今から35年ほど前、アメリカ海軍と空軍の共同による長距離の爆撃作戦が実施されました。リビアの要人暗殺も視野に入れた特殊作戦の詳細が、このたび公開されたため、タイムスケジュールを追いながらひも解いてみました。

リビア爆撃に至るまでの経緯

 1986年4月15日、アメリカは当時敵対関係にあったリビアに対して攻撃を加えました。「エルドラド・キャニオン」と命名されたこの作戦は、軍事施設への攻撃とともに指導者カッザーフィー(通称カダフィ大佐)の暗殺を目的にしたものでしたが、それから30余年が経過した今日、作戦に関する詳しい情報とともに担当者の証言などが公表されるようになりました。

 アメリカ空軍と海軍の航空戦力がタッグを組んで行った共同作戦を、時間経過とともに改めて振り返ってみましょう


1985年5月26日、アイダホ州のマウンテンホーム空軍基地で撮影したF-111戦闘攻撃機。手前に写る爆弾は「エルドラド・キャニオン」作戦でも使用されたGBU-10レーザー誘導爆弾(細谷泰正撮影)。

 1980年代、リビアは一貫してアメリカをはじめとした西側諸国との対決姿勢を先鋭化させていきました。加えて、1985年には国際法を無視してシドラ湾を自国の領海であると一方的に宣言したことで、国際社会から批判を浴びるようになります。

 そういったなか、アメリカはイタリアの客船ハイジャック事件やローマ空港爆破事件などのテロ事件にリビアが関係しているとして、1986年3月、地中海に展開している空母機動部隊を使って、リビアのミサイル艇とレーダー基地を攻撃しました。

 その直後、同年4月に西ベルリン(当時)でディスコ爆破事件が起き、多くのアメリカ人が死傷します。これに対し、当時のレーガン政権は、リビアによるテロであったと判断し、冒頭に記した「エルドラド・キャニオン」作戦の実施に踏み切ったのです。

 アメリカ軍は、巻き添えによる市民への被害は最小限に抑えつつ、最大限の効果が出るよう作戦内容を練ります。そこで、カッザーフィーの居所や空軍基地、レーダーサイトなどといった複数の攻撃目標が選ばれました。

 リビア側の虚をつくよう、位置的に離れた複数目標を同時に攻撃することが決まりましたが、それを遂行するには地中海に展開している空母打撃群からの攻撃機だけでは不十分と判断されます。そこで白羽の矢が立ったのが、イギリスに駐留していたF-111戦闘攻撃機でした。

作戦遂行のため大西洋横断した訓練も

 F-111は可変翼を備えた戦闘爆撃機で、低空での高速侵攻能力、航続力、兵器搭載量、全天候飛行能力など、すべての点で「エルドラド・キャニオン」作戦に最適な機種でした。そして投入する機種が決まると、作戦の立案を前にアメリカ空軍は1985年10月、イギリスのアッパー・ヘイフォード基地に駐留する第20戦闘航空団のF-111と、同じくイギリスのミルデンホール基地に駐留するKC-135空中給油機を使用して、長距離爆撃訓練をスタートさせます。

 この訓練は、イギリスの基地を離陸したF-111が空中給油を受けながら大西洋を横断し、カナダ東部のグースベイ空軍基地周辺に広がる演習場に500ポンド訓練弾を投下してイギリスの基地へ帰投するというものでした。

 この長距離渡洋の爆撃訓練で得られたノウハウを反映してリビア攻撃作戦が立案されました。リビア攻撃にはミルデンホール基地のKC-135と、レイクンヒース基地に所在する第48戦闘航空団のF-111が参加することになりました。


1985年5月26日、アイダホ州のマウンテンホーム空軍基地で撮影したEF-111電子戦機の列線(細谷泰正撮影)。

 ただ、計画当初はスペインとフランスから領空通過の承諾が得られることを想定していたものの、最終的には両国ともそれを許可しませんでした。そのため、大西洋上を飛行してジブラルタル海峡上空から地中海に入る飛行ルートに見直されました。

 ゆえに飛行距離は倍増することになり、在イギリスのKC-135だけでは空中給油能力が不十分と考えられたため、アメリカ本土から最新鋭の大型給油機 KC-10が派遣されることになりました。その結果、作戦ではKC-10とKC-135、合わせて28機の給油機が参加しています。

 こうして、準備を整えたアメリカ軍に対し、レーガン大統領は1986年4月14日、リビア攻撃作戦の命令を下しました。同日、現地時間の19時イギリスの基地から空中給油機が離陸、続いて24機のF-111と5機のEF-111電子戦機が離陸していきました。

