演出家を務めた「滝沢歌舞伎」でも、多くの後輩たちを指導した(写真:YouTube avex公式チャンネル「滝沢秀明 / 『滝沢歌舞伎2018』“滝沢座長& 滝沢カンパニー”ダイジェスト映像」)

鉛筆も買えず、冬でもタンクトップと半ズボンで暮らした。そんな貧しい少年が、家族を支えるためにアイドルという道を選んだ――。その後、トップアイドルとして時代を築き、そして今度は経営者として、後進を育成。そんな1人の男の“夢物語”が終わりを告げた。

終わったことで気づくことがある。もしかしたら滝沢秀明は、自分の在籍した27年分の“ジャニーズJr.”をまるごと愛し続けた唯一の人間だったのかもしれない。

大きな衝撃だった。

11月1日、滝沢秀明がジャニーズ事務所副社長および、ジャニーズJr.を育成・プロデュースする会社「ジャニーズアイランド」の社長を退任することが発表された。これは同時に、滝沢秀明が27年間所属していたジャニーズ事務所を退所することを意味する。

タレントとして、経営者として、滝沢秀明がジャニーズ事務所に残した功績は何だったのか、その人生を改めて検証してみたい。(文中敬称略)

「滝沢秀明」という奇跡

まず、「滝沢秀明」というジャニーズきっての逸材の軌跡を辿ろう。滝沢のタレントとしての活動は1995年から2018年までの間だが、この期間は大きく前期(1995年〜2005年)と、後期(2006年〜2018年)の2つに分けられる。

前期の滝沢の最大の功績は、自身のブレイクはもちろんだが、「ジャニーズJr.」という集団の認知度・人気を高めたことにある。

ジャニーズJr.」(以下、「ジュニア」)というのは、CDデビューをする前のデビュー予備軍の総称だ。滝沢以前の1980年代からこの制度は存在したが、あくまでデビューしたタレントのバックダンサーという扱いだった。1990年代に入ると、1997年に『硝子の少年』でCDデビューする「KinKi Kids」のように、デビュー前から大活躍するケースはあったものの、あくまでそれはレアケースであり、ジュニア全体の人気とまではいかなかった。

しかし、1995年に13歳で入所した滝沢は、入所後すぐに『木曜の怪談・怪奇倶楽部』(フジテレビ)といったドラマに出演するなどして、人気が沸騰。14歳の時点で、ジュニアのオーディションにて創業者で2019年に逝去した故・ジャニー喜多川の助手をしたり、面接官を務めたりすることもあったという。

16歳の頃には、ジャニー喜多川の指名により全体をまとめるリーダーの役割を果たすことになる。滝沢がリーダーを務めていた頃のジュニアは、初めてテレビ朝日系列のゴールデンタイムで『8時だJ』という冠番組を持つなど、ひとつの集団としてその人気が一気に高まっていったのである。滝沢はその中でジュニアを象徴するような存在となった。

当時のジュニアの中には、現在の「」や「関ジャニ∞」、生田斗真風間俊介といった、30〜40代の現在も事務所を支える面々が多数いる。その中でも滝沢がいかに大きな存在だったかというエピソードは、枚挙にいとまがない。

たとえば、自身もデビューを待つジュニアでありながら、1999年の「」のデビュー時には、事前にジャニー喜多川から相談を受けていた。「」のメンバーがジュニアから巣立ったことによって、今後はジュニアという存在をどのようにしていくべきか、といったことも考えていたという(TBS系列「中居正広のキンスマスペシャル」2018年12月28日放送)。

そのためか、「」がCDデビューを果たした後の2000年になっても、滝沢がリーダーで、その脇を「」のメンバーが支える『ガキバラ帝国2000!』(TBS系列)という番組が放送されるなど、しばらく滝沢が同世代以下のジャニーズを引っ張る構造は持続していた。

「櫻井翔」や「村上信五」に抱かせた思い

ちなみに滝沢と同い年で、半年遅れで入所した「」の櫻井翔は、滝沢の人気に「努力する意味あるのかな?」と戦意を喪失させるほどのものがあったと語っている(TBS系列『櫻井・有吉 THE夜会』2016年7月14日放送)。

