「3つの肩書」をもつ大切さを教えてくれる元SKE48の平松可奈子さん(撮影:梅谷秀司)

「SKE48」「虹色の飛行少女」と2つのアイドルグループでメンバーとして活躍した平松可奈子。現在は、「アパレルブランドのディレクター」「舞台女優」「アイドル衣装デザイナー」「3つの肩書」で活躍している。

かつて「平凡な自分では芸能活動を絶対に続けていけない」と葛藤していた平松は戦略的に周囲との差別化を図り、自身の立ち位置を確立した。

成功をつかんだ今でも「焦り」を抱えながら、夢に向かって突き進む毎日。彼女の生き方は、私たちにとって人生の指針となる。

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「差別化」を意識してファンを獲得

平松の肩書は「3つ」ある。アイドルを卒業した現在は、自身のブランド「Chouette latte」で「アパレルブランドのディレクター」を務め、「舞台女優」としても活躍。そして、過去の経験を生かして「アイドル衣装デザイナー」としても活躍する。

SKE48にいた頃、自分のルックスや身長が152cmと小柄な体型に「自信を持てなかった」と振り返る平松は、当時から「平凡な自分では芸能活動を続けていけない」と葛藤を抱えていた。

研究生スタートだったため、「人気メンバーになるには、選抜メンバーに入るには何をするべきか」と自問自答する日々を過ごしていた。

そんな中「持っている才能に恵まれていなかった」というひとつの結論にたどり着き、活路を見出したのが「他のメンバーとの差別化」だった。

SKE48では、リリースされるシングル表題曲でパフォーマンスをこなし、音楽番組などへ出演して活躍のチャンスを与えられる「選抜メンバー」。そして、「それ以外の非選抜メンバー」に振り分けられる仕組みがあった。

人気の指標となる握手会では時間の枠を最大限までもらえずに悩む日々が続いた。そこでチャレンジしたのが「SNSの使い方を見直す」ことだった。

他のメンバーが「自身の日常を発信」しているのに対して、平松は「洋服やメイクの発信」を増やした。すると、握手会の列に彼女に憧れる女子が並ぶようになった。

気がつけば「グループ内で、女の子のファンがたくさん並ぶ場所を確立できた」と平松は当時を振り返る。

アイドル時代の苦悩の末たどり着いた「戦略」

何を隠そう、これこそが平松の強み「セルフブランディング」の技術だ。それはアパレルディレクターとしてビジネスの世界に飛び込んでからはもちろん、アイドル時代の苦悩の末たどり着いた「戦略」である。

経営者だった父は読書家で、書斎にはいつも多くのビジネス書があったという。幼いころからそんな父を目にし、いつしか自分もむさぼるようにあらゆる本に目を通し、そこで得たヒントを実践した。そして、たどり着いたのが平松のブランディング戦略だ。

アイドルとしてのポジション確立のために得た知識と行動は、後の平松を助けることになる。

2013年、SKE48から卒業。グループの活動と並行して大学を卒業した努力家でもあったが、グループ卒業後はアテもなく故郷の愛知県から上京した。

モデルの活動がしたい……。上京後、その思いを胸に前事務所へ所属した平松。しかし、当時の事務所にはファッション関係のツテがなく、自身で道を切り開くしかなかった。

カメラマンにみずから「作品撮りしてくれませんか?」とDMを送り、ツイッターでは「雑誌に出たい」「ブランドをやりたい」とつぶやき続けた。

成果は少しずつ出始め、個展モデルなどの仕事が実を結び、いつしかファッション誌『CUTiE』(宝島社)や『LARME』(LARME)から声をかけられるようになった。

その頃、「プロデューサーになりませんか?」と声をかけられたのが、のちに「人生の分岐点」だったと振り返るアパレルブランド「Honey Cinnamon」からのオファーだった。

就任後は、アイテムの企画や販路開拓、アイテム撮影用のスタジオやカメラマンの手配など、ブランド運営に関する「ほぼすべての工程」を芸能活動と並行。苦労の末に提案した、クマとウサギのキャラクターは、ブランドの売り上げに大きく貢献した。