すべての攻撃はわずか12分で終了

 その後、システムに不具合が発生した機体や予備機は途中で編隊を離脱し基地へと戻ってきました。トラブルが出なかった残りのF-111(18機)とEF-111(4機)で構成された攻撃部隊は空中給油を受けながら飛行を続けます。そして、暗闇の地中海上空を飛行し、リビアへ近付くと、次第に高度を下げていきます。

 電波高度計と地形追従レーダーによって最終的には200フィート(約60m)まで高度を下げてリビア沿岸に接近しました。超低空を高速飛行することで対空砲火をかわすのは、攻撃機の本能のような飛び方です。闇夜で視認されることを防ぎつつ燃料を節約するために、巡航中はアフターバーナー不使用の最大出力、いわゆるミリタリー・パワーで飛行しました。なお、F-111ならびにEF-111は、可変(VG)翼を備えているため、その状態においてもほぼ音速で巡航することが可能でした。

 一方、アメリカ海軍は地中海に展開していた空母「アメリカ」から午前1時、A-6E攻撃機とA-7攻撃機各6機、計12機が発艦を開始します。加えて空母「コーラル・シー」からも8機のA-6Eと6機のF/A-18戦闘攻撃機が対空砲火制圧と攻撃機部隊の護衛のため発艦しました。さらに早期警戒機E-2Cも2機が投入され空から警戒と監視を行いました。


アメリカ海軍のEA-6B電子戦機(細谷泰正撮影)。

 リビア時間午前1時54分から、リビアのレーダー網を無力化するために空軍のEF-111と海軍のEA-6B、両電子戦機による合同の電波妨害が始まります。一方、海軍のA-7EとF/A-18からは対空砲火の無力化を目的とした対レーダーサイト・ミサイルAGM-88 「HARM」とAGM-45 「シュライク」が発射されました。

 目標への攻撃はリビア時間午前2時00分から開始され 、空軍のF-111はGBU-10レーダー誘導ミサイルおよびMk82爆弾を、一方の海軍はA-6がMk20爆弾とMk82爆弾を目標に向けて各々投下しています。こうして合計7か所の目標に対して計60tもの各種兵器を投下するというミッションは終了。

 すべての攻撃は12分間という短時間で終わり、作戦後、空母艦載機はリビア時間午前3時までに全機、空母へ帰還しています。

作戦は成功したものの、戦略的には?

 一方、空軍のF-111戦闘攻撃機とEF-111電子戦機は、攻撃終了後に地中海上空で再び空中給油を受けるために給油機と合流しましたが、そこでF-111のうちの1機が不明になったことが判明します。

 その1機は給油空域に現れず、後にリビア側の対空砲で撃墜されたことが発覚しています。とはいえ、攻撃部隊が帰路に着いたことを受け、ホワイトハウスではワインバーガー国防長官(当時)が同作戦の実施についてようやく発表を行いました。

 行方不明になった1機を除き、F-111とEF-111、そして給油機部隊は15日朝、在イギリスの米軍基地へと着陸。こうして14時間以上に及んだ長距離ミッションが終了しました。

 ただ、この攻撃はリビアの軍事施設に多大な損害を与えることには成功したものの、独裁者カッザーフィーの暗殺には失敗しました。また、この攻撃でリビア側を怒らせてしまい、彼らの報復行動を呼ぶことにもなりました。そのひとつが、1988年に起きたパンナム103便の爆破テロです。この事件にはリビアが関与したことが明らかになっています。


アメリカ海軍のA-6攻撃機(細谷泰正撮影)。

 最近明かされた新情報を含め、改めて1986年のアメリカ軍によるリビア攻撃を、時間を追って見てみると、用途別に異なる軍用機が数多くかかわっていたことがわかります。加えて大西洋を横断しての長距離爆撃訓練を事前に実施したり、空中給油機を多めに用意したりと周到な準備をしていたことがわかります。また、今回は省きましたが、アメリカ国防総省を始めとした各司令部などで、空軍と海軍の共同作戦に関する擦り合わせは最後まで行われていたはずです。

 日本では現在、自衛隊に対する敵地攻撃能力の獲得に関する是非が議論されていますが、もし敵地を攻撃しようとするなら、相応の数の作戦機を投入するとともに、予備機も用意し、さらには陸海空の3自衛隊、加えて防衛省内局や情報本部、在日米軍などとの事前調整も必要になるでしょう。

 いまは「エルドラド・キャニオン」作戦を実施したときよりも兵器の多用途化が進んでいるため、当時よりも機種を絞り込むことは可能です。しかし敵地攻撃は、兵器さえあればできるというものではありません。その点で、実は目に見えない部分のノウハウを防衛省・自衛隊が手に入れない限り、難しいといえるのではないでしょうか。