家父長制の国でこそハロウィンが求められる、その理由とは?

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『女の子は本当にピンクが好きなのか』・『不道徳お母さん講座』で話題の堀越英美さんによる新連載「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」。最近よく目にする「ケア」ってちょっと難しそう……でも、わたしたち大人だって、人にやさしく、思いやって生きていきたい……ぼんやり者でも新時代を渡り歩ける!? 「ケアの技術」を映画・アニメ・漫画など身近なカルチャーから学びます。第11回のテーマは、ハロウィンと家父長制。

うかれる若者とハイタッチした夜

20年前のある日、仕事帰りに最寄り駅を出ると、町は青いシャツを着たうかれた若者たちで埋め尽くされていた。2002年6月14日、日韓共催ワールドカップで日本が初めて決勝トーナメント進出を決めた日だった。職場でも大騒ぎだったから、それがすごいことらしいのはふんわり知っていた。だが、平凡な商店街までお祭り騒ぎになるとは思わなかった。いずれにしろ、サッカーについて何も知らない私には無縁な話だ。すでにあたりは暗い。早く帰ってご飯を食べたい一心でそそくさと喧噪の中を通り抜けようとすると、屋台にいた若者グループの一人に「お姉さん!今日はめでたいからおごってあげる!」と呼び止められた。サッカー話がわからなくても、タダ飯がついてくるなら話は別なのだった。

屋台でご飯をほうばりながら彼らのサッカー談義に「スゴイっすね〜」と適当に相槌をうち、オオ〜オオオオ〜オオ〜とうろおぼえのサッカー応援歌を一緒に歌い、手を差し出されたらとりあえずハイタッチをする。私のサッカー観がいくらぼんやりしていようが、誰も気にしていない。何しろみんなうかれているのだ。自分が何者であるかを一切問われず、ただ周囲と一緒に一つの話題でうかれてさえいればいい空間は、思いのほか愉快だった。自他境界がどろどろに溶け、自分も最初からサッカーファンだったような気さえしてくる。町がむやみにうかれている状況もそうだが、人見知りの自分が陽キャの集団に混じって一緒にうかれられるということにも驚いた。それまでの人生で、ハイタッチなどしたことがあっただろうか。少なくとも親戚の集いや職場の飲み会では無理だ。キャラが違いすぎて、盛り上がる前におびえられそう。

いつの頃からか、ハロウィンになるとコスプレをした大量の若者たちが渋谷に集まるようになった。佐々木隆「渋谷のハロウィンとスクランブル交差点」(https://researchmap.jp/read0039201/misc/16053627)によれば、渋谷のスクランブル交差点が若者の集う祝祭の場として象徴的な役割を果たすようになったのは、2002年のワールドカップが起点だという。この時期、スポーツカフェやスポーツバーが続々と渋谷にオープンし、日本代表の試合があるたびにサポーターたちが集うようになった。試合後に店から出てきた彼らは、勝利を祝ってそこかしこでハイタッチをする。こうした光景がメディアで報道され、うかれスポットとしてのスクランブル交差点が全国的に印象付けられたようだ。2002年という年は、路上に群れ集って知らない人々とうかれる楽しさに若者たちが目覚めた年だったのかもしれない。

やがて大晦日のカウントダウンに自然に人が集まるようになり、2016年に実行委員会が組織されてからは年越しカウントダウンは渋谷の恒例行事となった。さらにハロウィン市場が2015年以降拡大すると、スクランブル交差点はハロウィンの場としても認識されるようになる。渋谷区観光協会は、ハロウィンに仮装した若者たちが渋谷に集まるようになったのは2014〜2016年頃からだとインタビューで語っている(https://www.walkerplus.com/article/167269/)。SNSの浸透や、メルカリなどのフリマサイトで衣装を安く購入しやすくなったことも、ハロウィン拡大化に拍車をかけたようだ。

