警備産業を興し、1兆円企業を育て上げたセコム創業者の飯田亮氏(2001年撮影、写真:東洋経済新報社)

また1人、稀有な才能を発揮した経営者が1月7日、この世を去った。セコム創業者の飯田亮氏(享年89歳)だ。第二電電(現KDDI)の設立で手を組んだ盟友・稲盛和夫氏(京セラ創業者、2022年8月24日死去、享年90歳)を追うように。

飯田氏は、1962年に日本初の警備保障会社「日本警備保障」(現セコム)を設立。同社は東京オリンピック(1964年)の警備を任され、テレビドラマ『ザ・ガードマン』(1965年4月〜71年12月、TBSテレビ)のモデルにもなり、「ガードマン」という言葉を定着させた。これで急成長のきっかけを掴み、日本になかった警備産業を開拓し、一代で同業界ダントツ1位の1兆円企業に成長させた。

飯田氏と稲盛氏は、本田宗一郎氏(本田技研工業創業者)や井深大氏と盛田昭夫氏(ソニー共同創業者)、立石一真氏(オムロン創業者)などに続く、「戦後ベンチャー第2世代」の雄として日本の経済界で大きな存在感を示した。

1月7日といえば、裕仁・昭和天皇崩御の日であり、カンボジア救国民族統一戦線が首都プノンペンに侵攻し、ポル・ポト政権を崩壊させた記念日でもある。国際的社会貢献活動としてカンボジア地雷除去プロジェクトを応援する「人道目的の地雷除去支援の会(JAHDS)」の理事長も務めていた飯田氏の命日になったのは単なる偶然だろうか。

粋でスマートな人だった

飯田氏は江戸っ子と湘南ボーイを足して2で割ったような粋でスマートな人だった。親分肌ながらも上品。「威張る奴は最低」という感覚を持っていたせいか、セレブでありながら、どのような人ともフランクに接した。当然、社内では厳しい顔を見せたことも少なくなかったが、素の飯田氏は、気配りの人だった。

口にする一言一言が洒落(しゃれ)ていた。いや、文学的と言っても過言ではない。ユーモアを交えたスピーチが上手で会場を沸かせた。ある講演会では、日本電産の永守重信会長兼CEOが一番前に座り、講演後、「飯田さんは、私が最も尊敬している経営者」と発言していたシーンが印象に残っている。

筆者は長年、飯田氏にインタビューしてきたが、多くの経営者が横並びで使うようなアルファベット略語をほとんど話さなかった。たとえば、CSR(企業の社会的責任)とは言わず、「社会と恋愛できる(あいあい傘をさせる)会社でなくてはならない」といった具合だ。やはり、育ちが影響しているのだろうか。

飯田氏は1993年(昭和8年)、江戸時代から続く東京・日本橋馬喰町の老舗酒問屋「岡永」で、男5人兄弟の末っ子として生まれ育った「生粋の江戸っ子」である。粋な日本橋言葉を使った。筆者と対話しているときも、「長田さん」ではなく「お前さん」と親しげに話してくれた。飯田氏が好んだ時代小説や江戸落語の世界に誘い込まれたような気分になった。

戦中(第2次世界大戦中)に神奈川県葉山に疎開し、旧制・湘南中学(現・神奈川県立湘南高校)で戦中・戦後の青春時代を過ごした。石原慎太郎氏(作家、元・東京都知事)と同級生であったこともあり、第34回芥川賞を受賞し、映画化された『太陽の季節』(慎太郎氏の弟である俳優・石原裕次郎氏は、この映画で脇役としてデビュー)に登場する「太陽族」の主人公は、飯田氏がモデルであると噂になったことがある。その真偽を確認すると、「あの頃、彼とはそれほど親しい仲ではなかった。ともに海が好きだったが、一緒にボートやヨットに乗ったことがない」と、主人公モデル説を暗に否定していた。

「堅すぎず、柔らかすぎず」

むしろ、社会へ出てからの方が石原氏との交流が深まり、一緒にボートに乗ってお互い海の男を楽しんでいた。慎太郎氏は2022年2月、飯田氏と同じ89歳で先立った。人生の最後まで「同級生」だった(ちなみに、文芸評論家の江藤淳氏も湘南高校の同級生)。


(写真は2003年、撮影:梅谷秀司)

終戦直前の1945年2月25日、日本橋の家が戦火に襲われ喪失してしまったことから、飯田氏の意識の中では、「湘南ボーイ」の色が濃くなったのかもしれない。「湘南ほどいいところはない。湘南育ちはどこかのんびりしたところがあり、顔を見ればわかるような気がする」と話していたことからも、湘南愛が感じられた。とはいえ、江戸っ子のいなせな風情も備えていた。同世代の経営者は、飯田氏を「堅すぎず、柔らかすぎず」と評している。

江戸っ子と湘南ボーイのハーフらしく、スポーツも前へ突進していく、たくましくもスマートな種目に興味を持った。高校時代にはラグビー部を、学習院大学に進むとアメリカンフットボール部を創設した。誰も手掛けないから、新しい組織(部)を自ら作り上げた。社会人になってからは、日本になかった警備保障会社を創業したのだから、パイオニア・スピリット(開拓者精神)こそ、飯田氏の真骨頂だったと言えよう。

粋でスマートな資質は人柄に留まらず、経営にも反映された。男の色気を感じさせた飯田氏は「艶っぽい」、「色っぽい」という言葉を好んで使った。

飯田氏は社員を前にして、セコムの目指す形について常々こう話していた。

「下駄屋、味噌屋になっちゃだめだ。艶っぽい企業、色っぽい企業にならなくては」

決して、下駄屋、味噌屋を見下しているわけではない。飯田氏自身、江戸時代から続く老舗(酒問屋・岡永)に生まれ、「世襲経営をやっている会社にもいい所は多い」と老舗の存在に敬意を払っていた。そのうえでの発言だ。

