※この記事は2019年06月06日にBLOGOSで公開されたものです

北京で大学生を中心に起きたデモ運動を、当局が武力で鎮圧した天安門事件から6月4日で30年となった。この事件について、中国を専門とするルポライターで、ノンフィクション書籍『八九六四』の著者・安田峰俊氏は、あの学生運動を肯定する側も否定する側も「紋切り型」の視点で語られることが多かったと指摘する。

同書で安田氏は、中国や日本国内はもちろん、タイや香港・台湾などアジアの各国で天安門事件に関わりのある60人以上を取材。これまでに語られることのなかった貴重な証言をまとめた内容が高く評価され、第50回大宅壮一ノンフィクション賞と第5回城山三郎賞受賞をW受賞している。天安門事件とはなんだったのか、そして現代に同じような出来事が起こらないのはなぜなのか、安田氏に聞いた。【取材:島村優、清水駿貴】

「紋切り型」で語られてきた天安門事件

-大宅賞受賞、おめでとうございます。『八九六四』で天安門事件について掘り下げて書いたきっかけはどんなものだったのでしょうか?

天安門事件は、非常にタテマエ的な評価が下されがちなんです。中国共産党が「反革命暴乱の鎮圧」と規定しているのはある意味で想定内の話だと思いますが、いっぽうで民主化運動にシンパシーを持つ側の「悲劇的な結末を迎えた『正しい民主化運動』」という見解も、やはり紋切り型の解釈だと思ったんですよ。

もちろん、私たち西側の視点から見るなら、民主化運動は「正しい」し、それを武力で鎮圧した共産党政権が「悪い」……と、ここまでは当たり前です。しかし、「正しい」はずの民主化運動が、その後30年間の中国でちっとも盛り上がらず、天安門のデモのような現象が再び起きなかったのはなぜなのか? 考えてみると、すごく不思議な話ですよね。

-書中に登場するインタビュー対象者は合計22人で、それそれ番号が振られています。天安門事件について語りづらさを抱えている人もいるように思いました。

端的に言えば、事件に対して真摯に向き合っている人ほど、語りづらそうです。「トラウマが強すぎるから」と正式な取材を断られた人もいます。取材に応じてくれた人も、30年前の事件にもかかわらず、それでも涙ぐんだり興奮したりする。本文の登場人物ですと、11番の王戴、12番の凌静思、22番の石平がそれに該当しますね。

一般には「反中系」評論家のイメージがある石平さんの、天安門事件への思い入れについては意外に思われる人もいるでしょう。私自身もあまりにも驚かされて、今年5月22日付けで『「天安門」三十年――中国はどうなる?』という書籍を別途に出したほどです。版元は歴史教科書問題などで悪名高き育鵬社ですが(笑)、内容は正しく『八九六四』のスピンアウト書籍です。

-なるほど。

逆に、事件に対して真摯でない人ほど事件について語ることに抵抗感がなさそうです。語ることに心理的な障壁がない。例えば、4番の魏楊樹や7番の呉凱は、若い頃は民主化運動にシンパシーを感じたけれど、その後は体制に順応して社会的成功を得た人たちです。彼らは「いまから考えれば鎮圧はやむを得なかった」と言い切っていて、それゆえに当時の話をすることにも、悩みや苦しさは感じられません。

デモ運動が「世界を変える方法」だった

-同じような運動が起きない理由については、どう考えていますか?

現在の中国に、当時のデモの背景になったような要因がなにひとつ残っていないことですね。端的に言えば、運動に参加したような当時の中国の若者というのは、貧しくて汚くて不自由でヒマだった、しかし正直で純粋で、社会に対して問題意識を持つことを正しいと考えていた。現在はすべてが逆です。

当時の中国の大学進学率は2.5%程度にすぎず、学生運動の中心になった人たちはごくごく一握りのエリート知識人やその予備軍でした。「自分が世界(祖国)を変えてやる」みたいな、選良ゆえの自負も強烈に持っていた。いっぽう、社会主義色の強い時代でしたから、当時の彼らはキャリアの多様性も娯楽の種類も極度に少なかった。

やや乱暴な言い方をすれば、社会で最高レベルに賢くて、しかも若くて行動力のある人たちが全員ヒマな状態に置かれていた。彼らは「夢(=民主化)を語ること」しか、やることがなかったんです。だから、デモがあれだけ拡大したとも言えます。

