「こんな冴えない女と？」元彼が結婚相手に、自分より地味女を選んだことを知った29歳女は…
29歳―。
それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。
仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。
白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。
◆これまでのあらすじ
春香は、会社経営者の英明と、役者でイケメンの祐也と、2股をかけていた。結婚を視野に入れたとき、相応しい相手として英明を選ぶ。そこで、祐也に別れを告げようとするのだが、逆に浮気をされ、2股をかけられていた事実を知り…。
君は特別【後編】
「へえ、ここが祐也君の浮気相手が働いているお店ね。素敵なところじゃない」
飛鳥が店内を見回しながら感嘆の声を漏らす。
春香は、祐也の2股をかけた相手がどんな女性なのかを確かめるため、飛鳥を連れて、新橋にある店を訪れた。
カウンター8席と、テーブル席が僅かにある、小料理屋風の居酒屋だ。
「お待たせしました。こちら『まぐろの山かけ』になります」
まさにその女性が、作務衣姿で接客にあたり、カウンター席に座る春香たちに料理を運んできた。
胸もとの名札に『若菜』と書いてある。
「性格は、良さそうだね…」
にこやかに対応する彼女を見て、飛鳥が小声で囁く。
「それは、こっちは客なんだから。愛想良くもするでしょう…」
春香がこのお店に祐也と訪れたのは、半年以上前だ。
若菜の顔は記憶から無くなっていたが、忘れて当然の地味な顔立ちをしている。
― こんな小娘のどこがいいのよ…。ただ若いだけじゃない。
今のところ祐也が、浮気するほどの魅力は伝わってこない。
「あ、これ美味しい！」
隣で飛鳥が料理を口に運んでいる。
春香も箸を伸ばしてみるものの、そこまでの感動はない。
「マグロとトロロの相性がいいのはもちろんだけど、この漬けダレの甘さが絶妙…」
「そう…？普通じゃない？」
「器も可愛いし。伊万里焼かなぁ…」
何に対しても肯定的に受け止める飛鳥の姿勢に、少し腹が立ってくる。
「すみません！」
春香が若菜を呼び止める。
「はい。ご注文ですか？」
「私のこと、覚えてますか？以前に1度だけここに来たことがあるんだけど…」
春香が用件を切り出すと、若菜は一瞬、戸惑ったような表情を浮かべ「はい」と頷く。
「以前、祐也さんといらしてましたよね？お綺麗な方だなと思って覚えています」
若菜が丁寧に言葉を選んで答える。
「じゃあ、私と祐也の関係は知ってるわよね？」
「えっ？」
唖然とした表情を浮かべたあと、言葉の意味を理解したのか、声を詰まらせる。
「はい…。ただ、私は、すでに別れていると彼から聞いていたもので…」
若菜の動揺ぶりからして、春香を出し抜こうとしていたようには見受けられない。
― 祐也、別れたって嘘をついたのね…。
「まあ、とにかく少し話をしましょう。お店は何時に終わるの？」
閉店時間を聞き、若菜の仕事終わりを待つことにした。
◆
飛鳥は、次の舞台のセリフをおぼえるために、一足早く家路についた。
春香は、居酒屋の近くにあるイタリアンバルに入り、しばらく待っていると、若菜が肩をすくめながら申し訳なさそうに入ってきた。
「何か飲みもの頼んだら？」
春香は、テーブルを挟んで向かいに座る若菜にメニューを差し出す。
「私はお酒飲めないので…お水で…」
「そう。じゃあ、何か食べものでも注文したら？お腹空いてるんじゃない？」
メニューを見ながら決めかねている様子の若菜に、店員が声をかけてくる。
「お食事でしたら、冬の限定メニューはいかがですか？」
春香のほうが、“限定”というフレーズに反応する。
「限定メニューって、何があるの？」
「『ホウボウのアクアパッツァ』と『牡蠣とコールラビのマリネ』です」
「じゃあ、そのふたつください」
限定という特別感をアピールされると、食べておきたい衝動に駆られる。
注文を終え、すぐに本題に入る。
「それで、祐也とはいつから？」
「半年ほど前からです…」
― 半年前って…。私がお店に連れて行ってもらったすぐ後ぐらいじゃないの…！
「あの店は父が切り盛りしているんですが、一時期体調を崩して人手が足りなかったんです。そのとき、すでに常連だった祐也さんが、仕事の合間に手伝いに来てくれていました」
「それで親しくなって、付き合うことになったわけ？」
春香の問いかけに、若菜が黙ってうなずく。
「で、最近は、どんな感じだったの？」
― 祐也が私に別れを告げようと思った理由は何なの…？
「最近…ですか。祐也さん、仕事のことで悩んでいたみたいですね。そういう話をよく聞いてました」
「へぇ」
― 仕事のことで悩んでたなんて、知らない…。単発でも仕事はあったし、食べるのに困らないぐらいの収入はあったはずだけど…。
「新しい俳優さんがどんどん出てくるので、祐也さんもプレッシャーを感じていたみたいです。
もうじき30歳だし、区切りをつけなければいけないのかもって」
― 私、祐也から、そんな相談されたこともない。何も不安のないお気楽な人だと思ってたけど…。
「それで、祐也さん、あの店を継ぎたいって言ってくれたんです」