さらには現在の「関ジャニ∞村上信五は、当時「周りには嵐とかタッキー&翼がいて、歌っても踊っても、オーラや華も全然違う」(『女性自身』2015年6月9日号)と、自分の立ち位置に悩んだという。その後、当時空いていた“ジュニア内のツッコミ”の役割を担うことを決め、それが現在に繋がっている。

「ジャニーズJr.黄金期」と言われる時代の人気を牽引した滝沢秀明。その滝沢と、周囲のメンバーは相互作用を及ぼしあってきたのだ。滝沢へのライバル意識や一種の諦念のようなものが、現在の「」や「関ジャニ∞」をつくっている。滝沢がいなければ、今の彼らは生まれなかったと言ってもいいだろう。

滝沢自身は、松嶋菜々子とダブル主演した1999年の『魔女の条件』(TBS系列)で最終回の視聴率が29.5%を記録するという社会現象を巻き起こし、2002年には「タッキー&翼」としてCDデビュー。2005年には22歳で『義経』(NHK)に主演し、大河ドラマの単独主演の最年少記録を塗り替えた。

2006年からは活動の方向性に大きな変化を起こす。

この年から新橋演舞場で、自身が主演を務める『滝沢演舞城』が開始。新橋演舞場でジャニーズのタレントが公演を行うのは、これが初めてのことだったが、2010年に滝沢が演出も務める形の『滝沢歌舞伎』となってシリーズ化した。

ここに多くのジュニアを出演させ、滝沢が後輩を直接的に育成する場所となっていった。現在の「Snow Man」のメンバーは、この舞台の常連だ。滝沢のタレント引退後の2019年からは『滝沢歌舞伎ZERO』として、彼らが主演を引き継いで現在まで続いている。

この『滝沢演舞城』はジャニー喜多川の「僕は城を作りたいんだ。滝沢の城を」という一言から始まったというが(『Top Stage』2006年3月号)、まさにこの“城”から、滝沢に師事する後輩たちが飛躍していったのだ。

タッキーの「凄すぎるウェブ戦略」

そして、現在のジャニーズを考えるうえで、もうひとつ特筆すべき“城”がある。

2010年に始まった動画配信サービス『滝CHANnel』だ。これは、滝沢秀明プロデュースによるウェブ上でジュニアの出演動画を見られるサービスである(現在は終了)。有料会員向けではあるものの、これは当時画期的なものだった。

そもそも2010年はまだYouTubeがそれほど流行っていない時代。ユーチューバーという言葉も存在せず、ウェブ動画でタレントたちがオリジナル企画を行うというのは時代の先をいっていたと言っていい。

さらに、舞台はジャニーズ事務所だ。ジャニーズは肖像権管理が厳しく、自社のタレントが表紙になった雑誌の販売サイトや、主演するドラマの公式サイトであったとしても、タレントの画像をウェブ上に掲載することを許していなかった。

2018年から徐々にウェブ掲載が解禁され、ジュニアのYouTubeチャンネルを皮切りに、翌2019年に「」、2022年には「KinKi Kids」のYouTubeチャンネルを開設。現在はウェブ展開にも積極的になっているジャニーズだが、その8年も前から滝沢はウェブ戦略を開始していたのである。

実際、2019年に開設されたYouTubeチャンネルをきっかけに、「SixTONES」と「Snow Man」の存在は広く知られることになった。彼らのデビューを目指す姿がファンの心を掴み、翌年のCDデビューに繋がっていくなど、大きく結果も残している。

2018年いっぱいで引退した滝沢は、ジュニアの育成に専念。2019年8月には、自身のジュニア時代以来、長い間開催されていなかったジュニアのコンサートを19年ぶりに東京ドームで実現させた。コロナ禍より前だったが、ジャニーズとして初めて、ライブ全編の有料配信も行った。

このライブの模様が収録されたDVDのタイトルは『素顔4』。ちなみに「素顔シリーズ」の1〜3は自身のジュニア時代にVHSとして発売されている。“夢の続き”と言ってしまうと大げさだが、自身がジュニアだった頃の盛り上がりを取り戻そうとしているようにも見えた。

「やり残してしまったこと」を叶えたかった

また、当時は今ほどデビューできる機会も人数も多くなく、同世代のデビューを尻目に諦めて退所していくジュニアも多くいた。もしかしたら、当時自分や嵐のようになれずに辞めていったメンバーのことを思い、ジュニア全員の人気を爆発させるという“やり残してしまったこと”を、叶えようとしていたのかもしれない。