その心は、男女を問わず、艶っぽい、色っぽいと言われる人は、必ずしも絶世の美男、美女であるとは限らない。時には、なぜ、あんなにもてるのだろうか、と不思議がられる人もいる。それは、藤本隆宏・東京大学名誉教授(現・早稲田大学大学院教授)の言葉を借りれば、「表層の競争力」と「深層の競争力」のうち、肝心要となる「深層の競争力」が見えていないだけなのだ。

セコムという社名にした理由

企業が勝ち残るためには、深層の競争力がカギとなる。競争の手の内が見えないようにするか、見えても一朝一夕にはまねられない複雑な事業が成り立つ仕組み(ビジネスモデル)を構築しなくてはならない。同時に、研究・開発など事業立ち上げから顧客に届くまで一連の事業プロセスを指す「ビジネスシステム」も深層の競争力を左右する。

「あの会社は何で儲かっているのだろうかと思われなくてはならない。何でもやるのではなく何でもできる。あまり有形のものには手を出さないが、何だって包含してしまう。だから『セコム』という訳の分からない社名にした」と言う。

ちなみに、「セコム」は、「セキュリティ・コミュニケーション(Security Communication)」を略した造語である。

飯田氏は42歳にして社長を退任している。「自ら申し出た」という。その理由は「ビジネスデザインに徹したいから」だった。

飯田氏が言うビジネスデザインとは、単なる事業構想ではなく、強い競争力を持つ事業の細部に至るまで設計したビジネスの仕組みを設計することである。値決めまで飯田氏が計算していた。今や、経営において「アート思考」が注目されているが、その先陣を切っていた飯田氏の発想力には驚かされる。

飯田氏は晩年、「ビジネスデザインできる人が欲しい」と強調していた。

「ビジネスデザインはまねられない。なぜなら、アートに近い資質が求められるからだ。名人の教えを受けた弟子が必ずしも名人であるとは限らない。それと同じだ。経営理念は伝えられてもビジネスデザインは伝えられない。これが頭の痛いところだ」と吐露していた。

独自のビジネスデザインを基に構築した現在のセコムの形を飯田氏は「国連の多国籍軍のような組織」と表現していた。

セキュリティ事業をコア事業とし、それが、防災、医療、保険、地理情報、情報通信、不動産、などの各事業が自由闊達に隣接事業と手を組み、グループ内の経営資源を無駄なくより俊敏に活用できるようにした。

「カサカサしたくない」

イノベーションは、経営資源の新結合により生まれると論じたシュンペーターではないが、大所高所から見ていれば見逃がしがちな相性の良い小さな経営資源を組み合わせることにより生まれることがある。グループ企業社長や従業員だからこそ気づく「現場の実践知」が、セコムの経営に柔軟性を与えているのだろう。さらに、これらが結合することにより、全社的なイノベーションが創造される。

営利を追求する競争力だけでは「艶っぽく」「色っぽく」ないと飯田氏は考えていた。「立派な経営の精神を実践していなければならない」と。

「行動力のある経営者はたくさんいらっしゃるが、何となく艶っぽくない。われわれはカサカサしたくない」と粋な美学を持っていた。

「艶っぽい企業」に育て上げた飯田氏を超えるビジネスデザインを構築できる人がいないとなれば、今後のセコムはどうなるのだろうか。現在、セコムでは、会長を日本銀行出身の中山泰男氏、社長は娘婿の尾関一郎氏が務めている。売上高は伸び続けているが、将来、セコムは大きく変容し、もっと「艶っぽい企業」になっているかもしれない。

「これからセコムはどのような会社になってほしいですか」と聞くと、飯田氏はこう答えた。

「若い人たちがセコムとまったく違う会社をつくればいいんだ」

飯田家は機を見るに敏な血筋である。徳川家康が江戸幕府を開くと、家康の出身地である三河(現・愛知県東部)の人々がたくさん江戸へ移り住んだ。飯田家も一族揃って移住したそうである。そして、飯田氏の曾祖父は油問屋を営み、明治になりガス灯が出現すると油に見切りをつけ、味噌、醤油、酒の小売りを始めた。そして、父の代に卸売業に転じた。

飯田兄弟も「人に雇われる身にはなるな」という父の教えを実践し、長兄の博氏は、家訓に従い岡永を継いだが、承継するだけでなく革新にも力を注いだ。1975年に、全国約120社の蔵元が丹精こめて造った良質の日本酒を、全国1500店あまりの酒販店を通して流通させるボランタリー組織「日本名門酒会」を設立。次兄・保氏は、居酒屋チェーンのパイオニアとして発足した外食のテンアライド、三兄・勧氏は、流通業界で台風の目となっている成長株のスーパー・オーケー、そして、飯田氏はセコムを創業した。飯田氏と同様、いずれの兄も人当たりの良い「商人」らしい人であり、それぞれの業界でイノベーションを起こした。

「生まれ変わったら?」という質問への答え

飯田氏のイノベーションは兄たちを凌いだ。1966年に開発した日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」だ。センサーと通信回線を利用し、異常発生時にのみ社員が駆けける機械警備である。セコム成長の原動力となった。

飯田氏は、「生まれ変わったら、どのような人生を送りたいですか」という質問に次のような「艶っぽい答え」を返している。

「アメリカで生まれたい。まずアメリカンフットボールの選手になり、次いで歌手になり、最後は事業家で締めくくりたい」

やはり、生まれながらの事業家であった。天国でどのような事業を始めるのだろうか。

合掌。

(長田 貴仁 : 流通科学大学特任教授、事業構想大学院大学客員教授)