長期化する戦争はどこへ向かうのか――(写真:Praximon/PIXTA)

2月24日に始まったロシアによるウクライナへの侵攻。長期化する戦争はどこへ向かうのだろうか? 「いま、もっともすぐれた知性」と目される歴史家のニーアル・ファーガソン氏は、この戦争をどう分析するのか? 今回、5月に邦訳が刊行された新著『大惨事(カタストロフィ)の人類史』に収録された「日本語版刊行に寄せて」(2022年3月執筆)より、一部抜粋・編集のうえ、前半に引き続いてお届けする。

正真正銘のファシスト

3月16日にロシア国民に向けてプーチンが行った演説を観た人は誰もが気づいて身震いした。私たちが今渡り合っているのは、不器用ではあっても計算高いソ連時代のゲーム理論家でもチェスプレイヤーでもなく、正真正銘のロシアのファシストなのだ。


ロシアは「社会の自己浄化」を実施し、「ろくでなしや裏切り者」を駆除するべきだと断言することで、プーチンはロシア国内で粛清が行われることをはっきりさせた。

なにしろ、悪いのは内部にいる背信の第5列に決まっており、けっして独裁者その人ではないのだ。

その時点まで、私は核兵器や化学兵器を使うというプーチンの脅しははったりだと考えがちだった。この脅しが効いて、バイデン政権はポーランドのミグ戦闘機をウクライナに提供するのを思いとどまった。

だが、今や私は、プーチンが掩蔽壕からどんな命令を下しかねないか、本気で心配しはじめている。

通常兵器を使う軍事行動をなんとか継続させ、切羽詰まったプーチンの焦りを和らげることを可能にするものが仮にあるとすれば、それは中国による支援だけだろう。

ロシアが中国に武器と糧食を求めたために、アメリカの国家安全保障問題担当大統領補佐官ジェイク・サリヴァンは中国の外交担当トップ楊潔篪(ヤン・ジエチー)に、ロシアが西側諸国の制裁をかいくぐるのを助けようとする中国企業があれば、その企業自体も制裁の対象となる、と脅しをかけた。

この脅迫が中国を躊躇させたのか、それとも、プーチンの肩を持つことを促したのかは、まだ知りようがない。もし中国がロシアの戦争遂行努力の梃入れをすれば、攻囲戦がずるずると続くだろう。

最後に、西側の各国民の慢性的な注意欠如障害も懸念される。私たちは今、燃え尽きたロシア軍の戦車や、ウクライナのTB2無人攻撃機の動画といった、ぞっとするものの思わず見入ってしまう映像や、ゼレンスキー大統領の感動的な演説などに釘づけになっているが、これほど強い関心をどれだけ長く抱き続けられるだろう?

ドイツの有権者の89パーセントは、ウクライナの人々のことが心配だ、あるいは、非常に心配だ、と言っている。だが、エネルギー供給の中断についても66パーセントが、ドイツの経済状態の悪化についても64パーセントが同じように心配している。

世界は今、1カ月前よりもなおいっそう深刻なインフレ問題を抱えており、国内の日常生活に直結する問題はたいてい、はるか彼方の国々の危機に優先するものだ。

私たちはあとどれだけ長く注意を向けていられるだろうか? もしキーウの攻囲戦が何週間もだらだらと続いたら? あるいは、停戦が実施され、それから破綻し、再び実施されたとしたら? はたまた、ドネツク州とルハンスク州の境界をめぐる交渉があまりに退屈なものになったとしたら?

「歴史が転換し損なった歴史の転換」

イギリスの歴史家A・J・P・テイラーは1848年の革命を「歴史が転換しそこなった歴史の転機」として切り捨てたことで有名だが、要するに私は現状がそれと同じことになりはしないかと恐れているのだ。

つまるところ、キーウが陥落しても、民族の政治的独立がロシアの戦車によって蹂躙された最初の首都とはならない。1956年のブダペストや1968年のプラハを思い出してほしい。