ジャニーズアイランド社長就任後のジュニアの露出戦略には、「ジャニーズJr.」という場所にいるすべての才能を活かそうとする優しさが垣間見えた。それまで、テレビ出演するジュニアは、一部の人気者に限られていた。だが、デビュー目前の人気ジュニアではなくても滝沢は場を探し、与えた。

滝沢がすごいのは、それぞれのメンバーの特性を見極め、適材適所に送り込む力である。それは、ダンスや演技といった、いわゆるアイドルらしい特性だけではない。

Travis Japan」の川島如恵留(青山学院大学)、「7 MEN 侍」の本郄克樹(早稲田大学)といった高学歴メンバーは、クイズ番組に出演。「7 MEN 侍」の矢花黎にいたっては、“食が細い”という特色で「少食軍団」としてバラエティ番組に出演した。

キー局に限らず、ジュニアの露出先は地方局の番組にまで及び、この3年間で、ジャニーズの番組以外でジュニアを見かける機会は格段に増え、その種類も多様化していった。もちろん、その場はYouTubeをはじめとするウェブにも波及している。

各々の個性を活かす――わかりやすい成功例が「Snow Man」だろう。デビュー時点で、それぞれのキャラクターができあがっており、バラエティ番組はもちろん、高身長のラウールにモデル業、現在『silent』(フジテレビ系)で高評価を受けている目黒蓮には俳優業、アニメオタクの佐久間大介にアニメ声優etc……と、各メンバーの特性を活かして活躍させた。

ジュニア時代は、バックダンサーとしての仕事が多く、年齢的には後輩の「King & Prince」の人気にも押され、トップジュニアとは言い難かった「Snow Man」。しかし、2022年のCDの売上枚数で言えばジャニーズの中でもトップクラスの人気タレントに育ったのは、滝沢の手腕に負うところが大きいのは言うまでもない。

思えば、ジャニー喜多川もそれぞれの個性を見極める力に長けていた。まだ10代の頃から「ユー、歌がうまいね」「ユーはおしゃべり」とそれぞれの特性を見極めていた。氏を真横で見てきた滝沢はそれを引き継ぎ、かつその特性を活かせる場所を見つけること・つくり出すことにも尽力してきたのだろう。

新社長・井ノ原は「ジャニーズイズム」を引き継げるか?

それほどまでに存在感の大きかった滝沢。その後を任されることになった元「V6」の井ノ原快彦はどうだろうか。新社長就任のインタビューで、井ノ原は「Jr.の気持ちはわかるけど、『俺たちの頃は…』とは言わない」と発言している(「サンケイスポーツ」2022年11月1日)。

実は11年前、まだタレント活動をしていた頃の滝沢が、同じようなことを発言している。「Jr.と話すときには絶対に『オレのときはこうだったんだよ』って言い方はしないようにしてるんだ。絶対に自分の考え方を押しつけないようにしようって気をつけてる」(『POTATO』 2011年8月号)。

ふたりとも同じ思いを持っていた。歴史を繋いでいく責任感を持ちながらも、自分たちの成功体験を後輩に押し付けない。伝統と革新の絶妙なバランスを取り続けるのが「ジャニーズイズム」なのかもしれない。

ただ、そう言葉にするのは簡単だが、そのバランスをとるのは一朝一夕にはいかないだろう。

やはり、滝沢の様々な偉業の根底にあったのは、自分の人生を180度変えてくれた、恩師・ジャニー喜多川への恩義と、「ジャニーズJr.」という集団への愛だったように思う。ジャニー喜多川、そして仲間や育成した後輩たちと愛を持ってつくり上げた“城”を、滝沢は後にすることになった。

2009年に発売され、滝沢が自ら作詞したソロシングル曲『愛・革命』は、最後にこう締める。

これ以上 見つめ合ったら 叶わないのさ 革命

“愛の強さゆえに成功しない革命”を、滝沢は予期していたのかもしれない。

※『愛・革命』作詞:滝沢秀明、作曲:滝沢秀明・Mark Davis・Tim Larsson・Johan Fransson・Niklas Edberger・Tibias Lundgen

(霜田 明寛 : ライター/「チェリー」編集長)