渋谷のハロウィンが盛り上がる一方で、若者たちが騒ぐ様子を快く思わない人も多い。2018年には軽トラックを横転させるなどの暴徒化がみられたほか、器物破損、痴漢、窃盗などの犯罪行為が相次いだことが報じられた。路上飲酒禁止や酒類販売自粛の要請によって暴徒化は落ち着いたものの、警備費の増大や大量のごみの散乱、地元の負担が大きいわりに地元店舗の売り上げにつながらないことなど、課題は山盛りだ。

そして今年はついに、渋谷と同じように若者たちが集まる韓国・梨泰院のハロウィンで、人並みに押しつぶされて150人以上の若者が亡くなる凄惨な事故が起きた。多くの日本人が隣国の惨事を悲しみ、哀悼の意を示すなかで、「そんなところに行くのが悪い」「自業自得」といった心無い投稿もいくつか目にした。これも渋谷ハロウィン的なものを嫌う人が多いせいだろう。

2002年のワールドカップフィーバーに図らずも便乗した身としては、人の顔がはっきり見えないたそがれどきに、いつもと違う自分になって見知らぬ人々とうかれたくなる気持ちはよくわかる。ただ、入場制限もない場に人が密集しすぎるのは、どんなイベントであれ危険と隣り合わせだ。若者たちが一か所に集結しすぎることなく、それぞれの地元で仮装パーティを楽しめれば、ハロウィンにまつわる問題のいくつかは解決するのだろう。とはいえ現状の日本では、若者が地元で渋谷ハロウィンのように楽しむのは難しいかもしれない。地域のイベントは、若者にはツラすぎるのだ。

若者の生気を奪う地域のお祭り

数年前に開催された地域行事の手伝いに、PTAとして召集されたことがあった。小学校の体育館に、PTAの母親と近所の公立中学生が各数名集められる。地域行事の労働力として中学生まで動員されるようになったのは、2006年の教育基本法改正で「学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力」の条文が新設されたことも関係しているのだろう。小学生と違い、内申に縛られている中学生は休日でも逃げられない。

町内会の偉い人らしい中高年男性が、ジャージ姿の中学生たちを指さしてこう告げた。「お母さん方! 彼らはまじめですからこき使ってください!」。勝手にオッサンの所有物扱いされた中学生の目から、みるみる光が失われていくのがわかった。中学生と同じくこき使われる立場なのに、こき使う抑圧者扱いされた母親たちの間にも不穏な空気が漂う。準備段階ですでに祭りの雰囲気じゃない。

我々はスーパーボールすくいとヨーヨー釣りのみで構成された縁日のセッティングから運営までをすべて任された。町内会の偉い人は監視のみで、実労働はしないようだ。保育園の保護者会役員時代に経験したからやり方は知っているが、保育園児ならともかく、こんなしょぼい縁日にゲームの楽しさを覚えた小学生が集まるだろうか。しかも保育園の祭はタダで遊べるが、こちらはお金を取るのだ。果たして、開始時間から30分以上過ぎても人っ子一人来ない。いったいこれは誰のための行事なのだろう。母親たちは監視の目を盗んで愚痴りだした。かわいそうなのはPTA役員の女性で、この日のために平日を何日もつぶして講習を受けさせられたという。

母親たちが我が子を呼び寄せて必死に集客したものの、午前を通してお客は延べ15名ほど。わずかな売り上げを男性に渡すと、男性はお礼だと言って我々にビニール袋にパンの切れ端をいくつか入れた鯉のエサのようなものを渡した。地元商店街のパン屋のパンを細かく切り分けたものらしい。どうせならまるごとくれればいいのに……などと文句を言う気力のある者はひとりもいなかった。我々は無言で鯉のエサのようなものを受け取り、肩にあきらめと疲労を降り積もらせながら散り散りに帰路についた。

家父長制の国の地域行事は、うかれるどころか若い人間の生気を奪う負のアウラに満ちている。というと、何を大げさな、と思われるかもしれない。だが実際、あらゆる決定権を地域の有力高齢男性が握っていて、売り上げや行政からの補助金がどのように使われているのか、無償の労働力として動員される我々には何も知らされない。子供や母親が意見を言う場もない。というより、意見を聞こうという発想すらない。地域行事に子供や母親を強制的に動員すること自体、保守政治家の思惑によるものだからだ。

