「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第25回 森徹・後編 (前編から読む>>)

 知る人ぞ知る「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫る連載企画。1958年、早大から中日ドラゴンズに入団した森徹(もり とおる)さんは、2年目で本塁打、打点の二冠王になりながら、61年に就任した濃人渉(のうにん わたる)監督と対立してチームを追われてしまう。

 68年、その実力からすれば早すぎる33歳で現役を引退した森さんは、その翌年、思わぬかたちで球界に復帰した。"地球規模のプロ野球リーグ"として北・中南米で創設された「グローバル・リーグ」に参加する日本人チームの選手兼監督に就任したのだ。人呼んで、東京ドラゴンズ──森さんによれば、正式には「ハポン・デ・トキオ」という名だった球団は、いったいどのような存在だったのか。



1969年、「東京ドラゴンズ」の森徹監督(右)は疲れた表情でベネズエラから帰国(写真=共同通信)

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 中日、大洋(現・DeNA)を経て東京(現・ロッテ)でプレーしていた森さんを悲運が襲ったのは、67年シーズン半ばだった。成績不振の戸倉勝城監督に代わり、中日時代に険悪な関係だった濃人渉監督が新たに就任し、またもや顔を合わせることになったのだ。

 "因縁の相手"から徹底的に干され、出場機会を失った森さんは、68年、ほとんど試合に出ないままシーズン終了後にあっさりと現役を引退した。

「それでもう、辞めたあと、ほかの仕事を始めてたんだけど、次の年、昭和44(1969)年の2月に、カイザー田中(元・阪神。戦前に活躍したハワイ出身の捕手)からグローバル・リーグの話がきた。何でオレのとこにきたのかはわからない。でも、よし、これだ! と思ったね。野球が嫌で嫌でしょうがなくて辞めたわけだけど、グローバル・リーグがもう一回、オレを野球に対して振り向かせてくれた。

 で、柳川事件から8年も経ってたけど、依然としてプロ・アマは断絶状態だった。さっき言ったように、それはオレの責任でもあるんだなあ、というのがあったから、後輩のために再生の場はつくっておくべきじゃないか、と。そういう気持ちで引き受けたんだよ」

 ここまで聞いてきた話が一気につながった。自身と監督との確執が中日の強引な補強、すなわちプロ・アマの断絶を引き起こした柳川事件につながったと感じる森さんにとって、グローバル・リーグは「再生の場」だった。凝り固まっていた年表上の球史が、音を立てて氷解していくように感じた。

「まずね、最初は1チームなんだけど、将来は日本から2チームつくるという。東京と大阪でね。だからドラゴンズなんて名前は付けなかったんだけど、そうすると少なくとも50人の選手がだね、プロ辞めた選手しかり、これからという選手、あわよくば大リーグを目指したいという選手が、そこを踏み台にして挑戦できる。

 あるいは、本当に第三のメジャーとして発展したら、それはまたそれに越したことはないし。そういう意味もあってね、どうしてもあれは成功させたかったのね」

 グローバル・リーグにはアメリカ2チーム、ベネズエラ、プエルトリコ、ドミニカ共和国、日本の5ヵ国、6チームが参加。日本のハポン・デ・トキオは監督の森さんを筆頭に、投手10人、捕手2人、内野手6人、外野手6人。元プロ野球選手は16人で、それ以外は入団テストに合格した社会人、大学、高校野球出身者だった。

「出発するまでは大変だった。いろんな雑誌や新聞に"あぶれ者軍団"だとか書かれてね。〈監督は今までの不遇に飽き足らず、一旗揚げようと思って危険を承知で引き受けた〉とか、〈山師だ〉とか何とか。よくあれだけ勝手なこと書けるよな、と思ったよ。日本人の島国根性なのか、他人が成功を目指して新しいことを始めるのが悔しいんだね。それで失敗したら喜ぶ」

 69年3月31日。総勢25人のメンバーが、キャンプ地のフロリダ州デイトナビーチに向けて羽田空港から飛び立った。空港では家族や友人たちからの「バンザイ」の声に送られたそうだが、マスコミは最初から最後までグローバル・リーグを好意的に伝えなかった。解散になって帰国したときは、鬼の首を取ったようだったという。

