヤクザだったことをわかった上で依頼が来るようにもなったからだ。
「クスリを止めさせてほしい。先生の言うことなら聞くと思うので」と刑事事件の被疑者になった家族からの依頼。
「交通事故を起こしたので対処してほしい」。そう相談してきた元暴走族の社長は、その後「先生に会社の顧問をやってほしい」とやってきた。
元々の依頼者は、経歴を知って「先生、早く言ってくれればよかったのに」と、逆に励ましてくれることもあった。
「何か事件に巻き込まれた時、どうせ頼むならエリート弁護士よりも僕みたいな弁護士のほうが話を聞いてくれそうだ、と依頼される方もいます。僕の経歴を頼りになると思ってもらえるのだと思います」
最も不安だったのが、周囲にいる仲間たちの反応だった。
結婚し、妻も5歳になる娘もいる。どのような反応があるかと危惧していたが、妻の職場や娘の関係先は好意的に迎えてくれた。地域で消防団や祭礼で一緒になる仲間は、色眼鏡で見ない。いちいち説明するまでもなく今まで通りに接してくれ、諸橋弁護士も「これが助かっていますね」と感謝している。
弁護士になって8年間コツコツと刑事弁護にあたり、事件を処理できる能力を積み重ね、周囲に信頼してもらえるように努力してきたからこその結果でもあったといえよう。
●任意で尿検査、銀行ローンではトラブルも
それでも覚せい剤取締法違反で有罪判決を受けた元ヤクザへの評価はまだまだ厳しい。交通違反で警察官に止められれば、弁護士という職業でも前科を照会される。非常にしつこく車の中を見られる。任意で尿検査までされたこともあった。
「それはついて回るので仕方ないです。弁護士だから大丈夫かなと思っていても、警察官には彼らの仕事がありますよね。“ごめんなさい”と言われて、マニュアル通りに調べられました」
ところで、元暴力団員が社会復帰するにあたっての壁となるのが、銀行口座が作れない、という問題だ。すべての金融機関ではないものの、給与の振込先となる口座開設ができないため職につけない、不動産の契約ができないケースがあるなど、当事者にとっては大きな壁となる。
昨年、警察庁は「暴力団離脱者の口座開設支援について」と題した文書を出し、金融機関への協力を求めた。要請を受け、金融庁は全銀連などに内容の周知を図った。しかし今年6月には、元暴力団員が足を洗って5年以上経つのに口座が作れないのは、「不合理な差別」と水戸簡裁に提訴するなど、まだまだ行き渡ってはいないようだ。
諸橋弁護士の場合はどうだったのだろうか。
「私の場合、銀行口座は作れました。しかし4年前、銀行ローンを借りて住宅を購入する際、トラブルになりました。融資実行日の前日まで、ほぼ大丈夫だといわれていたのに、突然、下りないことになり、結果として1週間延びたんです。
古い家は解約し、新しい家への引っ越し業者も手配していたので、慌てましたね。不動産会社に問い合わせると、警察に反社チェックの連絡を入れたのに返事が返ってこないため遅れているということでした。通常はすぐに返事があるらしいのですが。
警察に問い合わせをすると、反社データに僕の名前はないと……。その返事があった翌日にローンは下り、遅れた理由はいまだ不明です。警察にも銀行にも、マネーロンダリングを防ぐなどの建前があるのでしょうけれど、過去の経歴を理由に、銀行口座の開設やローン審査に影響が出ることがあるとすれば、ハードルが高いです。ここをなんとかしていかなければいけないと思います」
●予備校時代に覚せい剤、「アニキ」とヤミ金業へ
諸橋弁護士は、福島県いわき市の裕福な家に生まれた。小さい頃から勉強ができ、県内有数の進学校に通った。「勉強すればテストで良い成績が出せるエリートだったと思う。集中して教科書読み、知識を吸収するのは得意だった」と諸橋弁護士は話す。
小学校の頃、伊丹十三監督の映画『マルサの女』を観て、国税庁の査察部に行きたいと思った。何度も観ていくうちに、査察官は、東大を出て当時の大蔵省に入らなければならないといけないことが分かった。しかも現役で合格しなければいけないー−。
しかし目指した東大現役合格は失敗。「東大に現役合格するには試験勉強が足りていませんでした。でも、この不合格は、自分の人生設計の中で考えられないような挫折だったのです。いま思えば、甘いの一言ですが、それで人生が嫌になってしまったんです」と話す。