そして、私たちの当初の憤りが薄れ、無力感に変わり、やがて記憶から抜け落ちたとしても、それはけっして初めての出来事ではない。

フランシス・フクヤマは1989年の盛大な「諸民族の春」を思い出しているが、私は1979年以来感じていなかったほどの大きな恐怖を感じている。

1979年というのは、イランが騒乱に包まれ、ソ連がアフガニスタンに侵攻し、アメリカのジミー・カーター大統領が悪性インフレに途方に暮れているように見えた年だ。

では、あの年からはどんな教訓が得られたのか? 西側諸国には強力なリーダーシップが必要である、というのがその答えだ。

現在クレムリンにいる独裁者が核戦力をちらつかせたときにも揺らぐことのないリーダーシップ、自由のためのウクライナの闘争が、じつは私たちの闘争であることを思い出させてくれるリーダーシップ、独裁主義の帝国は、周辺の小国を呑み込みながら欲望を募らせていくという、歴史の重大な教訓を指摘するようなリーダーシップが必要なのだ。

1979年は、マーガレット・サッチャーがイギリスの首相に選ばれた年であり、ロナルド・レーガンがアメリカの大統領に選ばれる前年でもあったのは、偶然ではない。

戦争を長引かせてもいいのか

ウクライナの戦争はまだ終わっていない。ロシアはまだ打ち負かされてはいない。プーチンはまだ権力の座から引きずり降ろされてはいない。

ロシアの殺人マシンを止め、この争いに終止符を打つためにしなければならないことは、まだ山ほどあるし、私たちの行動が図らずも戦いを長引かせてしまいかねない筋書きも多数ある。

アメリカの政策立案者のなかには、戦争が引き延ばされるのを望んでいる者もいるのではないかという印象さえ、私は受けている。戦いが続けば、「ロシアは力が尽き果て」、プーチンの失脚につながるだろうと勘違いしているのだ。

イギリスの劇作家アラン・ベネットの戯曲『ヒストリーボーイズ』では、オックスフォード大学への進学を目指す田舎の生徒の1人が、教師に歴史を定義するように言われる。「しょうもないことのたんなる連続」と生徒は答える。より厳密に言えば、歴史は惨事のたんなる連続のように見えることもありうる。

次の大惨事がどんな形を取るのかも、どこを襲うのかも、私たちには確かなことは言えない。

その惨事が疫病であろうが、戦争であろうが、何かその他の災難であろうが、始まってからわずか3週間では、どれほど大きくなり、どれほど長引くかは知りようがない。

また、どの社会が惨事に最も効果的な対応を見せるかも、予見することはできない。惨事が独創的な対応を引き出すこともある一方で、成功は自己満足を招きがちだ。

惨事に翻弄されるかどうかは私たち次第

1970年に、アメリカの作家ジョーゼフ・ヘラーの小説『キャッチ=22』の映画版が公開された。シナリオライターの1人のおかげで、映画には原作になかった次の台詞が加えられ、それが有名になった。

「被害妄想を持っているからといって、誰かにつけ狙われていないとはかぎらない〔訳注 原文は「Just because you’re paranoid doesn’t mean they aren’t after you.」で、「心配性の人の心配がすべて杞憂とはかぎらない」とでも意訳できる〕」。

私はこれが、本書『大惨事(カタストロフィ)の人類史』の核心を成すメッセージでもあると考えるようになった。

ありとあらゆる形と規模の惨事が私たちを本当につけ狙っている。惨事に対する最善の備えは、過去2年間に西側世界全体で新型コロナによってこれほど多くの命を犠牲にした種類の、官僚機構による見せかけの準備ではない。

また、惨事に襲われるたびに、特定の主義や党派に偏った見解を人々に押しつけても、何の役にも立たない。むしろ私たちは、ヘラーの作品に登場する第2次世界大戦中の爆撃機の搭乗員たちが感じていた類の共通の被害妄想をたくましくするよう、努めなければならない。

ただし、惨事への私たちの対応は、『キャッチ=22』の主人公ジョン・ヨッサリアンの諦観ではなく、その正反対のものであるべき点が異なる。

惨事は必ず起こる。だが、その避け難い運命にどれほど翻弄されるかは、私たち次第だ。それこそ、ウォロディミル・ゼレンスキーが私たちに思い知らせてくれたことなのだ。

(翻訳:柴田裕之)

(ニーアル・ファーガソン : 歴史家)