「それ見たことかと、またまた新聞、雑誌が書き立てた。でも、そんなんじゃないよ、と。行った連中はとにかく野球やりたい、やりたいんだ! と。行く前にね、リーグが資金面で揉めたときがあって、『おまえらを危険な目に遭わせたくないから、チームを解散してオレはもう監督降りる』と言ったんだけど、みんなに引き留められた。

『いやいや監督、降りないでくれ。必ず頑張るから連れてってくれ。挑戦させてくれ』と。みんな必死になって、切実たる声で『お願いします』と訴えてきた。それで『よし、じゃあ、どうなるかわからんけどやってみるか』と」

 デイトナビーチでのキャンプを経て4月21日、チームはベネズエラの首都カラカスへ飛んだ。3日後、ベネズエラ対日本の開幕戦、2万8000人収容の球場は満員に近い入りとなった。ただ、開幕戦以外は動員が落ち込み、運営面に悪影響を及ぼしたという。

 ともあれ最初の2試合、日本は連敗したが、その後は2連勝し、ひとつの負けをはさんで勝ち続ける。チームの成績はよかったのだ。

「そう。試合に勝てるもんだから、みんな、だんだんと自信持ってきてね。ただ、キャンプやってるときはどうしようかと思った。ベネズエラ、プエルトリコ、中南米の選手の体の能力、強さには素晴らしいものがあったから。

 打つのも投げるのもパワーあるし、第一にみんな足がものすごく速い。こらあ、ヤバいな、と思った。ヤツらに対して、このメンバーじゃ勝てそうにないと思った。それで、まず、選手たちをどうやってレベルアップするかと考えた」

 森さんは指導者として、選手たちをマンツーマンで強化していった。柔道、武道の経験を生かして、フットワークを鍛えるために合気道を採り入れるなど練習に工夫をこらし、重心の高い選手がいれば相撲の四股(しこ)を踏ませたという。木刀を使って、バットの握りや手首の使い方を教えたこともあったそうだ。

 今でこそ、武道を採り入れているプロ野球選手はいるし、相撲の四股も野球界で注目されているが、当時にすればかなり先進的な取り組みだったと言えるだろう。

「彼らは本当に一生懸命、取り組んでくれた。だから急激に進歩した。なかには向こうで格段にうまくなったヤツもいる。こいつら、何で日本の野球でクビになったんだ? と思うぐらい。で、それだけ練習できたのも、みんな瀬戸際に立たされて、ギリギリの状態で来て、精神的に強かったからだと思うよ。

 オレは初め、相手にスパイクされたり、ぶつかってこられたりして腰が引けるのを心配してね。『野球で負けてもケンカで負けたら、おまえら、ただじゃおかねえぞ』と。『それぐらいの気がないと勝てないぞ』と気合いを入れたんだけど、そういう面でもみんな気持ちが強かったから、腰引けるヤツはいなかったね。それは嬉しかった」

 結果、日本チーム、ハポン・デ・トキオはリーグ解散となる前の5月16日までベネズエラ、プエルトリコ、アメリカを相手に通算11試合を戦い、7勝3敗1分という成績だった。

「わずかな試合数だったけど、よく戦った。体の強い連中と真っ向から戦った、というだけで誇りを持てる。勇敢だったよ、みんな。チームに報酬が出ない、しまいには食事さえも出なかったようなグローバル・リーグだって、一応、プロだもんね。そこに飛び込んだんだから。

 なかには変わりもんもいたよ。ホントにいろんなタイプがいたけど、オレは全然、気にならなかった。やっぱり、みんな自分の大事な選手だと思っていたし、監督を引き受けたときから不公平なくやろうと思ってたからね」

 不公平と言えば、森さん自身は、濃人監督に干される憂き目を見ていた。いざ選手を率いる立場になって、自分自身は同じようなことはやらない、という意識で臨んだのだろう。

「そう、そこを戒めてね。だいたい、オレも変わりもんだったから、クビになったわけでね。はっはっは」

 自虐的な笑いが飛び出したあと、グローバル・リーグ解散の顛末が語られた。森さんは選手たちを無事に帰国させるためにあらゆる手を尽くし、策を講じた。リーグからの要請を受け、日本での試合開催実現に向けて一度は帰国していた森さんだったが、自費で再び現地に戻った。

 リーグはその時点で森さんを解雇していたが、「日本では選手と監督は親子の関係なんだ」と契約関係なしに最後まで選手の面倒を見た。もしも森さんがプロ野球チームを率いたら、必ずや「親分肌の監督」と呼ばれていただろう。それにしても、森さんと濃人監督の確執、柳川事件、グローバル・リーグ、すべてがつながっていたのに何も知らなかったと痛感させられる。

