旧日本海軍の空母「赤城」が1925年の今日、進水しました。巡洋戦艦として建造されるも、後に改装され空母となった経緯を持ちます。その証拠が名称。ただ空母になった後も、艦載機の運用を巡り試行錯誤が続けられました。

2回の大改装を経て近代空母に

 1925(大正14)年の4月22日は、旧日本海軍の航空母艦「赤城」が進水した日です。赤城とは群馬県にある赤城山にちなみますが、旧海軍では原則、山岳名は巡洋艦に付けていました。

 ではなぜ空母なのに「赤城」かというと、建造当初は巡洋戦艦だったからでした。


旧日本海軍の航空母艦「赤城」。1941年に撮影され、一段全通式飛行甲板に改装後の姿。前方に3機の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が並んでいる(画像:アメリカ海軍)。

 空母へ計画変更されたのは、同じころ発効されたワシントン海軍軍縮条約によるもの。この条約で戦艦の保有数が制限されたため、「赤城」は巡洋戦艦として造れなくなったのでした。そこで、廃棄するのではなく空母へと改装。こうして1927(昭和2)年3月、呉海軍工廠にて竣工しました。

 当初の「赤城」は飛行甲板に、三段式(ひな壇式)を採用しました。上段を着艦用、中段を小型機の発艦用、下段を戦闘機などの発艦用としたのです。現代の視点では何とも手狭に見えますが、当時は航空機が海戦の主力になるとは想定されておらず、航続距離も短く小型な機体は、勝敗を左右するような戦闘はできないと考えられていたのです。

 しかし、航空機の性能が想定を上回る早さで向上し機体も大型化すると、三段式の空母は飛行甲板の短さなどから使い勝手が悪くなりました。「赤城」は再度大掛かりな改装を実施。1938(昭和13)年8月、大きな飛行甲板を1枚にした一段全通式の空母に生まれ変わりました。

 中段と下段の飛行甲板だったスペースを格納庫に転用したことで、搭載できる機数は増大。ほかにもエレベーターの増設、2本の煙突をひとつにまとめるなど、装いは近代空母にふさわしいものとなりました。

 太平洋戦争が始まる前の戦歴としては、中華民国軍と戦った日中戦争(1937年〜)に出撃。上陸部隊の掩護や支援に従事しました。

最期はミッドウェーの海

 1941(昭和16)年12月には、太平洋戦争開戦の契機となった真珠湾攻撃に参加。ほかの日本空母5隻とともに、作戦を成功させます。その後はインド洋へ進出し、翌1942(昭和17)年4月にイギリス軍やオランダ軍などと交戦します。

 インド洋で繰り広げられたセイロン沖海戦では、「赤城」を発艦した攻撃隊がイギリス海軍の空母や巡洋艦を撃沈。南方で連合運を打ち破っていきました。


ミッドウェー海戦にてB-17爆撃機の攻撃を回避する「赤城」(画像:アメリカ空軍)。

 しかし同年6月、太平洋戦争における勝敗の分岐点ともいわれるミッドウェー海戦が運命の一戦となります。5日朝、「赤城」の艦上ではアメリカ艦船を攻撃すべく、魚雷を搭載した攻撃機が発進準備をしていました。ところがミッドウェー島を攻撃した味方機から追加の爆撃要請を受けたため、攻撃機は魚雷から陸上攻撃用の爆弾へ兵装転換を行います。

 その最中、今度は偵察機から「敵艦隊発見」の報が入ります。「赤城」の飛行甲板では再度、爆弾から艦船攻撃用の魚雷へ兵装転換が行われました。攻撃隊の発進は大きく遅れていきます。

 慌ただしい「赤城」に、アメリカ軍の急降下爆撃機が襲来します。発進準備中の飛行甲板に爆弾が命中、うち1発が格納庫まで入り込んで爆発しました。格納庫内に乱雑に置かれた爆弾や航空機燃料に次々と引火し、航行にも支障が出ます。

 大火災に見舞われた「赤城」は消火活動もままならず、日付が変わるころに雷撃処分が決定。味方駆逐艦が放った魚雷により、「赤城」は翌6日深夜に沈没しました。なお、この海戦では「加賀」など計4隻の空母が撃沈されています。

 それから77年後の2019年10月21日。「赤城」はミッドウェー沖の海面下5400mで発見されます。発見者はアメリカのマイクロソフト社を創業した故ポール・アレン氏の調査チームでした。なお、「赤城」から33km離れた海面下には、「加賀」も眠っています。