昔の日本の学生運動にも通じる部分がありますが、運動の中心は難しいことを考えているエリートでも、その周りにはお祭り気分でやってきた人も相当大勢いました。理由はなぜかと言えば、その当時の社会では他に面白いことや刺激的なことが何もなかったからでもある。

しかも、バリバリの社会主義体制が残っていた、ある意味で牧歌的な時代なので、労働者が仕事をサボってデモに行ってもクビになりません。学生のデモ隊が街を占拠していても「交通の邪魔だ」「仕事に遅れる」などと怒る人もほとんどいなかった。

-天安門当時、中国のエリートが「夢(=民主化)を語ること」しかやることがなかったというのは、どういうことでしょうか?

別の角度から説明しましょうか。中国には昔も今も「自分が世界を変えてやる」みたいな夢を持つ意識の高いエリートがいっぱいいます。ただ、そういう人が取り得る選択肢のチャンネルが、30年前は学生運動しかなかったわけです。海外渡航は不自由だし、学問研究のレベルは低かったし、経済活動についても民間企業の経営すらハードルが高い時代でしたから。

でも、現代の中国の意識の高いエリートは、他にも選択肢がいっぱいあります。極論、「世界を変えたい」人は、学生運動をやらなくてもシリコンバレーなり深圳なりに行けばいい。自分のキャリアをフイにしたり、一生にわたって当局に見張られたりするリスクを背負わなくても、本人が有能であれば世界を変えることが可能になっています。

そこまで意識が高くない人でも、いまは娯楽がたくさんありますし、自己実現の方法も多い。SNSを見て動画サイトに投稿してソーシャルゲームで遊んでいれば、学生運動をやらなくても十分に面白くて刺激的です。皮肉に聞こえるかもしれませんが、日本でも事情は似たところがあるかもしれませんよ。

事件前のデモは「民主化運動」ではない

もうひとつ大きな要因があります。1980年代の中国では、学生が「民主」や「自由」を掲げて体制改革を求めるデモをおこなう行為は、政治的にひとまず容認されており、社会的にも感心な行動だと思われていました。

当時は中国共産党自身が政治改革の必要性を認識しており、党内の改革派を中心に一定の民主化を進める方針を示していましたから、それを要求する学生運動は、実は与党的な行動だったんです。だから、みんな安心して加わった面がありましたし、最期のギリギリの段階まで本当に武力鎮圧されるとは考えていなかった。

しかし、現在の中国でこうした運動は、政治的にも社会的にも絶対的なタブーとみなされている。与党的な行動をやりたがる人は大勢いますが、タブー的な行動をあえてやりたがる人は、常識的に考えても決して多くありません。

-天安門当時、学生運動が失敗した理由についてはどう思われますか?

実は天安門のデモは要求内容が非常に“あやふや”なんです。後世の歴史では「民主化要求運動」とか「反体制運動」みたいに思われていますが、実際の要求内容は全然具体的ではなかったですし、実はかなり“ショボかった”。

例えば今年6月4日付けの朝日新聞に天安門リーダーの王丹の談話が載っているのですが「当時我々が要求したのは小さなことでした。一つは政府との対話。もう一つは我々の行動を『動乱』と規定したことの撤回です」と言っています。なんと、デモ隊は政治改革すら要求していなかったわけなんです。もちろん、デモ現場では「民主」や「自由」を求める声は上がっていましたが、それらが何を意味するかも定義されていませんでした。

ちなみに、「民主」という言葉を語ること自体は、現在の中国でもまったくタブーではありません。今の習近平政権が掲げる「社会主義革新価値観」というイデオロギーにも「民主」という言葉が入っています。単に、西側の国家の私たちがイメージする「民主(≒議会制民主主義体制)」と、中国人がイメージする「民主」の認識にズレがあるだけです。

中国における民主という言葉は、特に断りがない限りは「(正しい為政者のもとで)民が大事にされる政治」くらいの意味でしかありません。天安門の学生が要求していた「民主」も、実質的にはそのくらいの内容だったと思われます。共産党体制の存在を前提に、もっといい政治をおこなってくれ、という要求です。