2012年以降、自民党の全面推進のもと各地の自治体で制定され、現在は統一教会との関連が取りざたされている「家庭教育支援条例」には、地域行事の項目がある。地域行事に子供を巻き込んで、「健全」に育成することが、地域住民の役割として定められているのだ。

(地域の役割)

第8条 地域住民は、基本理念にのっとり、互いに協力し、家庭教育を行うのに良好な地域環境の整備に努めるとともに、地域における歴史、伝統、文化及び行事等を通じ、子どもの健全な育成に努めるものとする。

<くまもと家庭教育支援条例>より

上記の家庭教育支援条例は、家庭ではぐくむべき「他人に対する思いやりや善悪の判断などの基本的な倫理観」などが「家庭の教育力の低下」によって子供たちから失われていることから、地域ぐるみで子供たちの「健やかな成長」を支えることを目的としている(どの家庭教育支援条例にも似たような文言があるはずだ)。親も子供もダメになっているという前提のもとに地域行事に動員しているのだから、対等な存在として扱うつもりはもとよりないのだろう。

公教育も、こうした価値観を後押しする。現行の小学校3・4年生の社会科には、「地域の人々が受け継いできた文化財や年中行事」(学習指導要領)を教える単元がある。たとえば我が子が受けた教科書準拠のカラーテストの問題は、このようなものだった。

■地いきの古いもので、のこしたいもの・つたえたいものとして正しいものを2つえらび、〇をつけましょう。

ア 古くからつたわるげいのうとはべつに、一人で考えてつくりだしたもの。

イ 昔の人や今も受けついでいる人のねがいがこめられているもの。

ウ まちにつくられているさまざまなたて物の中で、人がくらしていないもの。

エ 昔から、人々の楽しみだったり、地いきのむすびつきを強めたりする大切なもの

◆地いきの祭りについて正しいものを2つえらび、〇をつけましょう。

ア 祭りにさんかすることで、人々は元気になることができる。

イ 祭りは、人々が何もしなくても、昔からつづいてきた。

ウ 祭りを通して、地いきの人々のむすびつきはつよまっていく。

エ 祭りに出るのはげきだんの人たちで、地いきの人々は見るだけだ。

教科書を読めば、■の答えはイ・エ、◆の答えはア・ウであることはすぐに導ける。だが、個人の価値観の正誤を問うような問題は、どうもすっきりしない。「一人で考えてつくりだしたもの」を、残したり伝えたりしたいと思ってはダメなのだろうか。祭りに参加して元気にならないのは間違いなのだろうか。自分の子供時代をふりかえっても、このような社会なのか道徳なのかわからないテストを受けた覚えはない。保守政治家と結託した宗教右派による、「伝統を受け継げ」「地域と結びつけ」という子供への家父長制圧力をひしひしと感じる。

このような圧にさらされた小中学生たちが若者になったら、地元のイベントなんか見向きもしなくなるのは当然だ。確かに前近代において、祭りは地縁・血縁を中心とした共同体の一員としてのアイデンティティを与える装置として機能してきた。しかしメディア(特にSNS)を通じて多様な娯楽を知った現代の若者が、退屈な行事で地域共同体に帰属意識を持つのは難しい。うかれたくなったら、学校・家庭・地域の三位一体で押し付けられる家父長制から抜け出し、おじさん・おばさんのいない都会の路上に集まるしかない。渋谷のハロウィンが流行るわけである。

祝祭を求める若者たち

若者は祝祭が好きだ。だがそれは、伝統を守りたいからでも、保守層にとって安心な「健全」な若者になりたいからでもない。近代社会で個人として生きる上で、他者が自分とは異なる個人として存在することの恐怖からひと時でも逃れ、他者との一体感を感じたいからだ。保守層が若年層を伝統に染めたがるのも、ネット等を通じてわけのわからない価値観を身につけているらしき若年層への恐怖が根底にあるのだろうから、動機としては似通っている。地域共同体の中では、若年層は有力者に逆らうことは許されず、「伝統」に従属することでしか一体になれない。だがサッカー代表選やハロウィンなどのイベントでは、個を殺す必要はない。薄暗がりの路上で同じユニフォームを着たり、仮装をするだけで、何一つ強制されることなく一つになれる。