「ええっ！？」
「お父さんも、体調のこともあってそろそろ引き際を考えていたので…」
「役者は…どうするって…？」
「役者は、辞めようと思ってるって…」
― ああっ！だからあの調理師の参考書！
焼鳥屋さんで祐也のバッグから出てきた分厚い参考書を思い出す。彼は、役者を辞め調理師になる覚悟を決めていたのだ。
― 祐也は、きっと以前からいろいろな悩みを抱えていたのね。
新人の台頭による下からの突き上げを受け、立ちはだかる年齢の壁を前にして、どこかで窮状を訴えていたのだろうと春香は考える。
役者という特殊な業種ではあるものの、春香にも共通する悩みはあったはず。打ち明けられれば、共感し、寄り添うこともできたはずだ。
祐也がそれをしてこなかったのは、春香が外見だけしか見ていないことに気づいており、親身になって聞いてくれるとは思えなかったからだろう。
春香は、目の前の若菜に悟られないよう、ゆっくりと深く、溜め息をつく。
テーブルに、注文した料理が運ばれる。
「冷めないうちに食べたら？」
春香が促すと、若菜が遠慮がちに手をつけ始め、控えめに「美味しい」と漏らす。
「ふ〜ん、そう…」
「はい、すごく美味しいです。ホウボウの身に、あさりやトマトのスープがしっかりしみていて、ケイパーの酸味と食感によって、さらにしっとり感が引き立っています。
こっちは蒸し牡蠣の濃厚な旨味に、コールラビのシャキシャキ感がよく合います」
― ちょっと、見事な食リポじゃないの。
若菜の解説に食欲をそそられ、春香も手を伸ばす。
― うん、美味しい。確かに美味しいけど…。
春香は食べながら感想を述べようとするが、「美味しい」という以外、「ホウボウの身が柔らかい」「牡蠣がプリプリしている」という言葉しか浮かんでこない。
若菜に比べてあまりに浅はかな気がしてしまい、春香はコメントを差し控える。
ボキャブラリーが少ないのか、それとも細かい味の差が認識できない味オンチなのか、自分の舌にも自信が持てなくなる。
― 私は彼女と同じように、料理の味を楽しめているのかしら…。
限定メニューという特別感に惹かれただけで、料理そのものの味に興味があるわけではない気がしてくる。
そしてそれは、男を選ぶ際の判断基準にも、共通して言えることのようにも思えてくる。
春香は、いかにも味を堪能しているかのように、頷きながら無言で口を動かす。
同時に、祐也が若菜を選んだ理由を、嫌々ながらも少しずつ飲み込んでいく。
◆
春香が恵比寿の自宅マンションに戻ると、飛鳥が心配そうに出迎えた。
「はぁ…。なんかお腹すいちゃった…。飛鳥、何か作って！」
「ええっ！？まだ食べるの？」
春香のいつもと変わらない様子に、飛鳥は安心した表情を見せる。
「いろいろ気を使っていたら、小腹が空いちゃって…」
「わかった。お茶漬けでいい？」
飛鳥がキッチンで調理を始める。
「で、あのあと2人で話して、どうだったの？」
「祐也のことは…。まあ、もともと別れるつもりだったし。そこはもういいかなって」
「そっか。じゃあ納得したんだね」
「でもね。それどころじゃないのよ」
春香は背もたれから上体を起こし、ガクッと首を垂れる。
「帰りのタクシーのなかで、電話がかかってきたの。英明さんの、奥さんって人から」
「ええっ！？英明さんって、結婚してたの？」
「そうみたい。もうビックリだよ。しかもね、私以外にももうひとり女がいるんだって」
「ってことは…3股！？お金持ちは怖いわぁ…」
「『だからもう会うな』って言われてさぁ…」
飛鳥がお茶漬けを運んでくる。
春香はお椀を両手で持ち、ひと口すする。
「ああ…美味しい…」
心の底から湧き上がる感情を、そのまま声にして出す。
― 飛鳥がいてくれて良かった…。
本音を言えば、やはり傷付いてはいた。
一気に2人の恋人を失ったのだから当然だ。しかも、両者ともに浮気をされたのだ。
だが、飛鳥が傍にいてくれることで平常心を保つことができ、いつもの強気な姿勢を崩さずにいられた。
「でも、まさか春香が3股をかけられるなんてねぇ…」
飛鳥が、どこか冷やかすように言う。
しかし、春香はひるまない。
「3股どころじゃないわよ。祐也には2股かけられてたんだから、計5股よ」
「あ、そっか」
「しかも、私は2股をかけてたわけだから、5に2を掛けたら計10股だから」
「なんで掛けるのよ…。どういう計算よ」
「とにかく、男からそれだけ多くの“股”をかけられるなんて、なかなかない状況でしょう。これも“特別な経験”をさせてもらえたってことよね」
春香の、どこかおどけたような前向きな発言に、飛鳥も安堵の笑みをこぼす。
「ああ…。でもこのお茶漬け、すごく美味しい。癒されるわぁ…」
「本当？良かった」
「これって、どう作るの？」
「特別なものは使ってないけど…。まあ、塩昆布少しと白だしで味付けをして、梅干しをちぎって、アクセントに白胡麻を加えて…」
飛鳥が調理について説明を始める。
― 飛鳥が一緒にいてくれるあいだに、少し料理でもおぼえよう…。
男に関しても料理に関しても、もう少し中身にこだわりが持てるようになろうと、春香はいつもより真剣に耳を傾けたのだった。
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