-中国共産党体制の打倒を求めていたわけではないんですね。

運動の最終盤になってから「共産党打倒」の声も出ていていたようですが、公的なメッセージとしては一切出されていませんし、リーダーたちも体制の打倒を考えていた人はほぼいなかったはずです。当時の為政者である李鵬や蠟小平の辞職・引退を求めるメッセージもありましたが、こちらも途中から出てきたもので、運動の最初から一貫して言われていたことではなかった。

ただ、デモが長引くにつれて段々と主張もエスカレートして、政府と対決的なハンスト作戦が取られたりもしました。政府側との対話も物別れに終わり、政権内の改革派だった趙紫陽も失脚した。学生側も当初の穏健派ではなく急進派が主導権を握るようになった。

こうなると落とし所がないわけで、政府側もどう対応すれば分からなくなる。もっとも、その回答として「軍隊の投入」という凄まじい解決手段が選択されたのは、中国共産党ならではと言うしかないですが……。

事件後に経済改革が進み、習近平が再び締め付け

-『八九六四』では、天安門事件の後に、中国国内で経済優先の考えが加速したことにも触れられています。

かつての中国は非常に貧しい国でした。一種の俗説ですが、文化大革命の終結直後の時期には、三国志の時代の水準にまで経済が落ち込んでいたとも言われています。ゆえに1980年代の中国共産党は、なんらかの改革の必要性があることを認識していた。

方向性はふたつです。ひとつには経済改革。それまでのような統制経済を脱却して、市場経済をある程度は取り入れていかないと世界から立ち遅れる、という懸念ゆえのものです。もうひとつは前出した政治改革です。これは経済改革と表裏位一体で、社会の風通しをある程度はよくしないと経済が発展しないだろうと思われていた。

当時、民主主義体制を取る西側諸国が経済面でも東側諸国(社会主義陣営)を圧倒していましたから、民主主義と自由経済のセットこそが、成功する国家の条件ではないかと見られていたのです。

-両方の改革が必要だとされていたんですね。

そうなんです。しかし、天安門事件によって改革派が失脚したことで、中国共産党は政治改革をタブー視するようになりました。

なにより、天安門事件で共産党が被ったダメージは非常に大きかったんです。諸外国から武力鎮圧を強く非難されて経済制裁も受け、国民からの信頼も地に堕ちた。ですから、中国共産党は「二度と天安門事件のような騒ぎはごめんだ」という考えだけは強固に持っています。そして、天安門のデモの原因は政治改革を検討したせいだというわけです。

ただ、天安門事件後の中国では、政治改革を凍結させたまま、経済改革はガンガン進めていくという蠟小平の路線がとられます。これは政治以外は自由にさせるということでもあります。体制に文句さえ言わなければ、従来の社会主義体制ではタブーだった起業や投資をおこなっても構わないし、移動や職業選択の自由も拡大していったわけですね。

ただ、この流れは蠟小平の死後も江沢民・胡錦濤に受け継がれていったのですが、胡錦濤体制下ではネットの普及に伴って、政治的な言論空間もかなり広がってしまいました。2012年に習近平が総書記になってからは、「自由を与えすぎた」ということなのか、こうした社会生活の自由化にも一定のストップがかけられるようになってきています。

-そうなんですね。最後に改めて『八九六四』とはどのような本か教えてください。

中国ライターが天安門事件について書くのは王道であって、何のヒネリもありません。野球ライターがイチローの評伝を書くようなものです。ただ、企画としてはシンプルなんですが、ゆえに書き手の基礎体力が必要になる。それを愚直にやったことが評価してもらえたのかな、と。

ただ『八九六四』は、「民主化は正しい」「中国は〇〇すべきだ」といった、従来の新聞報道や他の中国関連書籍のようなメッセージが希薄です。なので、一部の年配の方や特定の政治的な立場に立つ人には「けしからん」「シニカルだ」と怒る人がいますし、そうでなくてもヒネった内容だと感じる人は多いようです。

確かに、民主化運動に翻弄されて人生が壊れた人も普通に登場しますし、元リーダーの王丹やウアルカイシの話を「つまらない」とか平気で書いています。ただ、自分としては事実や取材者として感じたことを淡々と記述したつもりでしかありません。

天安門事件という王道のテーマについて、中国人のリアルな肉声をそのまま書いただけで、著者の私が「ひねくれ者」のように思われてしまうのは、従来の日本における天安門関連言説が、それだけ「紋切り型」だったことを示しているのかもしれません。ぜひ手にとって読んでみてください。

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか
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