実はドイツも造ってた「艦攻」 魚雷を抱いた複葉機Fi167どう使った? 最後に挙げた大金星
日米英以外で唯一、艦上攻撃機を開発したドイツ。見た目は旧式な複葉機ながら、高いSTOL性を持ったフィゼラーFi167は、本来の用途ではついに運用されませんでしたが、第2次大戦末期に意外な戦果を挙げ、複葉軍用機の掉尾を飾りました。
再軍備宣言で始まったドイツ艦載機導入プロジェクト
敵艦に対し魚雷や爆弾を抱いて攻撃を仕掛ける艦上攻撃機(以下、艦攻)といえば、日本の九七式艦攻やアメリカのTBF「アヴェンジャー」などが有名です。両機種は第2次世界大戦において太平洋を舞台に数々の海戦を繰り広げてきた日米だからこそ、よく知られるようになったといえるでしょう。加えて、この2か国以外で海戦に複数の空母を運用したのはイギリス海軍だけのため、一般的には日米英が艦攻を運用したと思われがちです。ところが意外な国も艦攻を造作っていました。
それがドイツです。同国は大戦終結まで空母を実用化できずに終わったものの、一から開発した「Fi167」という艦攻を生産までこぎつけしています。この機体がどのような経緯で生まれ、どう使われたのか見てみましょう。
わずか12機のみ造られたフィゼラーFi167艦上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
ドイツは1933(昭和8)年にヒトラー政権が成立すると、その2年後に再軍備宣言を行い、空軍を新設するなど大々的に軍備増強を開始しました。その流れは海軍も同様で、こちらでは大艦隊を整備する「Z計画」が始まります。その一環として計画されたのが、グラーフ・ツェッペリン級航空母艦(空母)でした。
1番艦「グラーフ・ツェッペリン」は1936(昭和11)年12月28日に起工、それに合わせて、ドイツ航空省(軍用機を開発・生産する政府機関)は艦載機の開発に着手します。
艦上戦闘機は陸上戦闘機であるメッサーシュミットBf109、急降下爆撃機(艦上爆撃機)はユンカースJu87「スツーカ」、この2機種については空母用に転用・改良することで決まりましたが、水平爆撃および雷撃を主任務とする艦攻だけは新型機フィゼラーFi167を採用することとなりました。
なお、なぜ海軍の艦載機に航空省が関わっているのかというと、ドイツ国防軍における陸海空軍の力関係が影響しています。航空機、とくに軍用機全般に関しては、ヒトラーの側近だった空軍総司令官ゲーリングが圧倒的に多くの権限を握っていました。
日米が陸海軍とも独自に航空機を開発することができたのに対して、ドイツでは軍用機の運用を空軍が一手に握っていたのです。ゆえに、空母用の艦載機選定にもゲーリングの息がかかった空軍の意向が色濃く反映された結果となりました。
空を飛ぶものは全て空軍のもの!
艦載機を新規に開発するのは大変で、陸上機を空母用に改造するのが手っ取り早いです。そのためフランス、イタリアは陸上機からの改造を計画し、イギリスは陸上戦闘機「スピットファイア」の空母型「シーファイア」を採用しています。ドイツも空母で運用する戦闘機と急降下爆撃機は既存の陸上機から転用する計画でした。ただし、水平爆撃と雷撃を兼ねる艦攻は使える陸上機がないため新規の開発となりました。
ここで開発を担当することになったのがフィゼラー社です。同社は偵察機や着弾観測、連絡機、ヘリコプターなど多目的航空機を得意としていました。特にFi156「シュトルヒ」は45m以内で離陸可能な、いわゆる短距離離陸(STOL)性能に優れており、その能力性能を活かして戦争末期にはイタリアの国家指導者ムッソリーニの救出作戦にも使われています。
優れた短距離離着陸(STOL)性能を誇ったFi156「シュトルヒ」。Fi167のSTOL性は同機よりも優れていた(画像:SA-kuva)。
フィゼラー社では、発着艦に適した低速性能と偵察機にも使えるというドイツ航空省の要求に対応可能な新型艦攻を開発。こうして生まれたのが、Fi167でした。1937(昭和12)年11月に初飛行した同機は、低速時の操縦性に優れており、前出のFi156「シュトルヒ」よりも優れたSTOL性を有していました。
その優れた飛行特性を活かして、試験飛行では高度3000mから30mまでほぼ垂直降下を果たしたほどです。なお、複葉の主翼は後方に折り畳み可能で、固定脚は不時着水する際には投下できるようになっていました。
こうして出揃った艦載機3種は、空母が完成した暁には、すべて空軍の航空隊が運用する計画でした。これは前述したように航空機を空軍が独占していたのに加えて、ドイツ海軍には航空機の本格的な運用実績がなかったからです。
一見すると奇異に思えるかもしれませんが、同様の例としてアメリカも海兵隊の航空部隊を海軍の空母で運用するなどしています。現在の海上自衛隊でも、いずも型護衛艦を空母に改装中ですが、それが終わった暁には航空自衛隊のF-35B戦闘機部隊が艦上運用を始める予定であり、現実的な対応といえるでしょう。
記録残した! Fi167の思いがけない大金星
ドイツ航空省は試験機を含む初期生産型のFi167を発注しました。空母「グラーフ・ツェッペリン」は1938(昭和13)年12月に進水し、2番艦(艦名は「ペーター・シュトラッサー」を予定)も同年に起工しています。ところが、ドイツ海軍の空母計画は頓挫してしまいます。
なぜなら、1939(昭和14)年9月に第2次世界大戦が勃発したことで、戦艦や空母などの大型艦は建造に時間がかかり、かつ資材を大量に使うというからという理由で計画が見直されたからです。「グラーフ・ツェッペリン」は工事が中断、2番艦は建造中止、3番艦と4番艦は計画そのものが中止になりました。
その結果、「グラーフ・ツェッペリン」は1940(昭和15)年中に完成する見込みがなくなります。そうなると搭載予定だった艦載機も行くところがなくなってしまいました。特にFi167は、12機で生産が打ち切られ、そのうち9機が空軍の評価試験部隊に引き渡され、占領下オランダの地で1943(昭和18)年までエンジン試験機として使われました。
キール造船所で進水式を迎えたドイツ空母「グラーフ・ツェッペリン」(画像:ドイツ連邦公文書館)。
その後、「グラーフ・ツェッペリン」の工事が1942(昭和17)年に再開されますが、そのころには、さすがにFi167は性能的に陳腐化していました。結果、ドイツ空軍も時代遅れと判断、1944(昭和19)年に旧ユーゴスラビアにナチス・ドイツが傀儡政権として樹立した、クロアチア独立国の空軍へと売却されています。
ただ、その売却先でFi167は意外な戦果を挙げています。大戦末期の1944(昭和19)年10月10日、クロアチア空軍のエース・パイロット、ボジダル・バルトゥロビッチが操縦するFi167が、イギリス空軍第213飛行中隊のP-51「ムスタング」戦闘機3機と空中戦になります。Fi167は被弾し、バルトゥロビッチも頭を負傷しますが、機体から脱出する前に後部機銃手のメイト・ジュルコビッチがP-51のうち1機を撃墜しました。手痛い反撃を食らったP-51は不時着で大破、パイロットは戦死したといいます。
この空中戦は相打ちながらFi167にとって唯一の戦果となりました。しかも、これは第1次世界大戦以来、ヨーロッパ戦線で複葉機が敵機を撃墜した最後の戦果にもなりました。