「まあ、オレがグローバル・リーグを引き受けた本音は、今まであまり伝わってなかったから。その本音はね、うぬぼれた考えかもしれんけども、オレが彼らを立派に再生してやる、オレは自分が仕えた首脳陣とは違う、というような意気込みだよ。

 好き嫌いで選手を使ったり、指導力が貧弱だから伸びる選手も伸びないでつぶされたり、そうじゃない、今に見てろ、と。それがグローバル・リーグという場だったんだけど、失敗した」

 リーグは失敗はしたが、森さんは時代を先取りしていたと思う。今や、毎年のように日本人メジャーリーガーが誕生し、海外でプレーすることが珍しくなくなっている。その状況を考えると、1960年代に日本人だけのプロチームを率いて海外で試合をしたこと自体、先見の明があったと言えそうだ。

「何事も新しいものには失敗や危険がつきまとうけど、誰かが先鞭をつけて挑戦しなきゃいけない。それがたまたま、我々だった。だから今、日本の選手が海を渡ったり、独立リーグができたりして、誰だって失敗するかもしれないのに、誰も何も言わないでしょ?」
 
 1995年、周りに批判されながらも野茂英雄(元・近鉄)がメジャーリーグに挑戦し、成功してからだろうか。マスコミも世間も、新たな挑戦はすべて応援する姿勢になっているような気がする。

「うん。もう応援が当たり前になってきた。そういう面じゃ、野茂はよく頑張ってくれた。でも、その前に、我々が行ったあとからずーっとね、マイナーリーグから挑戦していった日本人はいた。その流れは延々と続いてきたし、自分自身もね、あのとき、グローバル・リーグでは十分に果たせなかった選手の指導を、36年過ぎた今、OBクラブで発展させていこうとしてる。

 プロOBに技術も理論も勉強してもらって、OBの中から日本全国、あるいは極東をはじめとして、世界に立派な指導者を送り出せるようになりたいなあ、という希望があるんだよね」

 グローバル・リーグは超短期間で消滅してしまったが、今も指導者育成という部分で続いている、ということだ。

「続いてるし、これからも続く。今、自分が委員長の立場で力入れてやってる〈指導者認定制度〉を確立させていきたい。で、将来は必ず、野球にとって本当にグローバルな時代がくる。いずれは中国からもいい選手がどんどん出てくるんじゃない? そういう時代がきっとくる」

 つい2週間前、2012年のロンドン五輪から野球競技が除外されることが決まった。森さんの発想を聞いていると、そんなマイナス要素も小さく感じられる。

「ああ、オリンピックでかえって野球がローカルになっちゃったもんな。『地球規模で見たら、野球はローカルだ』と判断されたわけだよね。ダメだよ。それならそれでけっこうだ。将来は日本シリーズのあとにアジアシリーズをやって、それから海を渡って、太平洋を挟んで真のワールドシリーズをやる!」



晩年はプロ・アマ交流に尽力した森さん。2014年に逝去

 それだけの未来像を描いている森さん。あらためて、日本の野球界の現状をどう見ているのだろうか。

「これからも独立リーグみたいなのはいろいろ生まれるだろう。四国リーグもそのひとつだよ。ああいうものがあちこちで産声を上げる。で、そのうちに淘汰される。で、最後はグローバルになる。もうローカルなんかじゃない。本当の意味で世界的にメジャーなスポーツになる。だって、また何か、速い飛行機、造ろうとしてるんでしょ?」

 1ヵ月ほど前、日本とフランスの航空宇宙工業会が次世代機の実現に向けた共同研究を開始した、と報道されていた。それは超音速輸送機で、実現した場合、日本からロサンゼルスまで3時間ほどで着くと予測されているという。

「そうなったらもう気候的に考えても、日本が冬になったらオーストラリアは夏だから、パッと試合やりに行ける。南米はいつでもあったかい。それだけ速い飛行機が飛んだら、野球にオフシーズンはなくなるよ。それこそ、地球の裏側のベネズエラだってさ、6〜7時間で着いちゃうんじゃない?」

 森さんはそう言って両腕を目一杯に広げ、ニヤリと笑った。

(2005年7月21日・取材)