上京して入った予備校で、ほんの遊び心で覚せい剤を覚えた。2浪して都内の私立大学に入学するが、アルバイト先の麻雀店で暴力団員と知り合い、そこから人生は思いがけない方向に流れていく。その「アニキ」とともにヤミ金業を歩み、21歳で暴力団の道に入ることになった。
「覚せい剤の密売人をするうちに、自分自身も覚せい剤に溺れてしまったんですね。『すぐ止められる』と思って始めたのに、抜け出せなくなっていって……」
次第に幻覚、幻聴に苦しむほどになった。ある日、渋谷のスクランブル交差点で傘を振り回して交通整理のようなことを始めたところを、警察に「保護」され、精神病院に強制入院させられた。暴力団員に戻ろうと思ったが、すでに破門され、戻る道は絶たれていた。
その後、逮捕されるが、勾留中、渋谷警察署の留置場で読んだ大平さんの著書『だから、あなたも生きぬいて』に刺激を受け、司法試験合格を目標に勉強を始めると決意する。
裁判では被告人質問で「これからは、司法試験を目指します」と宣言。裁判官は「君ならできると思いますよ。頑張ってください」と温かい言葉をかけてくれたことに、「裁判官が信じてくれたことが嬉しかった。司法試験に合格するまでの7年間、くじけそうな時にはこの言葉を励みにした」と話す。
判決は懲役1年6月(執行猶予3年)だった。1年後には宅地建物取引士、4年後には司法書士の試験に合格。関西大学法科大学院に入学し、2013年、38歳で司法試験に合格した。
●「覚せい剤への欲求みたいなものはずっとある」
合格までの7年間という年月の中、「弁護士になる」というモチベーションを保ってこられたのには、理由がある。抱えていたいちばんの課題である「覚せい剤に再び手を出さないため」だった。
「もともと僕は何か一つをずっと続けられない欠点があった。30分も机に向かっていられないのです。そこを改善しようと思って始めた勉強でしたが、一番は覚せい剤に戻らないというのが大きな動機でした。勉強はそのためのツールで、手を出さないためにはどうすべきか。弁護士になるという目標を持たなければやってこられなかった」
アルコール依存などの依存症と同様に、覚せい剤もまたフラッシュバックに苦しめられ続ける。
「これを言うと誤解されてしまうのですが、アルコール依存症の方が飲みたいという欲求を抱え続けるのと同じで、僕自身、今でもやりたいと思います。ずっとやってないだけで、欲求みたいなものはずっとあります。やった後の弊害が大きいからやってないだけの問題なのです」
●挫折してもやり直せる世界に
7年かけて司法試験に受かり、7年間の弁護士生活が過ぎ、8年目で独立した。大学に入学したとたんに司法試験の勉強を始め、法科大学院を卒業してストレートに弁護士になる人も珍しくない中で、ずいぶん回り道をした。
開業した下町の事務所は、いわきにいる実母が所有していた部屋で、母は司法試験の勉強中も、物心ともに支えてくれた。弁護士になったこと、結婚して子どもができたことを一番喜んでくれているのは母親でもあり、「今にして思うと原動力はお母さんだった」という。
刑事弁護で活躍して名を成したい、お金を稼いで港区に事務所を構えたい、などの欲求は微塵もない。自分と似た経歴の人はいないので、弁護士業界の中に居場所がないと感じることさえある。
「弁護を依頼してくる人も同じ気持ちだと思います。罪を犯した自分はどこにも居場所がないと皆思っています。そんな時こそ僕の出番です。挫折してもこれだけやり直せるということを今挫折している人に届けたい。そういう意味では重要な立場にいると思っています」
弁護士になってから住み始めた浅草の地。祭りで神輿を担ぎ、消防団の活動に参加するとき「ここが居場所だなあ」と感じる。
「地域の皆さんに信頼されてなんでも相談してもらえる弁護士になりたいですね。司法試験に合格したばかりの時は、合格にゴールを置いていたので弁護士としてのビジョンはあまりなかったけれど、今は明確です。大きな失敗をしても、再チャレンジを応援する。そして、地域に貢献できることをし、恩返しをしていきたいと思っています」