ふだんの私たちは、路上で声をかけてきた他人と気軽に交流することはない。宗教やマルチの勧誘、悪質なナンパかもしれないし、素直についていって被害に遭えば自己責任を問われるだろう。だが渋谷のハロウィンには、仮装をした者同士気軽に声をかけあって、一緒に写真を撮ったりするような開放的な雰囲気があるのだという。普段の自分を知っている者の少ない場なら、共同体に規定された窮屈な自己から、仮装によって逃れることもできる。

『ケアの倫理とエンパワメント』(小川公代、講談社)の言葉を借りれば、ハロウィンによって若者は近代的な「緩衝材に覆われた自己」ではない、近代以前の「多孔的な自己」になれると言えるかもしれない。「多孔的な自己」においては、身を守るために築いた壁にたくさんの穴が空き、他者が入り込みやすくなる。群集がいっせいにうかれて多孔的になる場は、強制力のないゆるやかな相互ケアの実践を容易にする。ワールドカップのときの私が見ず知らずの人からおごりというケアを受け、他者の喜びに共感するというケアを返したように。

『断片的なものの社会学』(岸政彦、朝日出版社)所収の「祝祭とためらい」には、「そんな、壁によって守られ、『個人』として生きることが可能になっている私たちの心は、壁の外の他者に対するいわれのない恐怖によって支配されている」という一節がある。恐怖は他者への攻撃へとたやすく変わる。だからこそ、この社会には「他者と出会うことの喜びを分かち合うこと」が必要なのだと著者は訴える。

こう書くと、いかにもきれいごとで、どうしようもなく青臭いと思われるかもしれない。しかし私たちの社会は、すでにそうした冷笑的な態度が何も意味を持たないような、そうしているうちに手遅れになってしまうような、そんなところにまできている。異なる存在とともに生きることの、そのままの価値を素朴に肯定することが、どうしても必要な状況なのである。

しかし、また同時に、私たちは「他者であること」に対して、そこを土足で荒らすことなく、一歩手前でふみとどまり、立ちすくむ感受性も、どうしても必要なのだ。

『断片的なものの社会学』(岸政彦、朝日出版社)


一体感がほしいからといって、同調圧力や権力を使って強制的に他者の壁をぶちこわせば、それは暴力になってしまう。他者の心に踏み込みすぎることなく、他者との出会いを楽しむこと。仮装やサッカーといったワンクッションをおくことで、内面に深く立ち入るまでもなく相互ケアを楽しめるようなイベントは、まさに現代社会が必要とするものではないだろうか。

とはいえ、都市部のハロウィンは無秩序になりやすく、課題が多いことは先に述べた。密集しすぎて押し合いになったり、犯罪が多発すれば、ケアどころではなくなってしまう。渋谷ハロウィン問題に頭を悩ませる渋谷区役所広報コミュニケーション課長の杉山氏は、参加者に期待することは何かと聞かれ、試合後にゴミを拾うサッカー日本代表の日本人サポーターのようになってほしいと答えている(『ジャパニーズハロウィンの謎』松井剛編・一橋大学商学部松井ゼミ15期生、星海社新書)。

サポーターとハロウィンの暴徒は何が違うのか。2013年のワールドカップ出場決定で渋谷スクランブル交差点にサポーターが殺到して騒動になりかけた際、警視庁機動隊員が「皆さんは12番目の選手。日本代表のようなチームワークでゆっくり進んでください」などと呼びかけてトラブルが未然に防がれたことはよく知られている。同じように、若者たちの祝祭でありながら、比較的マナーが良く、秩序が保たれている場としてロックフェスが挙げられる。『ロックフェスの社会学 個人化社会における祝祭をめぐって』(永井純一、ミネルヴァ書房)によれば、ロックフェスではオーディエンスが受け身の客ではなくフェスを作り上げる「参加者」として位置づけられることにより、フェスにふさわしい規範が参加者の間で形成されてきたのだという。強制力のある共同体に属していなくても、集団の各個人に「12番目の選手」「フェス参加者」といったアイデンティティを付与し、彼らを想像上の共同体の一員として扱うのは、秩序を保つうえで有効な手段である。

