大富豪の道楽? 超巨人機「ハーキュリーズ」そして伝説へ-1947.11.2 なぜ最初で最後の飛行に
オレゴン州で保存・展示されている世界最大の飛行艇H-4「ハーキュリーズ」。同機が初飛行したのは、いまから四半世紀前のことですが、初飛行までには紆余曲折があったそう。第2次大戦終結の前後に起きたゴタゴタを振り返ります。
三四半世紀前に誕生した史上最大の飛行艇
1947(昭和22)年11月2日、アメリカ西海岸カリフォルニア州のロングビーチハーバーで、巨大飛行艇H-4「ハーキュリーズ」が初飛行しました。その大きさは、まさに「巨体」の一言です。機体サイズは全長66.65m、翼幅95.51m、高さ9.27mあり、これら数値は「ジャンボジェット」の愛称で知られるボーイング747旅客機よりも大きく、主翼幅でも世界最大の輸送機であったAn-225「ムリヤ」(88.74m)を上回っていました。
翼幅に限定するならば、2019年に初飛行した巨大双胴機スケールド・コンポジッツ・ストラトローンチが登場するまでは史上最大の機体であり、水上機に限定すればいまだに世界最大の大きさを誇ります。
このように、あらゆる点で規格外の巨人機が、なぜ半世紀以上も前に作られたのでしょうか。そこには当時の歴史的な背景と、航空史に名前を残した有名人の存在がありました。
オレゴン州にあるエバーグリーン航空博物館で展示されているH-4「ハーキュリーズ」。手前の見学者と比べれば、その大きさが実感できる(布留川 司撮影)。
ことの始まりは第2次世界大戦中の1940年代前半まで遡ることができます。当時、アメリカはヨーロッパでの戦いを遂行するなかで多くの物資を海上輸送していましたが、それらはドイツ海軍の潜水艦「Uボート」の脅威下で、文字どおり決死の任務に就いているような状況であり、その被害は「沈められる船が建造される輸送船よりも多い」と形容されるほど甚大でした。
そこで当時の造船王であったヘンリー・J・カイザーは、潜水艦からの攻撃を受けずに高速で移動できる飛行機に注目し、滑走路が不要でかつ輸送量を増やした大型輸送飛行艇を考えます。そして当時、航空業界で名が知られていた実業家、ハワード・ヒューズが率いるヒューズ・エアクラフトに協力を求め、1942(昭和17)年11月にヒューズが設計と開発を行い、カイザーが量産を分担して行うことで契約を結びました。
ヒューズとカイザーのイニシャルを取ってHK-1という名前になったこの機体は、兵士なら750名、戦車なら30tクラスのM4「シャーマン」2両を運ぶことを想定していました。
生みの親ヒューズが嫌った愛称「スプルース・グース」
しかし、規格外の巨大飛行艇の開発は難航します。当初の予定では10か月で機体を完成させるつもりでしたが、そのスケジュールは大きく遅延。結果、1944(昭和19)年にはカイザーが計画から撤退したことで、以降の開発はヒューズとその会社が単独で行うことになり、名称もH-4「ハーキュリーズ」に変更されました。
1947年にロングビーチで水上滑走するH-4「ハーキュリーズ」飛行艇(画像:アメリカ連邦航空局)。
機体の製造が進み飛行機としての形になったのは契約から約4年経った1946(昭和21)年6月のこと。テストを行うカリフォルニア州ロングビーチのドックで最終組立が行われます。ただ、その後に飛行艇として飛ばすための細部の調整に長い時間が必要であり、この機体の組み立てが終わり機体を水面に浮かべられたのは、さらに1年以上も経った1947(昭和22)年11月のことでした。
完成したH-4「ハーキュリーズ」は、出力3000馬力のプラット・アンド・ホイットニー製R-4360レシプロエンジンを8基も搭載。それで駆動するプロペラは4枚羽根で、その直径は5.2mもありました。胴体内部は3層構造になっており、最上段はコックピット、最下層は燃料タンクなどが設置されています。
さらに驚くべき点は構造材で、これほどの大型機であるにも関わらず、本機には木材が多用されていました。これは本機が戦時下で開発されたため、厳しい物資制限によって当時、航空機の主要材料であったアルミニウムが使えなかったからです。そのため、新聞などでは「スプルース・グース」というニックネームで呼ばれることもありました。スプルースとはマツ科の針葉樹のひとつで、要約すれば「木製のガチョウ」という皮肉めいた名前となります。
加えて、完成までに多大な時間が費やされた結果、世間の注目度に比例するかのようにネガティブな印象が増えており、この飛行艇が実際に飛べるかを疑問視する声も多かったようです。前出の「スプルース・グース」というあだ名も、当時の世相を反映したものといえるのかもしれません。ちなみにヒューズ自身はこのあだ名を嫌っていたそうです。
初飛行の時間はわずか30秒
ネガティブな横やりは政界からも入れられており、1947(昭和22)年7月にはヒューズ自身がアメリカ議会の国防計画調査委員会の公聴会に召喚され、H-4「ハーキュリーズ」を含めた一連の軍用機開発について、軍部と癒着しているのではないかとの嫌疑が掛けられました。
これはヒューズ個人が疑われたというよりも、戦時下での兵器調達の問題点がアメリカ議会での政争の具として利用された事の方が大きく、実業家として世間の知名度が高かったヒューズがそのやり玉に挙げられたという側面もあったようです。
パワープラントとしてH-4「ハーキュリーズ」に8基搭載されていたプラット・アンド・ホイットニー製R-4360レシプロエンジン(布留川 司撮影)。
ただ、強烈な個性の持ち主で自信家でもあったヒューズは公聴会で議員の質問に対抗し、その過程で「(ハーキュリーズで)もし失敗したら、私はこの国を離れて二度と戻ってこないでしょう」と宣言してしまいます。こうして、H-4「ハーキュリーズ」の初飛行は、開発計画だけでなく一人の実業家の運命をも左右することになりました。
こうした外野の騒ぎをよそに、1947(昭和22)年11月2日、H-4「ハーキュリーズ」は初飛行に成功します。操縦桿を握っていたのは、この機体の飛行達成に自らの人生を掛けたヒューズ自身でした。
しかし、この時の飛行記録は高度25フィート(約7m)で飛行距離はわずか0.5マイル(約800m)、飛行時間は30秒程度という短いもの。しかも、これ以降「ハーキュリーズ」が空を飛ぶことはありませんでした。
そのため、同機が航空機として実用性を持ち合わせていたのかについては疑問を呈する意見も多く、この機体に対する評価が定まっていない一つの理由にもなっています。
とはいえ、前述した巨体ゆえに今でもその名を航空史に刻み続けているのも確かだといえるでしょう。2022年現在、H-4「ハーキュリーズ」はオレゴン州にあるエバーグリーン航空博物館にて屋内展示されています。
世界最大の水上機は館内の中央にまさしく「鎮座」する形で公開されており、現地で見るとその存在感に圧倒されることは間違いないでしょう。
※一部修正しました(11月2日7時45分)