キャラクターを用いたユニセックスのジャージは、一躍大ヒット。発想のヒントは「アイドルの経験を生かしたブランド作りを」という思いだった。

男性ファン、女子アイドルに受けるモノは何か。発想をふくらませる中で浮かんだのが、「握手会でファンの方とアイドルが同じ洋服を着て『お揃いだね』と話す光景」だった。

自身で道を切り開き、成功をつかんだ過去。今に生かされているその経験は「戦略家・平松可奈子」としての一面をよく表す。

成功の「裏側」で起きていたこと

表向きは成功を収めたかに見えた平松だったが、この頃、経済的にはまだまだ苦しい時期が続いていた。

にわかには信じがたい話だが、さまざまな事情により収入は少なく、深夜のバイトなど2つ掛け持ちしていたという。

老夫婦の営む商店での配送の詰め込みのバイトなど、アイドル時代には感じることのなかった側面での苦労を経験できたことに、今でも感謝しているという。

当然、そんなことは世間の人々は知る由もなく、平松本人も口にできなかった。

そんな苦労とは裏腹に、アイドルを卒業し若くしてアパレルブランドで成功を収めたことから、「どうせバックにいる大人の力でしょ」「支援してくれるパパがいるのでは?」などと「ありもしない噂話」に悩まされた時期でもあった。

もちろん、そんなスキャンダラスな事実は今も昔も一切ない。だが、タレントとして身なりには気を遣い、ブランド物など持てば、そのような噂が立つ日々にまた心を痛めていた。

だからこそ、アパレルでは自分がやらなくてもいいところまで参加し、ビジネスパーソンとしての成功を収めるべく奮闘した。そこからある意味「完璧主義」な平松が出来上がったと言っていいだろう。

大所帯のSKE48で過ごしていた当時から「『平凡な自分』では芸能活動を絶対に続けていけない」と危機感を持っていた。

「人気メンバーとの格差」を感じた経験から当時のことを「挫折した」と平松は表現している。そして上京後も女優としての活動をスタートするも「舞台だけでは食べていけない」と再び焦りを抱えていた。

そこで平松が芸能活動を長く続けていくためにたどり着いた答えが、「秀でたものがなくても、肩書を『3つ』持ち続ければ地位を確立できる」という仮説だった。

「秀でた何か」を「3つ」持っていれば

平松は、「肩書はいくつもあったほうが、活動を長く続けられる」と述べる。その理由を想像するのはたやすいだろう。

「肩書」つまり「自身のできること」「得意分野」を複数持っていれば、仕事の間口も広がり、チャンスが巡ってくる確率も上がる

では、なぜ「3つ」に絞るのかというと、そこには「信念がある中で、がんばれるものが3つ」だという思いがあった。

SKE48の卒業後に所属した劇団発のアイドルユニット「虹色の飛行少女」に在籍していた時代には「アイドル」「アパレルブランドのディレクター」「女優」を兼任。

のちにユニットを卒業してからは、「アイドル」の肩書が1つ減って全部で2つとなったので、過去の経験を生かして「アイドル衣装デザイナー」という肩書を増やし、また「3つ」に戻した。

20代で上京した当時は、芸能界で大手事務所のバックアップなくして、30代でも食べていけるほどの収入を確保するのは難しいと考えていた。

その頃に比べれば収入が安定したと実感できる今でも「手に職をつけなければ」という焦りはあるという。

そんな平松が成功するために行っていることに「夢日記」というものがある。「夢日記」とは平松が毎年、元日に「100個の夢をノートに書き出す日記」のことである。

たとえば、「舞台に出たい」「主演を務めたい」「2.5次元の舞台に出たい」など仕事に関わる項目はもちろん、「眼科に通いたい」といった日常のささいな願いも書き込んでいる。

「書き込んだ夢」が叶ったら、その横に「日付」を書く。その内容はファンとも共有していて、2022年9〜10月には念願だったミュージカルへの出演を果たした。

「夢が叶った日」を日記に書き込む

「夢や願いは発信すると、圧倒的に効果がある」という。

『今、何を叶えたいのか』を明白にすると、応援してくださるファンの方も一緒に目標に向かってがんばれるし、叶ったときは一緒に喜べる。絆もより深まります」と平松は話す。

『また今年も夢にたくさん日付がつけられた』と年末に伝えられたら『応援してよかった』とファンの皆様も明るい気持ちになれると思うし、私も叶えて伝えるためにがんばれます」

たしかに普段から口にしたり、目標を発信したりすることで、「ポジティブな思考」でいられるだろう。

漠然と「今年もダメだった」と振り返るより「今年もいっぱい夢を叶えられたと思えるほうがいい」というのは誰しもが共感できるはずだ。

ポジティブに物事を捉える姿勢も、かつての「挫折」を経験し、みずから道を切り開いてきた胆力の賜物なのだろう。

「人生の選択肢」も多様化している時代。肩書を「3つ」持ち、夢や願いを発信し、それに向かって笑顔で進む平松の生き方は、私たちの指針になる。

(カネコ シュウヘイ : 編集者・ライター)
(松原 大輔 : 編集者・ライター)