しかし想像上の共同体を形成するには、集団の同質性が前提となる(ロックフェスの参加者は、一定以上の経済力を持ち合わせたコアな音楽ファンが大半だろう)。渋谷のハロウィンは知識やセンス、経済力等を問わず、良くも悪くも多様な若者たちを吸収してきたことで、ここまで拡大したイベントである。敷居の低い場だから集まってきた人々に、規範を内面化できるような共通のアイデンティティを持たせるのは難しい。アイデンティティ無き群集は、たやすく無秩序に陥ってしまう。地元に迷惑をかけることなく、できれば地元の経済を潤わせながら、多様な人々がゆるやかなケアを楽しめるイベントはないものか。

ケアと”盆ジョヴィ”

子供たちを楽しませようとあちこちさまよっていたころ、もしかしたらその答えになるかもしれないイベントを経験したことがある。ボン・ジョヴィ盆踊りだ。

中野駅前大盆踊り大会で話題になり、今ではいくつかの町でも行われているというボン・ジョヴィ盆踊り。街中開催ということもあり、参加者は若者が中心だが、ABBAやビージーズなど70年代のディスコミュージックも多く流れるせいか、中高年や老人たちも楽しそうに踊っている。小さな子供たちに、縁日でよく見る光る腕輪をプレゼントしているおじさんもいた。小さな子供たちもうれしそうだ。ボン・ジョヴィの前では、「知らない人からものをもらってはいけません」という壁も吹き飛んでしまうのかもしれない。再開発地区であるため周囲にたくさんの飲食店があり、どこも混雑していることから、経済効果もあるのだろう。参加者は踊りに忙しく、暴れる人もいない。企画発案者は、意外なことに日本民謡の家元師範である。「文化の継承にこそ、変化は必要」という思いのもと、ボン・ジョヴィ盆踊りを始めたという。

なぜそこで、伝統的な民謡でも最新ヒット曲でもなく、ボン・ジョヴィなのか。この絶妙な古さは、若者がロックに熱狂するという思春期文化が日本で大衆化した時期に関係しているのかもしれない。前回、高校紛争について調べていたときに気づいたのだが、1970年前後の高校生たちはせいぜいシャンソンやジャズ、クラッシックを静かにたしなむ程度で、若者向け音楽に熱中している姿はみられない(だからこそ、ライブでもフェスでもなく、反戦デモに集まったのかもしれない)。その後、1975年までに高校進学率は9割以上に伸び、大人に守られる子供でもなく、社会に居場所のある大人でもない若者たちが大量発生した。アイデンティティ危機に陥り、理想の自己像を求める若者たちが増加したが、学生運動はもはや吸引力を失っている。これが若者向け音楽市場が発展する土壌となり、キャッチーなロックやポップスの流行につながった。つまり、それより古い音楽だと、大多数の若者がノレる音楽ではなくなってしまうのだ。逆に最先端の音楽は素人の踊りとのギャップがありすぎるし、現役の固定ファンがいる音楽では大半が疎外感を抱いてしまう。TikTokでフィンガー5の「学園天国」やa-ha「テイク・オン・ミー」といった70〜80年代のヒット曲で踊る若者が多いのも、同じような理由だろう。

高齢者や中高年にとってはかつての青春の音楽であり、若者にとっては経験したことのない想像上の青春の音楽に合わせて踊るとき、人々は世代を超えて想像上の共同体の一員となる。現代においては、想像上の思春期、いわゆる「終わらない文化祭」こそが、多様な人々を包摂するユートピアになるのかもしれない。それはすでに「失われた楽園」であるから、老若男女の誰もが程よい距離感で盛り上がることができる。

ハロウィンも盆踊りも、あの世とこの世の境界が曖昧になる夏の終わりの暗がりで、人々が多孔的になって死者の魂をもてなすイベントである点で似通っている。ボン・ジョヴィ盆踊りが暴れハロウィンに取って代わる日も近いかもしれない。

Credit:
堀越英美